夏思いが咲く
紺藤 香純
夏思いが咲く
先輩の声は、柔らかい。
柔らかくて、心地良い。
春は、花が
夏は、涼風のように。
秋は、ジャズピアノのように。
冬は、たき火のように。
「ユズル」
涼風に耳をくすぐられ、
手元の画板から顔を上げると、同じ目の高さに先輩の相貌を拝むことができた。
形の整った眉。
二重まぶたと大きな双眸。
長いまつげ。
すっと通った鼻梁。
色の薄い口紅でも塗っているのかと疑うほど綺麗な唇。
校則に引っかかりそうな長めの髪をかき上げる仕草は、中学生らしくない。
夏休みに入ったばかりの午前中だというのに、太陽はじりじりと健全な中学生を痛めつける。
譲は学校指定の体操着を、半袖は肩まで、ハ-フパンツは大腿が露わになるまで、まくり上げている。だって暑いんだもの。
それに対して、先輩はしっかりと制服を着用している。授業以外は体操着で良いことになっているのに。
「何しているの?」
先輩は譲の画板を覗き込み、ああ、と溜息のような納得の声をこぼした。
「美術の宿題か。花の絵のコンテスト」
そうです、と譲は頷いた。
「ですから、先輩、どいて下さい。花が見えません」
先輩は、つまらなそうに唇をとがらせる。譲は先輩に見とれそうになり、慌てて作業の進め方を考え直す。こっそり持ち込んだスマートフォンで写真は撮ってある。下書きだけはここでやって、家に帰って色をつければよいだろう。
急に静かになった。譲は耐えられず、口を開く。
「先輩は何しに来たんですか? 夏休みなのに、わざわざ学校まで」
「図書室に、勉強に。これでも受験生だから。その前に、ユズルにちょっかいを出そうかと」
「勘弁して下さい」
譲の懇願さえも、先輩は微笑みひとつで
「ねえ、ユズル」
先輩は譲の隣に腰を下ろす。
譲は顔が熱くなるのがわかった。熱中症かもしれない。
「ユズルが描いているのは、野菜の花だよね」
「そうです」
園芸委員会の花壇で育てられている野菜達は、背の高い雑草にも照りつける太陽にも負けず、生き生きと枝葉を伸ばしている。
譲が描いているのは、ズッキーニの花だ。
花のコンテストの作品に、野菜の花なんて変かもしれない。でも、譲はこの花に強く惹かれた。
玉子の黄身のような黄色い花が2輪。
「綺麗な黄色の花だね」
園芸委員会の野菜なのに、譲は自分のセンスを褒められた気がして嬉しくなった。
「でも、ひとつも実がなってないんです」
「そうだろうね。受粉させてないもの」
受粉。先輩は、あっさり言ってしまった。
理科の授業で習うそのフレーズは、譲の周りでは禁句なのに。
「ズッキーニには
「先輩、いかがわしいですよ」
「いかがわしいのは、ユズルの
テニス部の軟式ボールとラケットの音が、遠くから聞こえる。吹奏楽の演奏も、熱い微風に乗ってやってくる。近くの教室で、男の先生が声を張り上げている。国語の補習授業が行われているようだ。あれは、今年の春に赴任したばかりの、男の先生だ。
譲は鉛筆を動かして画板の画用紙に花をスケッチする。
先輩はお構いなしに花に近づき、白魚のような手で花に触れる。
「これ、
「雄花同士ってことは、男同士ってことですか?」
「そうだね。受粉できないや」
「絵を描くには関係ないですよ」
「ユズル、つれない」
先輩は、再び譲の隣に腰を下ろす。
炎天下なのに、先輩は汗をかいていないように、譲には見えた。
「なぜ、タイミング良く咲けなかったんだろう」
先輩は、ほろりと呟いた。
「雄花と雌花が一輪ずつ咲いたら、受粉できて、実も成長するのに」
先輩は口を閉ざし、あろうことか譲にもたれかかった。
譲はスケッチが進まず、鉛筆を持つ手を止めた。
アブラゼミが、かん高い音で鳴く。
テニス部の顧問の先生が、裏返った声で怒鳴る。
トランペットが音を外し、演奏が止まる。
国語の先生は、持ち味のバリトンボイスで、
先輩は譲の肩に頭を預け、目をつむった。
譲の汗が染み込んだ体操着を、真っ白なカッターシャツが撫でる。
先輩の黒いスラックスが、汗びっしょりの譲の大腿に触れる。
胸が高鳴る譲をよそに、先輩は柔らかいテノールボイスで古文を
教室から聞こえるバリトンボイスと、隣のテノールボイスが、歌のように重なる。
ズッキーニの雄花2輪は、寄り添うように葉の陰に
譲は、強く目をつむった。汗が目に入り、ひりひりと痛い。
なぜ自分は、先輩にこんな気持ちを抱いてしまったのだろう。
雄花同士は結ばれることがないのに。
こんなに近くにいるのに、先輩は譲など眼中にない。彼の意識は、補講を行っている国語の先生の
雄花はどんなに思って咲いても、雄花と実ることはないのに。
先輩だって、そんなことは気づいているはずなのに。
譲は、先輩の腰に手をまわした。男の割に薄く、細い腰だと思った。
「じゃあ、俺、そろそろ行くね」
教室から補講終了の号令が聞こえると、先輩はまるで可憐な少女のように立ち上がり、学校一美人な女子よりも艶やかに微笑んだ。
本音は言わず、ちょっかいばかり出して、気のないくせに寄り添って、むかつくはずなのに。
図書室に自習に行くはずの先輩が離れてしまうと思うと、心臓が壊れそうなほど、胸が締めつけられる気がした。
「先輩」
譲は画板をその辺に置き、立ち上がる。
先輩の肩を乱暴に掴み、振り向かせ、顔を上げさせる。
先輩は珍しく、目を見開いて無言で驚く。
生意気な言葉が発せられる前に、譲は彼の唇をふさいだ。
太陽はじりじりと、不健全な中学生を痛めつける。
先輩の唇は、柔らかい。
先輩の舌は、柔らかい。
【「夏思いが咲く」完】
夏思いが咲く 紺藤 香純 @21109123
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます