立ちはだかる壁
三ヶ月が経った。
二人はまた、トレーニングを再開していた。四三が走るのを、悉乃が自転車で追いかける。この日常が戻ってきたことが悉乃は嬉しくて仕方がなかった。
夏休み以来、父親に会ったのは年末年始の休みの時だったが、また四三に会っていることは内緒にしておいた。
トレーニングが終わった後いつもの土手に寝ころぶと、悉乃は苦々しげに言った。
「最初から、黙っていればわからなかったんですわ。夏休みの時は間が悪くお父様が学校に来てしまったけれど、普段は私が学校で何をしていようが興味なんてないもの」
「ばってん……」
四三が困ったような顔を浮かべた。もちろん、四三が良かれと思って悉乃から距離を置き、オリンピックに向けて一人努力していたのは悉乃にもわかっていた。
「冗談ですわ。ありがとう。そういうところが、四三さんのいいところだと思いますもの」
「そ、そぎゃんですか……?いやぁ、あの時は、本当にびっくりしたばってん。悉乃さんのお父さんに啖呵をきってしまったし、どぎゃん恐ろしいことが起こるか……って、すいまっせん、人様の親御さんをそんな風に」
「いいの。本当のことですもの」
悉乃はクスクスと笑った。
実際、悉乃がこうして四三と一緒に自転車で東京の町を走り回っているなんて知ったら、また何を言われるかわかったものではなかった。ただでさえ、文信は以前にも増してピリピリしていた。悉乃の縁談が見つからないと嘆いている。なにぶん、悉乃は次の四月には女学校の最高学年に達してしまうのだ。倉橋たちのように、いかに卒業前に嫁いで退学するかということに重きが置かれていた中、何もないまま卒業を迎えてしまうのは不名誉この上ないことなのである。
「ああ、嫌だわ。次の春からは卒業顔、なんて言われるのよ。結婚できないのは別に構わないけれど、卒業顔はやっぱりね」
「卒業顔?」
「卒業まで貰い手のない器量の悪い女だってことですわ」
「つ、悉乃さんは器量の悪い女じゃなか!」
慌てて言ったかと思うと、四三はすぐに照れ臭そうに俯いた。悉乃はそんな四三を見てどぎまぎと所在なさげに川の方に視線をやった。
「そ、それより、オリンピックの方は?無事に代表に内定したって、新聞に書いてありましたわ。出発はいつになりますの?」
無理矢理話題を逸らすと、今度は四三の顔が曇った。
「そのことだけんど……」
四三はハアとため息をついた。
***
一週間前、四三は東京高師の校長室に呼び出された。
「見たまえ金栗くん。新聞にも出ておるぞ」
得意げな笑みを見せ、校長の嘉納治五郎は新聞を差し出した。
四三はその新聞を見て顔面蒼白になった。
全国紙の、比較的目立つところに「瑞典オリムピック マラソン競技に東京高師金栗正式に内定」という見出しが躍っていた。
予選会では夢中で走っていたから実感が湧かなかったが、改めて新聞で自分の名前を見て、事の重大さに打ち震えた。
日本を代表して、世界の大舞台で戦う?自分が?負けたら、どうなるのだろう……
「負けたら、切腹ですか……?」
「はっはっは、君は明治生まれだというのに大した気概だな。もちろん、今はそんな時代ではない。切腹などしなくてもよい」
「ばってん、日本中の期待ば背負うてオリンピックに出場するなんて、俺にはできません……」
「金栗くん」
嘉納はつかつかと四三に歩み寄り、バシンと肩を叩いた。
「日本は、初めてオリンピックに参加するんだ。まずは、参加することに意義がある。君が礎となり、今後に続く選手たちへもつながるように、先陣を切るのが、君の役目だ。これを逃せば、次は四年後だぞ。日露戦争に勝って、日本国民の中には欧米に肩を並べたつもりでいる者も多いが、まだまだだ。スポーツの面でも、これからは欧米に負けないようにしなければならんのだ。頼む、金栗君。君が日本スポーツの黎明の鐘となってくれ」
四三は、ポロポロと泣いていた。走ればいいのだ。勝っても、負けても、日本のために、日本の未来のために、自分はただ走ればいいのだ。
「わかりました、嘉納先生!不肖、金栗四三、ストックホルムで黎明の鐘ば鳴らしてきまっす!」
「うんうん、その意気だ」
嘉納は快活に笑い、四三の肩をバシバシと叩いた。
「それでだな、金栗君」
嘉納が告げた言葉は、四三の高揚した気持ちを一瞬で萎えさせた。
「渡航費、現地での滞在費、しめて千八百円程になるが、自費で行ってもらうことになるから、そのつもりで」
千八百円。公務員の初任給が五十円と言われていたこの時代である。
――そんな大金、集められるわけがなかぁ……
という愚痴は、悉乃には言わないことにしていた。悉乃に相談したところでどうにかなる話ではない。どうにかなるとしたら、悉乃がまたスリを働くとか……そんなことには万に一つもならないとは信じているが……とにかく、無茶をさせかねないと思っていた。
「何かあったんですの?」不思議そうに尋ねる悉乃に、四三は「そうだ」ともう一つの悩みを打ち明けることにした。
「洋行するのは初めてばい。西洋の食事に慣れろちゅうてナイフとフォークの扱いば練習しよるけんど、いっちょんようならん。言葉も多少は勉強しとるばってん、やっていけるかどうか……出発は五月ばい。あと三ヶ月しかなか」
いささか弱音を吐きすぎただろうか、と四三はたちまち後悔し、なんだか恥ずかしくなってきた。世界記録を出して、悉乃にまた会えるようになって、尊敬する嘉納に激励されて。このところ少し有頂天になっていたのが、脆くも崩れていくような気持ちだった。
だが、悉乃の言葉は、四三の予想に反していた。
「それなら、一緒に練習しましょう!こう見えて、女学校のお育ちのいい子たちに引けを取らないようにって、テーブルマナーは叩き込まれているんですの。なんだか嬉しいわ。ようやく四三さんのオリンピック行きのお役に立てるんですのね」
四三は目を丸くして悉乃を見た。悉乃は「善は急げ、ね。今日はもう門限が近いから、来週行きましょう。場所は考えておきますわ」と、確かに嬉しそうな顔をしていた。
「悉乃さんは……とっくに俺の役に立っとるけん。練習のタイムも計ってくれよるし……」
「それだけでしたわ。私はスウェーデンについていって応援する事はできないから、日本でできることはなんでもしたいんですのよ」
さらりと言ってのける悉乃の笑顔に、四三はどぎまぎしてしまって、なんの言葉も返せなかった。
ただ、もう弱音を吐くのはやめよう、と思った。
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