疾風の往く道
初音
一瞬の邂逅
新橋の駅前には黒山の人だかり。
この駅は、今はまだ東京の玄関口としての役割を果たしている。
来なければよかったかもしれない。
でも、来ないと後悔したかもしれないとも思う。
人々は、皆一様に日の丸の旗を振りながら「がんばって」「いってらっしゃい」と声をかけている。
「悉乃さん、ここでいいんですの?もっと近くに行かれては」友人のキヨが心配そうな顔で悉乃の顔を覗き込む。
「いいの。もう、会わないと決めたから。それに、あの人は私だけのものじゃない。日本の、国中の期待を背負って旅立たれるのよ」
悉乃は目を閉じ、思いを馳せる。
思い出だけは、悉乃だけのもの。これからどんなに時が経っても、忘れることはないだろう。
***
悉乃が初めて彼を見たのは、上野だった。
この日、芸術の授業で上野公園を訪れていた。お花見も兼ねて桜の観察、スケッチをするという課題が出ていた。
広い公園にずらりと遠くまで続く桜並木の下を、悉乃はクラスメイトたちと感嘆の溜息を漏らしながら歩いた。
「きれいねえ」
「こんなにきれいな桜が見られるだけでも、東京に来てよかったなんて思うわ」
悉乃の通う小石川高等女学校は、全国から子爵や男爵といった良家の娘が集まるお嬢様学校だった。
キヨをはじめ、「家の敷地からほとんど出たことがない」などという文字通りの箱入り娘も多く存在した。
悉乃たちは適当な場所にスケッチの用意を設え、鉛筆を握った。
皆さっさっと軽快な音を立てて桜の木や花を描いていく。
悉乃はそんな周囲の様子をちらちら見やりながらも、鉛筆でスケッチブックにぽつぽつと点を打つことしかできなかった。
風景画は苦手だ。皆食事をするかの如く当たり前に鉛筆を走らせているが、悉乃にはできない芸当だった。
落ち着け、深呼吸だ、と息を吸ってみても描けるはずがない。
やがて、悉乃はすっくと立ちあがった。
「悉乃さん?」
隣でスケッチをしていたキヨが不思議そうに悉乃を見上げた。悉乃はにこっと笑いかけると、
「気分転換に、少し歩いてきますわ」
と答えて公園の敷地外へと出ていった。
「駄目よ!先生に怒られますわよ」
キヨがぱたぱたと小走りで追いかけてきた。はっはっと息を切らせているが、一方で悉乃は涼しい顔をしている。
悉乃は学友たちよりもいくらか健脚であるという自負があった。その理由にも心当たりはあるが、それをキヨたちに話すつもりは毛頭なかった。
とにかく、悉乃はすたすたと公園から往来へと出た。
しかし、道端には人だかりができていて、それ以上先に進むことはできなかった。
「あの、これは何かあるんですの?」
悉乃はたまたま目の前に立っていた老齢の男性に尋ねた。
「なんでも、マラソンがここを通るんだとよ。それで、みんな端に寄れってさっきからお触れが出てるんだ」
「マラソン?」
「なんだ、お嬢ちゃん知らないのか。まあ、
「まあ」
たかがかけっこのために道を空けなければいけないのかと、そういう意味で悉乃は驚きの声を漏らした。
「悉乃さん、ほら、戻りましょう?」キヨに声をかけられたが、ちょうどその時歓声が沸き起こりキヨの言葉はかき消された。
「来たぞ」先ほどの男性が声を弾ませた。男性が見ている方向を悉乃とキヨも見やった。
白い上下の運動着に身を包んだ男たちが、遠くから走ってきていた。
人影は段々大きくなり、悉乃から数メートルのところまで迫ってきた。
悉乃は先頭を走る男を見た。
先頭を走っているくらいだから、足の速い男であることは明白なのだが、悉乃には時が止まったように思えた。
男の顔が、パッと目に留まった。
ほんの一瞬、時間にして一秒。
すぐに通り過ぎてしまったが、なぜか、その男の表情が瞼の裏に焼き付いた。
そうだ、と悉乃は手を打った。
公園に戻ると、もちろん悉乃とキヨは先生の大目玉を食らった。
「鹿嶋さんはまだしも、浅岡さんはまだ何も描いていないじゃないですか!それなのにフラフラと!」
「ごめんなさい、先生。私、必ず絵を完成させてみせます」
何をどう描くか。
それを決めたら、悉乃の筆は速かった。
宣言通り時間内にスケッチを完成させた悉乃は、先生にこう説明した。
「授業で見たもののスケッチだということだったので。桜でなければいけない理由はございませんでしょう」
先生はぐぬぬと口を結び、言い返せないのが悔しいといった表情で「可、としましょう」と言った。
悉乃のスケッチブックには、あのマラソンで先頭を走っていた男が描かれていた。
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