羽田予選会④

 先ほどの初老の男が、四三の体を抱きとめた。

「よくやった!金栗四三君!世界記録だ!君こそがオリンピック代表選手だ!」

「はあ、はあ、嘉納かのう先生……ありがとうございます……」

 悉乃は、その様子を黙って見ていた。目の前に、四三がいるのに、なんだかとても遠く感じられた。

 悉乃が四三と会う時は、いつも二人だった。こんなに大勢の人に囲まれて歓声を浴びている様子を、見たことがなかった。なんだか急に、四三が遠くに行ってしまうような気がした。否、四三は本当に遠くに行ってしまうのだ。遙か北欧の、ストックホルムに。

 嘉納と呼ばれた男に支えられながら、四三はゆっくりとした足取りで控え所へと歩き始めた。その様子を心配そうに見守る悉乃に、ついに四三が気づいた。

「悉乃さぁん、来てくれたとね」

 周囲にいた全員の視線が、悉乃に向けられた。悉乃はなんだか小恥ずかしくて息を呑むことしかできなかったが、キヨが気を利かせてくれた。

「あら、皆さん、あちらをご覧なって!次の選手の方が見えてますわよ!」

 皆の注意がそちらへ向いた。本当だ!頑張れ!と言いながら再び競技場の中心に群衆が向かっていくのと同じくして、四三は力尽きたようにその場に崩れ落ちた。

「か、金栗さん!?」

 四三の元に残っていたのは、悉乃と嘉納だけだった。

「大丈夫か!金栗くん!」

「ああ、大丈夫ですったい……なーん、二十五マイルも走ったんは初めてだったけん、さすがに疲れたばい」

「金栗さん、こんなの、聞いてないわ。こんなに過酷だなんて、生きているのが不思議なくらいよ」


 途中で脱落した者はさらに増えていて、最寄りの駅から汽車や人力車で向かっているという情報もあった。本当に、過酷なレースだったのだと思うと、悉乃は安堵からか目頭が熱くなるのを感じた。

 そんな悉乃を見て、四三は「ははは」と気が抜けたように笑った。

 後続の選手たちも次々と競技場に戻ってくる。嘉納はそちらの出迎えに行ってしまい、とうとうその場には四三と悉乃だけが残されてしまった。

「悉乃さん、聞いたばい?俺、世界記録だけん。悉乃さんにふさわしか男になれたとね?」

「それ、あの手紙の……」

「悉乃さんのお父さんに『娘に近づくな』て言われたとでしょう。確かに俺は実家が金持ちというわけでもないし、熊本から出てきたばっかりの田舎者たい。そぎゃん、悉乃さんに近づくにはひとかどの人間にならにゃいかんと思うて、練習してきたとです。一位を目指してがんばってきたばってん、まさか世界記録まで叩き出せるとは思うてなかったばい。いやあ、自分でも驚いたばい」

「そんな……」

 悉乃はもう、感情を抑えられずぽろぽろと涙を流した。自分のために、そこまで。

「つ、悉乃さん?」四三は慌てて体を起こした。いつだか悉乃が四三の前で泣いてしまった時に見せたのと同じ、心配そうな表情を浮かべている。

「ごめんなさい……嬉しくて……ありがとう、金栗さん。あなたが私にふさわしいかどうかなんて、そんなこと考えるまでもありませんわ。とんでもない。私の方が、よほどあなたに釣り合わないわ……」

「まーたスリのこと引き合いに出すとね?そのことはもう気にせんでよかて言うとるでしょう」

「ええ。……そうでしたわね」

「そぎゃんしたら、また、俺と一緒に走ってくれんね?」

 悉乃は、涙をぬぐった。そして、心からの笑みを浮かべた。

「もちろんよ、四三さん」

 ずっとこうして、二人で話していたかった。話題など、なんでもよかった。だが、後続の選手たちが続々と悉乃たちのいる場所に来てしまったので、二人は渋々別れた。

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