最悪の夏休み

 悉乃にとっては、地獄のような夏休みだった。

 寄宿舎でひとりのんびりと読書をしたり、自転車であちこち出かけたりして気ままに過ごすつもりだったのに、浅岡の屋敷でほぼ父の監視下で生活する羽目になった。

 あの時、もっと父と戦えばよかった、と後悔した。四三がそうしてくれたように、反論して、抵抗して、梃子でも動かないぐらいのつもりで学校に残ってしまえばよかった、と思った。しかし、それも今だから言えることで、あの時は「掏り稼業に戻らなければならなくなるぞ」の一言が、効いた。

 せめて今からでも父に一矢報いようと、悉乃は「原則として屋敷の敷地外に出るべからず」という言いつけを逆手に取り、食事の時以外自室から一歩も出なかった。おかげで学校の宿題は早々に終わってしまって、読書くらいしかすることがなかったのだが、内容がほとんど頭に入ってこない。見合いが破談になったということが、これから自分にどういう影響をもたらすのか、悉乃には皆目見当がつかなかった。ひょっとしたら、本当にこの家を追い出されるかもしれない。冷静に考えれば今ならある程度の学問知識や和裁・洋裁の技術も身に着けたことだし、どこかで下宿しながら奉公に入れば少なくとも食べていくことはできるかもしれない、なんてことを考えていた。

「悉乃お嬢様、夕食の時間ですよ」ノック音と共に、女中の声がした。

「どうしても行かなくちゃ駄目?」悉乃はドア越しに尋ねた。数日に一回は同じ質問をしている。

「旦那様のお言いつけですから」返ってくるのはいつも同じ答えだ。悉乃はふう、とため息をつくと、読んでいた本を無造作に置いて立ち上がった。


 広いダイニングで、ナイフとフォークを操り、無言で食べ物を口に運ぶ。ここに来た当初はどうしてこんなもので食事ができようか、と思ったものだが、今では慣れた手つきである。

 出される食事は、学校で出るそれよりも高級な食材で作られていることはわかったが、不思議とおいしいとは思えなかった。キヨたちと他愛もない話をしながら食べる食事の方が、おいしかった。ふと、四三と行き損ねたミルクホールの食べ物はどんな味がするんだろう、と思った。

「悉乃、二学期からどうするつもりなんだ」

 声をかけてきたのは、兄の重信だった。悉乃とはもちろん異母兄妹である。銀行の娘と結婚し、浅岡家の基盤を盤石なものにした、父にとっては「自慢の息子」である。

「どうするとは、どういう意味ですの」悉乃はつっけんどんに言った。

「なんだその態度は。お前はまだ事の重大さがわかっていないようだな。今一番勢いある鉄道会社のご子息との縁談が決まっていたというのに。お前はそれをふいにしたんだぞ」

「それは申し訳ないと思っていますわ」悉乃は淡々と言った。

「なんだその言い方は」

「二人ともやめなさい。食事中だぞ」文信がたしなめた。

「しかし、父さん……」

「やはり、こんな子を引き取ったのは間違いだったのではありませんこと?」割って入ったのは、継母の佳恵よしえだ。昨年、そして三年前に悉乃の異母姉あねたちは相次いで嫁いでおり、佳恵の悉乃に対する風当たりは以前にも増して強くなっていた。

 悉乃はガシャン、と音を立てて食器を置いた。行儀は悪いが、気にしない。

「私だって、引き取って欲しいと頼んだ覚えはありませんわ。元はといえば、お父様がお母様と私を捨てたから私は”こんな子”になったんですのよ。自業自得ですわ」

 本当はこのまま自室に戻りたかったが、まだ食事は半分も食べていないのでこのまま空腹で過ごすのも辛いな、などと悉乃の思考は案外冷静であった。フォークを右手に持ちかえ、サーモンのムニエルをそのまま突き刺して口に運んだ。鮭などわざわざナイフで切らなくても食べられる。パンを豪快にかじり、スープは味噌汁のように器を持ち上げ口につけて飲んだ。文信をはじめ、皆注意する気も失せたのか、唖然として悉乃を見つめるばかりだった。

「ごちそうさまでした」

 悉乃は捨て台詞のように言い放ち、立ち上がってさっさと自室に戻っていった。

 早く、夏休みなんて終わってしまえばいい。

 悉乃の頭にはそれしかなかった。

 キヨに会いたい。クラスの友達にも。そして……

 浮かぶのは、茫然とした表情で自分の乗った車を見ていた、金栗四三の姿だった。




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