すいまっせん


「なあ三田くん、女子が喜ぶお礼って何がよかて思う?」

 そう言って、金栗四三は、二段ベッドの下段から、上段を見上げた。上には友人の三田秀成みたひでなりがいる。二日前、財布をすられた時に一緒にいた男だ。

「それはあれだよ金栗くん。花束だ」

 三田は上から四三の顔を覗き込むと、眼鏡をくいっと上げてニヤリと笑った。最近、この仕草が癖になっているようだ。この男は、四三と同じく九州の出身であったが、今やすっかり東京に染まり、なまりが抜けたどころかインテリを気取っている。実際、成績もよかった。

「ばばば!花束かいなあ!なんかこっぱずかしくて渡せんよ」

「もちろん冗談だ。あのなあ金栗くん、小石川高女といえば、泣く子も黙るお嬢様学校。そもそも、我々なんかにあそこの学生が満足するお礼の品など買えるはずがないのだよ。あのまま掏られていた方が安くつくくらいだ」

 やっぱりそうかあ、と四三は力なく項垂れた。

 うるさいぞ、と隣の二段ベッドにいたクラスメイトから怒られた。

 ははは、すまんばい、と謝り、四三は手元の明かりを消して目を閉じた。

 瞼の裏には、あの時の少女の姿が浮かんでいた。


 結局、スリ騒動から一週間経っても妙案が思い浮かばないまま日曜日を迎えてしまった。四三は、何はともあれ走りに行くことにした。

 走っている間は、頭の中が空っぽになる。空っぽになれば、妙案が浮かぶかもしれない。

 早速運動着に着替え、四三は校舎を出た。


***


 東京高等師範学校の寄宿舎の前に、悉乃は立ち尽くしていた。

 いざ、ここに金栗四三というあの男子学生がいるのかと思うと、途端に我に返ったような気持ちになった。

 自分は何をしにここまで来たんだろう。

 いきなり会って、身の上話を聞いてくれとでも言うのだろうか。

 いくらなんでも失礼すぎる。

 百歩譲って聞いてもらったとしても、それで何になるというのだ。

 相手はたった一回、市電で乗り合わせただけの人なのに。

 やめよう、と悉乃は踵を返した。

 無駄足だったが、外に出たことで気分転換にはなった。

 明日からはまた授業だけれど。きっと、状況は好転しないけれど。

 すると、後ろから声をかけられた。

「悉乃さんじゃなかですかー!」

「か、金栗さん……!」

 悉乃は驚きに息を飲んだ。四三は、悉乃が初めて(一方的に)会った時と同じく、上下白の運動着姿だった。

「どぎゃんしたとですか?こんなところで」

「ええーっと、その……」

 四三は、自分で聞いておきながら「あっ」と何か思いついたような顔をした。

「すいまっせん!」

「え?」

 何に対して謝っているのかも言わずに、四三は踵を返して走り去ってしまった。

 もともと会わずに帰ろうと決めたばかりであったが、逃げられるとなると、却って気になる。何か誤解があることは明白だ。

 悉乃は追いかけた。

「待って!お待ちください!」

「すいまっせん!」

 すいまっせん、の一点張りで逃げていく四三を追いかけるが、たちまち距離を空けられ、見失ってしまった。

「は、速すぎる……」

 スリ時代に培った逃げ足で脚力にはそこそこ自信があったが、まるで大人と赤子の差だ。

 諦めて帰ろう、また来てみて、ゆっくり話を聞いてみよう。

 そう思い市電の駅まで戻ろうと歩く方向を変えた時に、近くの時計台の鐘が鳴った。

 寄宿舎の門限までは、まだ時間がある。自分は寄宿舎にいたくなくて外出したのだと思い出した。

 どうせなら少しふらふら散歩してから帰ろうと、当てもなく歩き出した。

 やがて、神田川の土手に行き当たった。

 ちょうどいい。少し走って体が火照っていたから、なんとなく涼を取りたくて悉乃は川岸に出た。

 そこには、川べりの芝生で仰向けに寝そべっている先客がいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る