第14話「引きこもりだけど、ずっとそばにいる」
目の前で起こっていることが何なのかを理解するのに何十秒もかかったように思う。でもそれは本当に一瞬の事だった。
バットを構えて奴の顔面を貫くように突き出す。重い一撃のはずだったが、それでもなお日向の左肩を食いちぎって咀嚼する奴の姿がスローモーションで再生されたように映った。
抉れた肩から噴き出す血液、奴の折れた歯、日向の悲鳴、奴の喉から発声されている地を這うような低い音。一瞬のうちに見たすべての光景と音が目と耳に焼き付く。
それでも、何が起こっているのかを理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
絶対に起こってはならないことが起こってしまった。
「あああああああああああああああああああ!!!!!!」
倒れた奴の顔めがけ、バットを振りおろす。
割れた頭から眼球が零れ落ちてこちらを睨んでいた。
「くそっ!!なんでこんなところに!!」
返り血を拭うと左の耳からうめき声が聞こえてきた。振り返った方向、開いたドアの向こう、日向が屋根によじ登るときに開けた窓からずるずると一体ずつゾンビが侵入してきていた。
「くそっ……!」
すぐさまドアを閉めて日向のもとに駆け寄る。傷口を覆うように乗せた右手から黒い血がドロドロとあふれ出していた。息を荒くしてボロボロと涙を流している。彼女の意識はすでに遠くなりつつあった。
「日向、起きろ……!ここは危険だから上に移動する!……立てそうか!?」
どうにかして首を縦に振る日向。どうやったって自力では立てなさそうだ。
「……無理だとは思うけどできるだけ落ちないようにしてくれよ」
日向を背中におぶって階段を上る。嗚咽交じりの荒い息、背中越しの早すぎる日向の鼓動を聞きながら俺自身目の前が真っ暗になりそうだった。
寝室に戻って箪笥からタオルを取り、止血する。それでもタオルに滲む真っ黒な血は止まりそうもない。
一階のドアがバンバンと叩かれているのを聞く。鍵すら閉めていないので簡単に開いてしまうだろう。ここは危険すぎる。
幸い梯子はかけっぱなしだ。日向を抱えて渡れるかどうかが問題だったがドアの開いた音と家中に響き渡る奴らの声を聞いて考えている余裕はなくなった。
「日向、これから家に戻る……!たった数メートルでいい、なんとか梯子を渡れるか……?」
普通に考えれば無理なのは分かっていた。しかし日向は目をギュッとつむって、荒い息交じりに小さく「うん」と答える。
ベランダに出ると今朝同様、雲一つない空が広がっていた。のんきな空に怒りをぶつけたくもなったがそんな余裕はない。
日向の体を支えながら梯子を渡る。自分の家と隣の家の庭、総勢二、三十のゾンビが俺たちを見上げながら歓喜の声を上げるように唸る。
「ゆっくりでいい。下は見なくていい、俺の家だけ見て進め」
「うん……でも、何も見えない。」
四つん這いになって進む日向の手は着地点を探っていた。
「……お前何も見えないのか?」
「……くらくらして、まっくらで」
そのまま梯子に頭を垂れて動かなくなる。
「おい!起きろ!あとちょっとだから!」
「……ぅう」
どうにかして梯子を掴み、ゆっくりとまた進み始めた。
「何も……何も見えないよ」
震える手の着地点を探す。
今もタオル越しに滲み出る黒い血液。貧血を起こして視界が真っ暗になっているのだろう。
「そこ……そこだ。そこが梯子。……俺が見てるから、大丈夫だから」
必死で渡る日向にしてやれることは言葉をかけることだけだった。
あまりにも自分は無力すぎた。
自室へと戻り、横にしてタオルを取り換える。血は止まっていたが日向の顔はさらに青ざめて、脂汗を額に浮かべていた。触れた彼女の頬はひどい熱を帯びていた。
水を飲ませて、濡らしたタオルで汗を拭う。
これで助かるとは到底思えなかったが、できることはすべてやろうと思った。
いくら悔しくても今の俺には日向の苦痛を和らげることしかできない。
「……落ち着いたか?」
「……うん……まだ痛いけど」
酷く蒼白とした日向が僅かに笑みを浮かべる。その笑みに胸が痛くなった。
額に手を当てる。人の体温の限界じゃないかと思うくらいの熱さだ。再び濡らしたタオルで日向の顔を拭う。
「……奥村、くすぐったいよ」
「真面目に拭いてんだから笑うなよ……」
「私が変な顔して奥村が笑えばお互い様だね」
日向が変な顔をする前に頬を引っ張る。
「……ぅい、あにやっへんろおふうら」
「引っ張りたくなった」
「仕返ししてやる」
腕を伸ばして俺の頬に触れる日向。その額に涙が落ちた。
それが自分のものだと気づくのに数秒の時間を要した。
「……あれ……ごめん、なに……泣いてんだろな……俺」
一粒、また一粒と堪えていた涙があふれだす。一番辛い思いをしている日向の前で泣くことはしたくなかった。
守ると決めたのに守れなかった。俺のせいでこんな目にあわせてしまった日向の前で、恨まれて当然なはずなのに笑って見せた日向の前で、俺が勝手に泣くなんて許されることじゃないと思っていた。
それなのに涙が止まらない。何回拭おうと、日向へと零れ落ちていく。
「……ごめん、本当に……ごめん……」
鼻をすすりながら、目を真っ赤にしながら、嗚咽を漏らしながら、情けないまでに日向に謝る。
「守りたかった……!守れるって思ってた……!でも……でも……」
こんな情けない俺に守れるはずなんてなかった。
「……大丈夫だよ。奥村はちゃんと守ってくれたよ」
俺の頬を撫でて優しく微笑む日向。
「ちょっと運が悪かっただけ、奥村はなんにも悪くないよ」
「……そんなわけねぇだろ……だって」
「ううん」
小さくて柔らかい親指が俺の涙を拭う。
「私はずっとそばにいてもらえるだけで良かった。……言ったでしょ?奥村と一緒ならどこでもいいって。奥村はずっとそばにいてくれた。今もこうしてそばにいてくれてる。だから私にとって、これ以上のことはないよ」
気が付けば、声をあげて泣いていた。
熱で起き上がるのもやっとだろうに体を起こして俺の肩を抱く。
もう何回目だろう。こうやって日向に抱きしめられるのは。そのたびに彼女が自分よりもずっと大人なんだと思っていた。今日初めて、守られていたのは俺なのだと分かった。
「……最後のお願い、聞いてくれる?」
日向が静かに問いかける。
「私が私でいるまで……このままずっとそばにいてね」
嗚咽を飲み込んで、日向の腕の中で首を縦に振る。
「……それで、最後の最後……私が私じゃなくなったら……きちんと終わらせてよね」
その言葉の意味するところはきちんと分かっていた。でも首を振ることはできなかった。
「そんなの……俺には……無理……だよ」
そんなこと考えたくもなかった。
「分かるけど……私だって……一人はやだよ……私が私じゃなくなったら……この先ずっと一人でいるんだよ……?」
「でも……」
「約束して……。最後まで、私を守ってよ」
日向の言わんとしていることも、俺がすべきことも分かっていた。
「……分かった。……きちんと終わらせる」
涙を両腕で拭って、もう一度日向を抱きしめる。
お互いに何も言わず、互いのぬくもりに、その存在にただひたすらにしがみついた。
綺麗な満月の昇る夜、俺の手を握ったまま日向は覚めることのない眠りについた。最後は寝息を立てていてもおかしくないくらい安らかな表情だった。
すっかり枯れていたであろう涙がとめどなくあふれ出す。嗚咽交じりに何回名前を呼んでも彼女は起きなかった。
どうしていいか、どうすればいいか、なにもかもが分からなくなった。
彼女の死から、これから成すべきことから、すべてから逃げ出したくなって自分の部屋を出る。
月明りの差す真っ暗で静かな廊下にへたり込んで、ただただ泣きはらすことしかできなかった。
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