好きなもの

 あっ、と悉乃は声を出した。声に気づいた先客は悉乃の方を見ると「やばい」という顔をした。

 金栗四三であった。

「金栗さん、あの!話を聞いてください!」

 また逃げられる前に、悉乃はそう頼みこんだ。四三は観念したようにこくこくと頷くと、悉乃が隣に腰掛けるのを黙って見つめた。

「話って、何ですろ……?」

「あの、何か誤解していませんか?私、あなたに謝られることなんか何も……」

「ばってん、俺が、その、お礼をしますと言っておきながら、何もしていないのに怒ったのでは……?」

「なっ、私そんなに図々しくありませんわ!お礼の催促だなんて。そもそも、私だって助けていただいたんですから、お礼なんて要りませんのに」

「そんなら、なして悉乃さんが俺のところに?俺の方から出向くならまだしも……」

 悉乃は言葉に詰まった。その至極当たり前の問いに対する答えを悉乃は用意していなかった。

 苦し紛れに、「散歩でたまたま近くに寄っただけですわ」と答えた。

「一人で?」

「ええ、まあ」

「確かに、小石川ならこのあたりも近いですもんなあ。けんど、女子の足で歩くにはちいと遠かとね?」

「散歩ですから。少し遠くにも行きますわ」

 まだ納得していなさそうな四三を見て、これ以上突っ込ませないために逆質問で乗り切ることにした。

「金栗さんは、どうしてこんなところに寝ていたんですの?」

「トレーニングの休憩がてらよく寄るとです。人っ気がない時は水浴びしたりもします」

「トレーニング?」

「ああ、トレーニングっていうのは練習です。マラソンの」

「マラソン……」

「マラソンは知っとるんですか?」

「ええ。この前、偶然見かけましたわ」

 それで、あなたを見た。しかも似顔絵まで書いてしまった、とは悉乃はなんとなく言い出せなかった。

 四三は話を続けた。

「それなら話が早か。まだまだ、マラソンって何?と思うとる人も大勢おるけんね。単なるかけっことは違ってこれは、スポーツなんです」

「スポーツ?」

「そう。運動、とか、鍛錬、とかそういうちょっと苦しい印象の言葉は当てはまらんとです。楽しいものなんです、スポーツは」

 はあ、と悉乃は力なく相槌を打った。いまいち理解は及ばないが、よく見ると、マラソンのことを熱く語る四三の目はキラキラとしていて、嬉しそうで。悉乃はなんだか可笑しくなって笑みを零した。

「えっ?なんですか?」

 今の、笑うところ?とでも言わんばかりに四三が驚くので、悉乃は「すみません」と謝った。

「金栗さん、マラソンが本当にお好きなんだなって思って。なんだか微笑ましくなっちゃって。そういう楽しめるものがあるのって、羨ましいです」

「悉乃さんは、なかとですか?何か、楽しいもの」

「私は――」

 多くの女学生と同じく、学校で教養を身に着けて、親の決めた”いいところ”へお嫁に行く。

 悉乃の前に用意されているのは、それだけだ。

「ありません。毎日学校で勉強して。お休みの日に活動写真を見に行くこともありますけど、そんなに頻繁に行くわけでもありませんし……あ、でも」

「何ね?」

「自転車に乗るのは好きです。学校に貸し出し用の自転車があって。それで近所を走ったりしています」

 自転車なんて、ただの交通手段だと思っていた。けれど、思い起こせば、自転車で風を切るのも、びゅんと過ぎていく景色を見るのも、好きだった。

 ――ああ、なんだか、わかる気がする。

「わあ!同じですねぇ!俺は足で、悉乃さんは自転車で。走るのが好きなもん同士たいね!」

 嬉しそうに話す四三に、悉乃も思わず笑顔がこぼれた。笑うのは久しぶりだということに、気づいた。


 それから二人は二つ三つ世間話をして、別れを告げた。

「ありがとうございました。いい気分転換になりました」

「いやあ、お礼を言うのはこっちの方――ああっ」

 四三は再び今日最初に見せたような「しまった」という顔をした。

「すんまっせん。俺、その、いろいろ考えたんですけど、悉乃さんみたいなお嬢様学校の人に喜んでもらえるお礼って何したらよかってわからんで……」

「ですから、お礼なら構わないでください。今こうしてお話できて、楽しかったですから。それで十分です」

 悉乃は踵を返し、帰ろうとした。が、振り返って四三を見た。

「金栗さん」

「何ですか?」

「また、会ってもらえませんか?」

「それは別に構わんですけど」

 四三はなぜ?という表情を浮かべていたが、悉乃は答えなかった。

「来週の日曜日、またここに来ますわ」

「うん。そしたら同じ時間に、また」

 二人はこうして、待ち合わせの約束をして分かれた。


 寄宿舎へは、市電で二駅。

 悉乃は窓から見える夕焼けをぼんやり眺めていたが、ハッと我に返った。

 ――私、とんでもない申し出を……

 これは、いわゆる逢引きの申し出ではないのか。

 悉乃は俄かに顔を赤らめた。少し冷たい自分の手を頬に当て、落ち着かせる。

 否、別に、特段なんとも思っていないのだから、これは逢引きではない。

 悉乃は自分に言い聞かせた。

 やがて市電は駅に着き、悉乃は重い足取りで寄宿舎へと戻っていった。

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