変化②

 校舎へ向かっていると、ちょうど件の倉橋とその取り巻きが前方から歩いてきた。

 悉乃は、どうしたらよいかわからなかった。何かを言うべきか、言わないべきか。言うとしたら、何を言うべきか。そうこうしているうちに、向こうはどんどんこちらに近づいてくる。

 ひとまず、今は何もなかったかのように振舞おうと決めた。もしかしたら、倉橋が濡れ衣を着せられている可能性もある。だが、すれ違い様に倉橋は確かにこう言った。

「スリ女」

 数歩歩いて、悉乃は立ち止まった。振り返ってみると、倉橋たちはクスクスと肩を震わせて笑いながら立ち去ろうとしている。

「私は……!!」悉乃は声を張り上げた。倉橋たちは足を止め、悉乃の方に振り向いた。

「あら浅岡さん、ごきげんよう。どうなさったの?何かおっしゃることがあって?」

 言ってみなさいよ、早く、と言いたげな表情を見て、悉乃は唇を噛んだ。

 ――私は、スリなんかじゃない。

 そう言おうとして、すんでのところで飲み込んだ。代わりに出てきた言葉は

「あなたたちとは、違う」

 倉橋は、鬼の首を取ったように勝ち誇った笑顔を見せてきゃはは、と高らかに笑った。周りの女生徒も続いた。 

「そうね。確かに私たちとあなたは違うわね」

 それだけ言って、そのまま笑いながら倉橋たちは去っていった。悉乃はすぐにくるりと踵を返し、ずんずんと荒々しい足取りで校舎へと歩き出した。

 ――私は、あなたたちみたいに何の苦労も知らないお嬢様じゃない。あなたたちに私の気持ちがわかるはずないのよ。……キヨさんだって、例外じゃないんだわ。


 悉乃への非難は部屋の張り紙だけでは収まらなかった。

 授業中も、先生が黒板に字を書いている隙に、紙くずが悉乃の頭をめがけて飛んできたりした。

 紙くずを広げると、たいていは「スリ」「嘘つき」などと書かれていた。

 投げられてきた方向を見ると、倉橋とその取り巻きが悉乃を見てクスクスと笑っていた。

 悉乃は、キッと唇を噛んだ。負けたくなかった。

 自分の前半生を思い出せば、こんなこと屁でもない。

 そう思って、耐え抜こうとしていた。

 だが、悉乃はもう知ってしまった。お金持ちの家の子としての生活――食べ物に困らなくて、清潔な服を着て、学校に通えて、友達に恵まれて。

 環境の変化とは、そしてそれに慣れてしまった、時間の経過とは、怖いものだ。自分はもう、すっかりぬるま湯に浸かってしまったのだと、悉乃は思わずにはいられなかった。


 そんな生活が一週間続いた後、ようやく日曜日を迎えた。

 今日は学校に顔を出さなくてもいい。一日中、寄宿舎の自室から出ないでいよう。と思った。

 キヨは、文房具を買いに行くと言って出かけていた。

 この一週間、他の生徒がどんなに噂に尾ひれ背びれをつけようとも、キヨだけは変わらない態度で接しようとしてくれていた。四面楚歌の現状にあってはありがたいことであるのに、悉乃はそれを避けていた。キヨの友達でいてはいけない、と思っていた。道連れにいじめの対象にしたくはなかった。そして、キヨと過ごせば過ごす程、彼女との違いが苦しかった。

 悉乃にそっけない態度を取られたキヨも、どうしたらよいかわからなくなったのか、ここ数日は気まずそうに過ごしていた。そうして今や二人の間で必要最低限以外の会話が交わされることはなくなっていった。文房具を買いにいったのも、恐らく一人になるための口実だろう。

 一人きりの部屋のベッドに寝転がって、悉乃は天井を見つめた。事の発端になった、市電での一件を思い出していた。

 あのことがなければ、バレずに済んだのに、と思った。だが、あの状況でああいう行動を取ったことに後悔はない。遅かれ早かれ何かのきっかけで知られた可能性もあるのだし。

 ――それにしてもあの人。あんな風にいかにも掏ってくださいと言わんばかりのところに財布を入れて。挙句に、まんまと掏られているし、ちょっと抜けている人なのかしら。

 悉乃はぼんやりとそんなことを考えた。

 だがそれよりも、金栗四三と名乗ったあの男に、無性に会いたくなってきた。いや、別に金栗である必要はない。女学校で今の自分が置かれている状況を知らない人に会えれば誰でもよかった。


 名前と、学校しか知らなかった。が、それさえわかれば十分とばかりに、悉乃は急いで身支度をして部屋を出た。

 そして、市電を乗り継いで東京高師――東京高等師範学校へ向かった。








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