羽田予選会③


 マラソンは正式には二十五マイルを走る競技だそうで、競技場を出たあと横浜方面まで走って折り返して戻ってくるという。最初の選手が戻ってくるまで三時間はかかるだろうということで、悉乃たちは寒風吹きすさぶ競技場でひたすら待つほかなかった。ちなみに三島弥彦目当ての女学生たちは、寒さに耐えかねてさっさと帰ってしまった。

 悉乃とキヨは空いた最前列の席に移動した。前の方は簡単な屋根が設けられていたので、傘を閉じてぼんやりと誰もいない競技場を見つめた。

「二十五マイルも走るなんて、すごいわよね」悉乃はぽつりと言った。何かしゃべっていなければ気がおかしくなる寒さだ。

「そうですわね。汽車も市電もあるのに横浜まで自分の足で行くなんて考えられませんわ」

「こんな雨の中、金栗さんは大丈夫なのかしら」

 二人でトレーニングをした時は、いつだっていい天気で、暖かい初夏の陽気で。悉乃はだんだん心配になってきた。気づいたら拳を握っていた。


***


 その頃四三は、折り返し地点を過ぎ、息を切らせながら一歩ずつ歩を進めていた。自分で編み出した呼吸法――二回吸って、二回吐く――があったのだが、それもこの長距離では無意味なのではないかと思えた。足ももつれそうになる。加えて、雨で視界も悪い。履物は底が破れ、裸足になっている。石が当たって、痛みに顔をしかめる。もう、ダメかもしれない。

 それでも、完走しなければ。四三はそれだけを胸に走り続けていた。

 ふと、悉乃の顔が脳裏に浮かんだ。一番になれば、認められるだろうか。

 数メートル先に一人、さらにその数メートル先に一人。どのくらい時間が経ったのかも、自分の前には何人いるのかもわからなかったが、とにかくその二人を抜かしてやろうと、四三はスピードを上げた。


***


 悉乃は持っていた懐中時計を見やった。ようやく二時間が経った。ひたすら待つだけの二時間は、恐ろしく長く感じた。一時間は経ったろうと思っても三十分しか経っていないというのが何度もあっての、二時間経過である。

 これまでに時々、競技場に男が駆け込んできていた。彼は伝令係のようで、入場する度に観衆は「一着のランナーか!?」と沸き立ったが、伝令係とわかると「なあんだ」と息を漏らした。そんなことが三回か四回も続くと、皆「また伝令か」と思って動じなくなっていった。

 悉乃たちのいる所には、伝令係が運営委員たちに大会の様子を伝える声が聞こえてきた。なんとこの雨で体調を崩し落伍した者もいるらしい。悉乃は、ますます不安になった。

 二時間三十分が経った。速い者なら、あと二十分か三十分で戻ってくるはずだ。この頃になると、もう皆待ちくたびれて無言になっていた。

 すると、また競技場に走りこんでくる男が現れた。例によって伝令係だろうと悉乃はぼんやりとその様子を眺めていたが、運営委員たちの「来た!誰だあれは!?」という声にハッとして目を凝らした。

 四三だった。雨に濡れて、ハアハアと息を切らせながらも、確かな足取りで走ってくる。

「がんばれ金栗君!ゴールはもうすぐだぞ!」立派な口ひげを蓄えた初老の男がグラウンドの中に走っていった。先ほど短距離に出ていた三島も、ゴールテープを持ってグラウンドに躍り出る。

「悉乃さん!行かなくていいの!?」キヨが悉乃の肩を叩いた。

「えっ、でも」

 あれは関係者以外立ち入り禁止なのではないか、と悉乃は思ったが、周囲の観客も立ち上がって駆け寄ろうとしていたので、悉乃は頷いてキヨと一緒にグラウンドへ飛び出していった。

 ゴールテープの周りに悉乃や他の観客が集まった。悉乃とキヨは人をかき分けて、最前列を陣取った。キヨは間近で三島弥彦の姿を拝めたことに興奮しているのか、チラチラとそちらを気にしている。

 歓声がひときわ大きくなる。悉乃は、近づいてくる四三の顔を見つめた。あの時と、初めて自分の目の前を過ぎ去っていったあの時と、同じだった。疲れの中にも、楽しそうな、満足げな表情が浮かんでいる。

 最後はややふらつく足どりで、四三はゴールテープを切った。

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