窮地③
四三が見た光景は、驚きのあまりか口をぽかんと開けるばかりで何も言わない悉乃と、立派な髭を蓄えた強面の男性――悉乃の父・文信――がこちらを睨んでいるものだった。
「誰だ君は」文信が怒声そのままに尋ねた。
「金栗四三と申します。悉乃さんに、スリから助けてもらった者です」
「なっ……」
「俺は……私は、悉乃さんに助けてもらわなかったら、財布を取られて、非常に難儀したでしょう。それを助けてくれたとです。なーし娘さんの勇気ば讃えてくれんのです!確かに昔はスリをやってたかもしれません。それは誉められたことじゃなか。ばってん、そぎゃんだって元を辿れば、悉乃さんとお母さんを二人きりにして放っておいたあなたが原因じゃなかですか?お母さんが亡くなった後、悉乃さんは生きるためにスリをするしかなかったとですよ!?しかも、それが後々私のような掏られそうになった人間を助けたんです!今じゃこんなにいいお嬢さんに成長されて……それでよかじゃあなかですか!もしもそれで悉乃さんがお嫁にもらえんなら、そぎゃん見合い相手、こっちから願い下げにしたらよか!悉乃さんにはもったいなかです!」
四三ははあ、はあ、と息を整えた。すぐに、「とんでもないことを言ってしまった」という後悔に襲われた。が、同時に「言ってやった」という妙な達成感もあった。
「君、誰に向かって口を聞いているのか、わかっているつもりか!」
文信は、怒りが頂点に達したのか、顔を赤らめている。
一触即発の状況である。教師も、廊下にいたキヨ達も、息を潜めて状況を見守るしかなかった。
四三は、もう引き下がれない、とばかりに応戦した。
「わかっています。私は、悉乃さんが、スリをやってくれていてよかったとすら思っています。感謝しています」
「なんだと……」
言いたいことは言い切った四三と、返す言葉のない文信の間に、非常に気まずい沈黙が流れた。
「悉乃、とにかく夏休みは家に帰りなさい」と、文信は話の矛先を変えた。
「えっ」
「先生、お見苦しいところをお見せしました。浅岡悉乃は寄宿舎残留ではなく、帰省に変更させてください」
は、はあ、と戸惑うばかりの教師を置いて、文信は悉乃の手を強引に引いて職員室を出ようとした。
「お父様、ちょっと……お待ちになって!」悉乃が抵抗した。
「悉乃。わかっているな。これ以上浅岡の名に泥を塗るなら、それこそまた掏り稼業に戻らなければならなくなるぞ」
悉乃はぐっと口をつぐんだ。その悲しそうな、怯えているような顔を見て、四三は胸を痛めた。
それきり、悉乃は大人しく父親について歩き出した。四三とすれ違う一瞬のタイミングで、彼女は父親に気づかれないように四三に笑いかけた。
「ありがとう。金栗さん」
残された四三や教師たちは、唖然として浅岡父娘を見送ることしかできなかった。
しばらくして、
「それで」
と我に返ったように、教師が四三に声をかけた。
「あなたは、どこの誰です」
「えっ……と、ですから、金栗四三と申します……東京高師の本科生です……」
「なぜここに」
四三は口ごもった。悉乃が心配で。なぜ心配かと言われれば、ミルクホールに行く約束をしていたのに来なかったから、と答えなければいけない。なんとなく、言いづらい。
その時、とある女生徒の「あっ!」という声に皆が注目した。
「あなた……そうですわ!前に寄宿舎の周りをウロウロしていた怪しい男ですわ!」
キヨから少し離れたところに立っていた女生徒がそう言って驚きの眼差しで四三を見た。
他の生徒や教師たちも、四三を白い目で見る。
「怪しい男……?」
確かに自分は怪しい男だろうが、「前に」とは何のことだろう。四三は何を言えばいいかわからず黙り込んでしまった。
気まずい静けさを破ったのは、キヨだった。
「倉橋さん、失礼ですわよ。お聞きになったでしょう。この方は……悉乃さんのお友達、私にとっても、悉乃さんを元気づけてくれた恩人です」
「恩人?このみすぼらしい方が?」
「みすぼらしい。あなたにそんなことを言う筋合いがあって?よほどみすぼらしいのは倉橋さんの心根ではないかしら。悉乃さんにいろいろとひどいことを言ったこと、取り消したりはできませんわよ」
「なんですって!?聞き捨てなりませんわ。あんなスリ女を庇うなんて、あなたも同じ穴の狢ですわね!」
「あなた、金栗さんのお話聞いていらした?悉乃さんは私たちなんかよりもよほど、強くて勇気ある女性ですわ!」
突然始まったキヨと倉橋の応酬を四三はオロオロと見守ることしかできなかったが、ついにぐぬぬと口を結んだ倉橋を見て、なんだか心がスッとしたような気がした。
キヨは四三に向き直ると、にこりと笑顔を見せた。
「悉乃さんを、追いかけてあげてください」
「は、はい!ありがとうございます!」
「お礼を言うのはこちらですわ。あなたのおかげで、私も勇気が湧いてきましたの。さ、早く」
キヨに促され、四三はあっという間にその場を走り去った。遠くから先ほどの教師が、「ちょっと、お待ちなさい!」と叫ぶのが聞こえたが、構わず駆けた。
校舎を出た四三は、とぼとぼと父親についていく悉乃の姿を見つけた。外には車が待たせてあり、運転手が恭しく出てきてドアを開けた。車なんて、東京に来てから数回だけ、道を走っているのを見たことがあるだけだ。
乗りなさい、と促された悉乃は黙って乗り込もうとした。
「悉乃さん!」四三は声を張り上げた。その声に反応したのは、悉乃よりも文信の方が早かった。
「なんだね君は、しつこいな。娘に近づかないでもらえるか。元はと言えば、君のせいでこんなことになっているんだぞ」
「お父様、そんなこと……!」
「わかりました。ですが、一つだけ言わせてください」
文信は、何も言わずに四三を睨みつけた。四三はそれが「可」の意味だと勝手に捉え、続けた。
「悉乃さんを、悪いようにはしないでください」
文信は、「当たり前だ」と答え、悉乃の背中を押して車に乗せた。
車は、あっと言う間に走り去ってしまった。
さすがに追いつけない、と四三は思った。
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