羽田予選会②
当日は、生憎の雨模様だった。
朝方はまだ小雨がぱらつく程度であったが、競技場へ着く頃には傘をささないと濡れてしまうほどになっていた。
悉乃とキヨは一般客、と書かれた座席の前から三列目に座った。時間には余裕を持って出発したつもりだったが、最前二列分はもう埋まっていた。
観客が選手に直接会いに行くことはできなかったので、四三の姿を見るためには、この観客席からグラウンドへ目を凝らすしかなかった。しかも、まずは短距離百メートル走の予選ということで、待てど暮らせど四三が現れる気配はない。もちろん、長距離走の予選に出るとは聞いていたのでそれも当然なのだが、悉乃の気持ちははやるばかりであった。
雨にもかかわらず会場がそこそこ埋まってきた頃、突然きゃあっと黄色い歓声が沸き上がった。悉乃はついに四三かと思って身を乗り出したが、違うようだった。キヨが他の女学生たちに混ざって「三島さーん!!」と叫んでいる。悉乃が雑誌で読んだ時は確かに審判として参加、と書いてあった三島弥彦が、短距離の予選が始まるとなると、他の選手と並んでスタートラインに立っていた。
「三島さん?ってあの雑誌に出ていた?審判がどうしてあそこにいるんですの?」
「わからないわ。どちらにせよ、三島さんの走りが見られるなんて!来た甲斐があったわ!」
本当に、キヨはいったいどうしてしまったのかという驚きと共に、悉乃も一応グラウンドに視線を戻した。パーン!とピストルの音が鳴り、びっくりして目を瞑る。そして開けた時には、もう走者たちは半分ほどまで走っていた。それから三つ数えるかどうかといったわずかな時間で、先頭を走っていた男がテープを切った。わあっとさらに大きな声が上がる。
「すごいわ!どうしてだかはわからないけど、三島さんがオリンピック出場よ!」
「そういえば、オリンピックって何ですの?」
悉乃が尋ねると、キヨはあっと困惑したような顔をした。
「私も詳しくはわかりませんわ。なんでも、スウェーデンのストックホルムという町で今日みたいな競技会をやるんですって」
悉乃はここで、事の重大さに気づいた。四三がスウェーデンに行ってしまう?無事に帰ってこられるのだろうか。自分の父親だって何度か洋行に出たことはあるし、都度無事に帰国しているが、なぜだか急に船が沈むんじゃないかとか、異人に取って食われてしまうのではないかとか、あるはずのない心配事が脳裏をよぎった。
三島という男は次の二百メートル走にも出場するようだ。再び競技場が歓声に包まれる。その歓声が、悉乃には遠く聞こえた。
短距離走の予選が終わって(結局三島弥彦が一位総なめでオリンピック代表選手に選ばれた)、長距離走の番がやってきた。
悉乃は祈るような気持ちでグラウンドを見つめた。
選手たちがスタートラインに立った。雨脚は強くなってきた。先ほどの短距離と違って大勢の選手がごちゃごちゃと並んでいたせいか、客席からは一人一人の選手の顔までは判別できなかった。どれが四三なのかわからない。
スタートを知らせる号砲が鳴った。応援をしに来たはずなのに、悉乃はいつしか四三が負けることを祈っていた。
悉乃の気持ちをよそに、選手たちは競技場を飛び出していった。
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