最終話「引きこもりだったけど、」

「……ぁあ?」


 真夜中といっても俺からしたらまだまだこれからな午前零時。めっきり振動すらしなくなった携帯がベッドの上で珍しく振動した。パソコンの前で体ががっちりと姿勢を固めようとしていたが、珍事にさすがの俺もクマのようにのっそりと動く。


「……誰だこんな時間に。まったく迷惑ってモンをだn……」


 画面に映し出されたその名前と単調な内容に思わず息を飲んだ。


『今起きてるよね』


 若干の汗と激しく動く心臓とともに、カーテンを少しだけ開いて斜め向かいの家を見る。二階の窓のカーテン越しに人影が見えた。すぐにカーテンを閉めて画面を睨む。


 見なかったフリをしようと思ったが、勢い余って既読をつけてしまった。もう逃げようがない。コマンド?


「もう寝る」


 ナイス采配。こうすれば相手も気を使って諦めてくれるだろう。


『嘘つき』


 ですよねー。実はさっき起きて電気を点けた。それが見られていなかったとしても、一晩中起きているのは向こうも把握済みだろう。


『電話してもいいよね?』


 画面に映し出された問いを見て寄りっぱなしの眉間にさらに強くしわが寄る。


「なんで?」


 既読がついて数秒後に問答無用で電話がかかってきた。ヴーヴーと唸る携帯を手に取る。


「……マジかよ」


 まるで爆発数秒前の時限爆弾だ。決してふかふかではないベッドの上に投げ置く。電話が切れるまでヴーヴー言わせておこう。はい寝た。俺はもう寝ました。


「……」


 一度切れると続けざまにヴーヴーと震えだす。キリが無いので四回目の電話におそるおそる出てみた。


「……あ……もしもし、お前さ今何時か」


「起きてるじゃん。さっさと出てよ」


「……あ……すいません」


 人の迷惑を考えない行為に説教しようと思ったが間髪入れずに逆ギレされたので反射的に謝ってしまう……情けなさすぎだろ、俺。


「……で、何さ」


 電話の相手、日向綾乃は俺の問いから少し間を開けて抑揚のない声で答えた。


「……奥村学校辞めたの……?」


「……まぁ、そういうことになるな」


「なんで?」


 ……辞めた理由ねぇ。椅子の背もたれにすべてを預けて思考を巡らす。

 人間関係が上手くいかなかったから、すべての事にやる気がなくなったから、まぁいろいろあるのだけどこいつの存在が一番気に食わなかったからかな。


「……別に、いろいろあったし、なかったし、辞めるのは俺の自由だろ?」


「だって一緒に頑張って勉強したじゃん。全部無駄になっちゃったんだよ?」


 一緒に頑張って……ね。俺はそんなに力入れなくても余裕で入れたのに、お前が頭悪いのに同じ高校に入るって言うから仕方なく勉強を見てやっただけなんだけどなぁ。


「あんなとこいても貴重な人生が無駄になるだけだって悟ったんだ。……楽しくもない人間ばかり、役にも立たない勉強ばかり。……お前は普段楽しそうにやってたからいいんだろうけど」


 ネトゲのログイン画面でマウスカーソルをクルクルしながら悪態づく。


「……とにかくさ、もう俺は辞めたんだしもうなんも関係ないんだよ。お前はせいぜい楽しくやってくれよ。もう余計な心配しなくていいから」


 震える手で通話終了の文字を押す。


 それからしばらくログイン画面でマウスカーソルをクルクルさせ続けて、結局その日はログインすらせず、まったく眠くもないのに、電気を消してただ月明りの差す窓を眺めていた。







 満月の日は自殺者が多いという話をどこかで聞いた。力なく窓の外を眺めて呆然とそんなことを考える。

 この世界は死が蔓延していた。誰もが死んだまま歩き回り、生きている者には常に死の影がつきまとう。

 亡者に食わるか、逃げる際に事故で死ぬか、あるいは追い詰められて自ら死を選ぶか。死という現象がシャボン玉のように軽く、日常生活のように馴染み切っていた。


 希望に満ち溢れていた脱出劇は一瞬のうちに崩壊し、大切な人まで失う結果になった。


「……もう……終わりにしないとな」


 体力も気力もないがそれらを振り絞ってどうにか立ち上がる。空気はただただ冷たかった。空っぽの体。空っぽの心。空っぽの家。幕は既に下りた。いつまでも舞台の上に立っているわけにもいかない。さっさと退散するべきだ。




 一階の和室に行き、押し入れの中を漁る。布切れやフェルトなどをほっぽり出して目当てのものを手に取る。


「……たぶん、これで大丈夫だろう」


 母親の趣味が裁縫で、小学校の時の手提げ袋などは全部母の手作りだった。その延長としてなにかバッグでも作ろうと思ったのか、長さ三メートルくらいのそこそこ丈夫なひもを見つける。


 二階に上がって階段の手すりと自分の首に括りつけた。手すりに上って飛び降りればうまいこと死ねるだろう。


 それから外で飼われている犬みたいに紐を伸ばして自室のドアの前に立ち、ドアの向こうで眠りについた彼女の姿を思い浮かべる。


「……ごめんな……約束守れそうにないや……」


 歩み寄ってドアに額をつける。氷で冷やされたかと思うくらいドアは冷たかった。


「……最後まで俺は弱かった……日向も守り切れないくらい弱かった……こんな俺に……最後の約束なんて果たせるわけないだろ……」


 熱い涙が冷たい頬を伝う。


「無理だよ……!!やっぱ無理だそんなの……!俺にはお前を殺すなんて……」


 ドン


 聞き間違いじゃない。確かに額から伝わった振動と叩かれた鼓膜。目の前のドアを内側から強くノックされている。


 ドン


 ドン


「……日向……。」無機質な音と振動。その向こうにある理解したくはない現実。もはやこのドアは何かを隔ててそこに在るのではなく、絶望そのものを具現化して俺の視界を埋めるように立ちふさがっている。


 ドン


 ドン


「……やめろ……やめてくれよ……」


 一定のリズムと音を保ちながら絶えず残酷なノックが続く。


「……俺にはできないよ……!」







 冷たい廊下、冷たい空気、冷たい月明り、温度を失った空間で一人へたり込んで随分と時間が経っているような気がした。まだ夜は明けない。こんなにも夜は長かっただろうか。一分が永遠に感じられるくらい密度の高い時間の中で、空虚な自分が死人のように動かずにただ息をしている。


 日向が息を引き取って、俺の全てが無くなってしまった。

 世界で二人きりだったのに、とうとう世界に独りぼっちになってしまった。

 生きている意味なんてない。……ならどうして死ななかった?


 答えを思い浮かべるより先に、日向の笑顔と力ない声で交わした固い約束が再生される。


 ……本当に俺は空っぽだろうか。日向がいなくなったらそれでなにもかも終わりにしていいのか?


 まだ全部終わってないだろ。逃げたらダメだろ。



「……約束したもんな」


 ずっとそばにいる。それは俺が自ら死んでこの家にずっと二人きりということではないことくらい分かっていた。


「お前のことは守り切れなかったけど……お前との約束くらいしっかり守らないとだよな」


「……最後の最後までずっとそばにいるから」



 強い信念が俺の腕を動かしていた。ドアノブに手をかけてドアを開ける。

 そこにはだらりと腕を伸ばし、うめき声も上げずに真っ白な目で俺を見つめる日向の姿があった。閉じそうになるまぶたを上げて彼女と向き合う。


「……逃げ出したりしてごめんな。ちゃんと終わらせるから」


 ゆっくりとこちらに襲い掛かる日向を突き飛ばして、部屋の隅に立てかけた木製のバットを手に取る。手も喉も足も呼吸さえも震えていた。……しっかりしろ。


 むくりと立ち上がり、俺の首を狙って飛び込む日向にバットを振り下ろす。


 躊躇が招いたのか、バットは頭を外し、負傷していた肩に当たる。傷口から再び真っ黒な血が飛沫した。


 一瞬、怯んだようにも見えたが構わず飛び込んできた日向を躱して再び対峙する。バットを握る手が震えきっていて力も入らない。


 今度はまっすぐ、ゆっくりと歩み寄ってくる。壁際に追い詰められたが、頭を狙うには十分すぎた。


 それでもバットは宙を撫で、その隙に襲い来る日向を返した二度目の打撃で突き飛ばすことしかしなかった。

 バットは腕にヒットしたらしく立ち上がろうと地に突いた腕をバキバキと折っていった。バランスを崩してそのまま地面に伏す。


 このままバットを振り下ろせば頭を割ることができる。

 もうむやみに日向を傷つけることもない。


「……ぁぁぁああああああ!!!!」


 目をつむってバットを振り下ろす。しっかりと頭に当たったことをバット越しに理解した。急に足腰に力が入らなくなったので倒れるようにしてその場に座る。


「ごめん……本当に……ごめん……」


 座りこんだ場所はちょうど日向の使っていた布団の上だった。まだ彼女の香りがする。確かに日向はここにいたのだ。


 再び物音がしたので顔を上げる。もう片方の腕で立ち上がり、頭から血を流して彼女が俺を見降ろしていた。


 頭を打つことはできても破壊するまでには至らなかったらしい。


 立ち上がることもできないほど疲弊した俺につかみかかる。素早く、けれど反応できるスピードで日向の顔が近づく。カチカチと噛みあわされる歯。血液を交えて垂れる唾液。どうにか腕を動かして首に食らいつこうとする日向を突き離そうとする。


 必要のない日向の呼吸が顔を撫でる。ゆっくりと首元だけを見ながら近づく日向。そこに当然生前の面影はない。


 別にここで殺されたって良い。日向に食われるならそれもまた本望かもしれない。……でもそれは俺の考えだ。


「これは……お前との約束だから。ちゃんと終わらせるって約束だから……!」


 片腕を彼女の肩から離して顎を掴み、そのままテーブルの角へと叩きつける。

 振りほどこうとする彼女の頭を両手で抑えて何度も何度もテーブルの角へ叩きつけた。固く鈍い音が反響する。中身がこぼれて跳ねる音がする。ほんのわずかな温みを伴ってそれがシャツを汚していく。


 自分が何をやっているのかもよく分かっていた。けれどきちんと終わるまで絶対にその手を離さなかった。飛び散る脳漿から決して目を離さなかった。




 自分の手が真っ黒な血で染まるころ、ようやく彼女は抵抗をやめて床へと倒れこんだ。ピクリとも動かない抜け殻が俺の膝の前で横たわっている。


 映画みたいに銃弾一つで綺麗に終わらせてあげたかった。

 引き金を引けば簡単に終わらせてやることだってできた。


 彼女の頭は割れておびただしいほどの血を流し、中身がそこら中に飛び散っていた。

 真っ黒な血で汚れてはいるが顔はそれほど損傷していない。それがせめてもの救いか。

 枯れ果てたはずの涙が延々と頬を伝っていく。不思議と悲しくはなかった。ただ涙の理由が分からなかった。




 薄暗い部屋。まだ日は上っていないが徐々に夜が明け始めようとしている。あれから少し経って、俺は小さな覚悟とともに血に濡れた彼女の冷たい頬を撫でた。


「……約束……ちゃんと守ったぞ。……でもまだ約束は残ってるだろ?それもきちんと果たすよ。またここに帰ってくるから、ちょっと待っててくれ」


 ハンカチで頬の血を拭ってやってから、バットを手に取り自室を後にした。






「今日も晴れそうだな」


 廊下の窓の向こうは雲一つない夜明け前の濃い青が広がっている。振り返って自室のドアを一瞥したあと玄関へ向かう。


 震えることのない手でしっかりと結んだ靴紐。疲弊しきった体を伸ばして体を目覚めさせる。


 数は前よりも少なくなったようだが、未だに十数体のゾンビが家を取り囲んでいるようだ。


 大きく深呼吸して、玄関のドアを開けた。






 迷いは一切なかった。ドアを出た瞬間にゾンビへと飛びかかり頭へバットを思い切り振り下ろす。固い音が張り詰めた朝の空気を揺らした。


 状況は今までで一番最悪だ。ゾンビの群れへと自ら飛び込んで四方八方から襲い来る奴らを相手にするのだから。


 もしこれを他人が見たのなら無謀だと思うだろう。自殺を選んだのだと思うだろう。


 生憎死ぬ気は一切ない。だからこそ死者を殺し続ける。


 掴まれれば振りほどき、フルスイングで頭を叩き割った。どちゃりと出てきた中身が花壇を汚す。荒ぶる呼吸。生も死もなく体だけが動いている。すべて自分の信じるままにバットを振っていく。



 七体目の頭を割るころ、とうとうバットが耐えきれなくなり折れた。後ろから襲い掛かってきたゾンビを振りほどき、折れたバットを眼球に突き刺す。


 無線を取りに行く際、庭に放置していたもう一つのバットに持ち替えて次々に、ただ頭だけを狙って破壊していく。


 まだやらなくちゃいけないことがある。くたばる気もこの手を止める気もない。お前たちじゃこの俺は止められない。俺は俺自身が止まることを許さない。

 硬質な音が響く。腐臭が鼻を突く。死体を踏み越えてその先の死体を殺す。流れる滴は汗か血液か、そんなことどうだって良かった。ただ前を見据えていた。


 庭に死体の山が築かれるころ、東の空に朝日が昇りはじめていた。空を仰いでおおきく息を吐く。白く上って宙に掻き消えていく息を目で追うと日向の待つわが家が目に入った。

 小鳥がどこかで鳴く、風の音すら聞こえない朝の静寂。たくさんの死の中で俺は確かに乱暴に拍動する心臓とともに生きていた。




 部屋に戻って日向を担ぎ、家族共用の車の助手席に乗せた。顔はきちんと拭き、割れた頭は包帯で巻き、母親の帽子をかぶせてやった。傍目から見れば彼女が生きていてもおかしくはないように思う。


 車の周りにはすでに俺に気づいたゾンビが何体か集まり、ゴンゴンと窓を叩いている。


「……何してるのかって?……俺も分からなくなってきたよ。でもちゃんとお前が言ってたからな。約束は守るよ」


 キーを回してエンジンをかける。……あとはどうするんだっけ。ハンドブレーキと、確かこれ動かしてたような。


「……車動かなきゃどうしようもねぇよな?」


 うつむいたままの日向に笑ってみせた。


「あぁ、これで動くっぽいな。あとはアクセルとブレーキとハンドルさえあれば大丈夫だろ。たぶん事故らないし」


 フロントガラスからは馬鹿みたいに青い空が見える。早朝だが日差しは暖かくて春らしい天気になりそうだ。


「……いい天気だな。で、そろそろどこに行くかは見当付いたか?」


 日向の髪を撫で、時折固まった血を取りながら続ける。


「……脱出出来たら一緒に海に行くって言っただろ?そこで全部終わりにしよう」


 日向にシートベルトをしてから自分のシートベルトもつける。


「……早く行かないとな。ほら、見ろよこれ」


 ゾンビを倒し終わった後で自分の腕が噛まれていたことに気づいた。当然と言えば当然なのかもしれない。すべて覚悟の上だった。黒い血の滴る腕を日向に見せる。


「出来れば海に行くまでもって欲しいけどなぁ……」


 アクセルを踏んでゆっくりと車を走らせる。


「心配すんな。俺は俺が思ってる以上、お前が思ってるくらいには義理堅い男なんだ。約束は必ず果たすさ」


 見知った道路をおぼつかない速度で走り抜ける。なんだ、案外運転なんて楽勝じゃないか。


「……ようやく引きこもりが家から出たって笑ってんだろ。……あーあ。……お前が心配して電話かけたときに家から出てればよかったんだけどな。……本当にあんなこと言ってごめん。本当はお前が生きているうちに謝りたかったんだけど、あの時の事を死のうって直前になって思い出したんだ。おかげでなんとか生きたままで引きこもり卒業できたよ」


 うつむいたままで何の反応も示さない彼女の手を握って眩しい金色の朝日を目に焼き付ける。少し歪んで見えるのが余計に綺麗だった。


「……本当に最後までありがとうな」








 青空の下、他に一台も走っていない閑散とした高速道路を走る。緑色の看板と時折背丈の低い建物の向こう側で見える水平線。海までそんなに時間はかからないようだ。


「もう少しで着くぞ。ほら、そっから今海が見えただろ」


 日向に微笑みかけてから持ってきた無線を手に取り、誰に向けるでもなく話しかける。


「……あーと、俺たちは籠城していた家を無事?脱出して海へと向かっている。……あぁ、仮にこれを誰かが聞いてても俺たちは生存者ではないからあとは追わないでくれ。それで……たぶんこれを聞いてる生存者がいるならまだ屋内の中だろう。残念ながら俺たちみたいな手遅れ以外は外には出ない方がいい。俺たちは救助隊でもない。じゃあ誰なのかって?あと外の様子が知りたいか?……そうだな一言で言うなら……」



「引きこもりだったけど、外にゾンビがうろついている」

 

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引きこもりだけど、外にゾンビがうろついている 飯来をらくa.k.a上野羽美 @eli-wallach

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