羽田予選会➀

 夏休みが明けると、本当にクラスの三分の一が学校をやめていた。

 寿退社ならぬ寿退学。それが、女学生の目標であり、名誉であり、ステータスであった。

 あの倉橋とその取り巻きも良縁に恵まれ学校を去っていたのは、悉乃にとっては朗報中の朗報であった。先に嫁げて羨ましいという気持ちは微塵もなく、とにかく彼女たちがいなくなってくれたことに対する安心感でいっぱいだった。


 こうして悉乃の学校生活には平穏が取り戻されたわけだが、一つだけ、心が晴れない出来事があった。

 ぱったりと、四三に会えなくなってしまったのである。悉乃は文信から四三に会うことを禁止されていたが、そんな言いつけは破る気満々であった。バレなければいいだけのことである。問題は四三からの連絡が途絶えてしまったことにある。

 一度だけ、手紙のやり取りをした。悉乃が、夏休み前の父の非礼を詫びる内容の手紙を先に送った。返ってきたものにはこう書いてあった。

 ――俺が悉乃さんの友人としてふさわしい人間になるまでは、会わん方がよかと思います。

 おそらく四三は文信の言葉を悉乃が思っているより重く受け止めてしまっているのだろう。最初に送った手紙に続いて「気にしなくてもいい」ということを返す手紙の中でも伝えたが、それから返事が来ることはなかった。四三が走っていそうな場所に行ってみたりもしたが、会えなかった。


 そんな悉乃に、四三からようやく便りが届いたのは、十月の半ばだった。

 なんでも、十一月に羽田でマラソンの大会があるから、もし都合がよければ見に来て欲しいと書かれていた。なんだか勝手な話だなと思いつつも、四三と連絡が取れたことに対する安堵が勝った。そして。

「追伸……?」

 手紙の最後に悉乃は目をやった。そこには、こう書かれていた。

 ――お友達のキヨさんにもよろしくお礼をお伝えください。

「キヨさん、金栗さんがお礼をお伝えくださいと書いてきているのだけど、何のことかおわかり?」

 キヨはやや顔を赤らめ「金栗さんたら、そんなわざわざよろしかったのに」と小さく言った。

 いつの間に?何があったの?と悉乃は俄かに胸がざわつくのがわかった。聞きたくないような気もするが、聞かずにもいられない。

「実はね、金栗さんが学校に来たあの時、倉橋さんに少し……啖呵を切ってしまったんですわ」

「キヨさんが?」

 キヨは詳しい顛末を話してくれた。悉乃の知らないところでそんなやりとりが繰り広げてられていたなんて、驚くやら、くすぐったいやら。そして、少しでももやっとした気持ちを抱いたことを悉乃は恥じた。

「ありがとうキヨさん!!」

 悉乃はがばりとキヨに抱きついた。

「悉乃さん、いいんですのよ。私だって言いたいことを言えてすっきりしたんですから」

 キヨはクスクスと楽しそうに笑っていた。この友人が大好きだ、と悉乃はしみじみ思った。


「ところで、私もその大会、見に行きたいと思っておりましたの。ちょうどよかったですわ」

「キヨさんが?大会のこと、知っていたんですの?」

 悉乃が尋ねると、キヨはいそいそと机の引き出しから一冊の雑誌を取り出した。

「悉乃さんてば、金栗さんからとっくに聞いてるんだと思ってましたわ」キヨは言いながら、雑誌を広げた。そこには「瑞典スウェーデンストックホルムにてオリムピック競技大会開催。羽田運動場にて予選会を実施することが決まった」という記事が載っていた。その見出しを見せた後、キヨはやや左下に載っている写真を指し示した。悉乃はその写真をまじまじと見て、横に書かれている説明書きを読み上げた。

「『審判・東京帝国大学三島弥彦氏、他』……誰?」

「まあ、やっぱり知らないのね。今時分、三島さんを知らない女学生はいなくてよ。走らせれば誰よりも速く、野球をやらせれば誰よりも球を遠くへ飛ばせる、万能選手。彼見たさに羽田に行こうという人は男女問わず多いんですわ」

 いつの間にキヨがそんなことにそこまで詳しくなっていたのだと悉乃は驚いた。なんだか今日はキヨへの印象ががらりと変わる出来事が多い。キヨは心なしか、いや、明らかに、顔をやや紅潮させて楽しそうな顔をしている。

「……キヨさん。婚約者の方の機嫌を損ねますわよ」

「あら。それはそれ、これはこれですわ」

 キヨは夏休みの間に縁談がまとまっていた。相手は華族の御曹司で、キヨの方が一目惚れしてしまったという好青年だそうだ。

 どちらにせよ幸せそうなキヨを見ているのは悉乃にとっても喜ばしいことだったので、「まあ、キヨさんがそう言うなら」と言って 悉乃はもう一度雑誌に視線を落とした。

 ――ここに行けば、金栗さんに会えるのね。  

 万が一父親に大会へ足を運んだことがばれても、これならば「目的は四三ではないし、クラスの皆で行こうということになって」と言い訳することができる。渡りに船だとばかりに、悉乃とキヨは羽田へ向うことに決めた。

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