疾風の往く道

きっかけ

　小石川高等女学校の生徒は、集団生活を学ぶためにと、全員が寄宿舎で寝起きしていた。寄宿舎の門限は厳しく定められていて遅くまで外出することはできなかったが、日曜日だけは町に出て映画や芝居を観たりすることは許されていた。

　そういうわけで、とある日曜日、悉乃とキヨは市電に乗って浅草に出かけていた。市電はできて十年そこそこの新しい交通手段で、今やすっかり庶民の足として浸透していた。

　車内は老若男女がひしめき合っていたが、悉乃とキヨは幸い空いた座席に座ることができていた。

「悉乃さんは、どうして人相書きはあんなにお上手なのに、風景画は苦手なんですの？」キヨが何気ない疑問を投げかけた。

「そうね。得意不得意に理由なんてないでしょう？」悉乃は飄々として答えた。答えになっていないのはわかっていたが、気にしない。

　市電が駅に着き、ガタン、と音を立てて止まった。ガヤガヤと人が降り、また乗ってくる。その中にいた人物に、悉乃は目を見張った。

　間違いない。自分が勝手に肖像画を描いたあのマラソンの男だった。

　よく見ると、よほど普段からたくさん走っているのだろう。比較的華奢な上半身に似合わず、脚にはしっかりと筋肉がついているようで、着ている学生服のズボンはきつそうだ。顔や手は日焼けしていて浅黒い。歳は悉乃とそうは変わらないだろう。

　キヨに例の男が乗ってきたと言おうかどうか、悉乃は迷った。あの一瞬顔を見ただけで、本当に同じ人だと言えるのかしら？そんな懸念も頭をよぎる。

　悉乃は、様子を見守ることにした。どこまで行くんだろう。ここから乗ってくるということは、近くに住んでいるのかしら。

　男に関する様々な考えを巡らせていたせいで、キヨに話しかけられても上の空になってしまっていた。

「悉乃さん、私の話、聞いてますの？」

　悉乃はハッとして、謝ろうと口を開きかけたが、視界の端に入った光景に思わず「あっ」と声をあげた。

「もう、どうしたのよ悉乃さん」

「あれ」

　悉乃は男の方を指した。男は左隣に立つ友人と談笑している。

「あの人がどうかしたんですの？」

「その人の右側、あの人。あれは……」

　あれは、掏（す）るわ。

　そう言おうとして、悉乃は口ごもった。

　一瞬、迷った。が、見過ごすわけにもいかない。

　悉乃は席を立ち、そっと男の背後に近づいた。

　案の定、右側に立っていた白髪混じりの男は、左隣の男のズボンのポケットに手を伸ばした。そして、一瞬で財布を手にし、自身の懐に入れた。その腕を、悉乃は捉えた。

「う、うわ、女、何をする！」スリ犯はわめいて振り向いた。汚いひげ面が悉乃の目に飛び込んできた。四十がらみの小柄な男だ。

「何をする、はこちらの台詞ですわ。今、この人の財布を掏りましたよね？出しなさい」

「なんだと！？言いがかりつけると警察に突き出すぞ」

　その時、「うわあ、本当ばい！財布がなか！」と掏られた側の男の声がした。

　悉乃は初めて男の顔をまじまじと見た。やはり、あの時のマラソンの男だった。人の良さそうな顔だ。この前走っていた時の真剣な表情ともまた違った。

「なんだ、お前まで因縁つけんのか！」スリ犯はいよいよ頭に血が上ったようだった。

　今や三人の周りには空間が空き、乗客たちは遠巻きにその様子を見ている。

「悉乃さん！」キヨの声がする頃には、スリは拳を振り上げていた。

　殴られる、と悉乃は目を瞑った。だが、五秒たっても十秒たっても殴られた感触はなかった。

　恐る恐る目を開けると、掏られた男がスリの手首をつかんでいた。

「俺の恩人ですたい、手荒な真似はやめてください。それと、財布、返してくれませんか」

　にっこりと笑う男に、掏り犯はすっかり戦意を喪失したのか、へなへなと腰を落とした。

　それから、悉乃とキヨ、男とその友人の四人は次の停留所で降りて近くの警察署に掏り犯を突き出した。

　突き出したらそれで終わりというわけではなく、調書を作るのに必要だからと、四人はそれぞれ別室で名前や住所などの情報を話した。特に、犯人を捕まえた悉乃と被害者の男は時間をかけて警察官と話す羽目になった。

　やっと解放された時には、すでに一時間近くが経過していた。

「本当にありがとうございました。あなたが見つけてくれなかったら、帰りの路銀ばなくなって、走って帰らんといけんくなるところでした」被害者の男は深々と頭を下げた。

「あの、走るの、お好きなんですか？」悉乃は思わず尋ねた。

　ちょっと、悉乃さん、とキヨが小声でたしなめた。キヨにしてみれば、交通費を掏られて危うく走らざるを得なくなりかけた人に尋ねる質問ではないというわけだろう。

　だが、男はくしゃっとした笑顔で

「よくわかりましたね！俺は徒歩部(陸上部)に入るくらい、走るのが好きですったい！」

　と答えた。何県かはわからなかったが、九州のなまりが時々まじる。

　悉乃が「だって、あの時見たから」と言おうとする前に男は「そうだ」と話題を変えた。

「今度何かお礼させてください。そういえば、お名前もまだ聞いてませんでした。女学生さんですか？」

「浅岡悉乃、と申します。小石川高女です。こちらこそ、助けていただいてありがとうございました。あのまま殴られていたところでした」

「とんでもない」

「あ、あなたの、お名前は……」

　悉乃は尋ね返した。名前を聞くだけなのに、なんだかとても重大な秘密を聞き出すような気がして、心臓がはっきりと脈打つのを感じた。

「金栗四三（かなくりしそう）といいます。東京高師の本科生です」

　男はそう名乗り、子供のように無邪気に笑った。