学校

秋あがり

学校

 ここを訪れるのはおよそ二年ぶりのはずだ。あれは確か、高校二年の夏休みのことだったと思う。今日みたいに暑い日の夕方に、探し物を求めてここにやってきた。あの時は知人の曽根川に誘われてなんとなくついて来ただけだった。

 まばらに自転車がとめられているボロい自転車小屋に自転車をおく。この自転車小屋は昔と変わらず、構成する全ての要素が錆びれている。屋根も柱も仕切りも、何もかもが赤茶色に錆びれている。過疎化の進行に歯止めが効かない田舎なのだから仕方がないか。自転車に鍵をかけてから、寂れた我が母校、木笹中学校の校舎へ俺は足を向けた。生徒用玄関と職員用玄関のどちらから入ろうか少し迷ったが、俺は生徒用玄関へ向かうことにした。あまり人と会いたくないから生徒玄関より職員玄関から入りたかったのだが、あいにく俺は職員ではなくただの卒業生だ。

 校舎を眺めるとほとんどの教室は電灯が消されているが、職員室や一部の教室は明かりがついていて、時折どこからか人の声が聞こえてくる。いかにも夏休み直前の学校生活といった風情である。時期的にも明日か明後日が終業式なのかもしれない。校舎に沿って歩きながら夕暮れに染まり始めた空を眺めていると、ふと中学生だったあの頃を思い出した。俺は陸上部に所属していたので、ちょうどこんな空のもと、グラウンドで短距離走や走り幅跳びの練習をしていた。あの頃の俺は何を思い、何を感じていたのか。学校という環境をどう捉えていたのか。込み上げてくる色々な感情を押しとどめるように、俺は一つ大きく深呼吸する。学校とは不思議な場所だ。ある意味でそれは幻想的とか宗教的と言えるのかもしれない。あの頃は良くも悪くも学校生活こそが俺の全てで、そんなことは考えもしなかった。グラウンドに目を向けると、数人の生徒が1周200メートルのトラックを走っている。あの頃の俺と同じように。


 今朝曽根川から、夕方五時に木笹中学校に来るようメールで連絡があった。なぜそんなところへ行かなければならないのかメールで理由を問うたが、教えてくれなかった。来ればわかる。そんなような曖昧な内容の返信があった。大学で選択した講義の関係で、少し早めに夏休みに入った俺には特に予定がなかったので、曽根川の呼び出しに応じて母校を訪れることにした。たまにはそういうのも悪くない。面倒臭がりな俺には相応しくないそんな感情が、なぜか今日に限って生じてしまったのだ。学校に到着したと先ほどメールを送ったが、あいつから返信はない。時刻を確認すると、四時五十分。予定時刻より早く到着してしまった。特に待ち合わせ場所を決めてはいなかったが、一人で校舎に入るのは心細いので生徒玄関前であいつを待つことにした。校舎の中からは弾むような生徒の声が聞こえてくる。夏休みが近づきテンションが上がっているのかもしれない。

 二年前のあの時は何を探しに来たのだったか、思い出そうとするが驚くほど記憶が曖昧になっている。曽根川のお供をしただけで大して興味がなかったのは事実だが、それにしてもおかしい。あの時のことを思い出そうとすると記憶に靄がかかって、集中力を奪われる。そして思い出そうとした記憶が断片化されて拡散していく。そんな感じだ。自分の脳みそがそれほど優秀だとは思っていないけど、他人から脳内の情報管理に干渉されているようなこの感覚は異質である。まるであの時のことを思い出そうとすることを、何者かに妨害されているみたいだ。俺は思い出そうとすることを諦めて、ただただあたりを眺めることにした。

 こうやって玄関前にぼーっと立っている俺は、学校側から見れば明らかに不審者ではないだろうか。職員室へ行って挨拶してきた方がいいのかな。四年前の卒業生です、友人と待ち合わせをしておりまして、みたいな感じで。グラウンドの方を眺めながら、生徒玄関の入り口のあたりでそんなことを考えていると、背後から小さな何かの破片が飛んできて俺の肩のあたりに当たった。慌てて校内の方へ振り返ってみるが、少なくとも俺が確認できる範囲には誰もいないようだ。飛んできたのは小さな金属製の部品だった。ねじのようでもあり鍵のようでもある。曽根川の仕業か?俺が到着する前にすでに学校に来ていて、何か企みがあって俺のメールを無視しているのだろうか。おちょくられているようで腹が立った俺は生徒玄関に入り、覗き込むように可能な範囲で廊下を見渡した。誰もいない。というか、人の気配がない。異常な静けさが校内を支配していた。


 先ほどまでは感じられた人の気配が、まるで始めから何もなかったかのように忽然と消失した。暑さとは関係のない嫌な汗をかき始めた俺は、背後を振り返りさらに驚愕した。生徒玄関の扉が閉まっているのだ。俺が到着した時には開けっ放しにされていて、俺以外の人間はこの玄関を利用していないはずなのに。得体の入れない恐怖感に支配されながら、慌てて俺はその扉に飛びつく。もちろんここから脱出するために。しかし扉は開かない。開かないどころか、ピクリとも動かない。鍵がかかっているとか、何かに固定されているという感じではない。そもそも鍵は開いている。それなのに、玄関の扉がまるで一枚の分厚いガラス板のようになっていて、押すことも引くこともできないのだ。何かがおかしい。非現実的な現象に直面して恐怖した俺は、思いっきり玄関の扉を蹴りつけた。しかし分厚い壁を蹴った時のような感じで、その威力がそのまま跳ね返ってきて、俺は後ろへ吹っ飛ばされた。もちろん扉は開かず、それどころか傷すらついていない。

 誰かに助けを求めなければ。そう考えて携帯電話をポケットから取り出した。とりあえず曽根川に連絡しようとして携帯電話を操作していた俺は、その画面の表示を見て目を見開いた。電波状況「圏外」。通話もメールもできない。インターネットにも接続できない。これはどういうことなんだ。中学校の校舎の中で携帯電話が繋がらないなんて。

 そこで俺は、メールを受信していることに気がついた。曽根川からのメール。「少し遅れるから適当に校舎の中で思い出に浸っていてくれ」と書かれていた。そのふざけた文面に怒りを覚えた俺は、おかげで少しだけ冷静になれた。いつの間にあいつからメールが来ていたのだろう。携帯電話をマナーモードにしておいたから気づかなかったのか、開かない扉を開けようと躍起になっていて気づかなかったのか。メールの着信時刻は四時五十九分、携帯電話で現在の時刻を確認すると五時九分。俺がどれくらいの時間を玄関の扉を開けようとして費やしたか正確にはわからないが、長くても十分程度だろうと思う。そして、少なくとも四時五十九分の段階では通信できていたことになる。ということは、玄関から出られなくなったことと、携帯電話で通信できなくなったことは一連の事象なのかもしれない。俺は玄関に入った時の状況を思い出そうとする。ほんの十分くらい前のことなのに、記憶が驚くほど脆くて曖昧になっている。こんなことになるなんて思ってもいなかったので、周囲の状況に注意を払っていなかったこともあるが、それ以上に精神的なダメージが大きすぎて、落ち着いて記憶を辿ることができない。それでもはっきりと覚えていることが一つだけある。あの時、校舎の中の方から飛んできた金属製の部品。ポケットの中に入れておいたあのねじのようなものを手触りで確認する。誰かが意図的に俺にぶつけたとしか思えない。俺は意を決して校内を調べることにした。こういう時に一人というのは本当に心細い。曽根川を本気で殴りたくなった。


 念の為もう一度玄関が開かないことを確認してから、俺は校舎の中へ入った。来客用のスリッパには履き替えなかった。木笹中学校には申し訳ないが、何かあった時に全力で走れるように外履きのスニーカーのまま廊下を歩く。真っ先に職員室へ向かうが、職員室の入り口の扉も、生徒玄関の扉と同様に開けることができない。壁と扉が一体化したような感じで、目の前にあるものを扉と捉えている俺の視覚の方が間違っているようでもあった。しかしそのことはある程度予想していたのでそれほど驚かない。より異常なのは室内が不自然に薄暗いことだ。校舎の外から眺めたときは、職員室の明かりが灯っていたはずだが、今は消灯されていて薄暗い室内の様子を知ることはできない。しかしまだ外は明るく、電気がついていなくても廊下から室内の様子を窓越しに確認するくらいはできるはずなのだ。実際に今俺が立っている廊下は、電気がついていなくても辺りを見渡すのに十分なほど明るい。それなのに、まるで黒い煙でも炊かれているかのように、職員室内が不自然に薄暗いのである。

 俺は職員室へ入ることを諦め、廊下をぐるりと観察した。校長室、用務員室、倉庫みたいな部屋(何の部屋か忘れた)、理科室、どの部屋も明かりが消えている。その中で、保健室だけが不自然に明かりが灯っていた。その周囲から浮き立つ異質な明るさが、保健室に来るようにというメッセージに感じられた。明らかに誘われている。どうしよう。素直に保健室へ行けば良いのかもしれないが、罠かもしれない。こんな異常な状況では、素直に行動するなんて危険に自ら飛び込むようなことではないか。口の中が異常に乾き、全身が緊張で強ばる。うまく身体を動かすことができない。どうするべきか。一歩を踏み出せない俺に、保健室の方から女性の声が聞こえたような気がした。

 保健室に来て。

 俺は重い足をうまく動かせないまま、保健室の方へ意識を向ける。すると再度先ほど聞こえた女性の声が呼びかけてくる。

 保健室に来て。

 聞き覚えのある声に思えた。俺はこの声の主を知っているような気がする。そう思っただけで、不思議なほどに身体の緊張がほぐれていく。俺は意を決して保健室へ向かうことに決めた。でも、誰の声だろうか。普段からよく接している人の声でなければ、俺は声色なんて覚えられない。もしくはすごく特徴のある声であるとか。俺はこの声を知っている気がするのに、この声の主の情報に思い当たる節がない。


 保健室の扉は驚くほど簡単に開けることができた。生徒玄関や職員室の扉のようになっていたらどうしようと思っていたが、それは本来あるべき扉として機能してくれた。扉を開けた後に、ノックを忘れたことに思い至った。

 保健室のベッドには木笹中学校の制服を来た一人の女子生徒が腰をかけていた。その女子生徒は俺が知っている人物だった。葉月由紀。彼女は俺の中学校の同級生である。つまりもうすぐ成人になろうかという年齢であり、少なくとも中学生であるはずがない。それなのに目の前にいるのは、あの頃の中学生の容姿をした葉月だった。俺は葉月に何と言葉をかければいいのかわからずに、ただただ彼女を眺めていた。葉月は中学生の頃のままの、年齢の割にどこか影のある大人びた顔つきをしていた。まるで彼女の時間だけが中学生のまま止まってしまったかのように。中学生の頃の葉月は、落ち着いた雰囲気といえば聞こえがいいが、実際には何を考えているのかよくわからない不思議な生徒だった。木笹中学校の俺の学年は総勢40人くらいだったので、同級生のことは程度の差こそあれ大体覚えている。葉月のことはそれほどよく知っているわけではないが、あまり周囲と群れないで一人でいることが多かったと思う。彼女のことで記憶に残っているのは、その不思議な声である。特別な音域であるとか変わった波長であるというわけではないと思うのだが、なぜか彼女の声は俺の中によく届いた。目の前の葉月に会うまで、この声の主が彼女であることを忘れていたことが信じられないくらいだ。不思議な声色を持つ目立たないけど変わった奴、俺は葉月をそんな風に捉えていた。俺は中学校を卒業してから葉月には一度も会っていない。別々の高校に進学したから。

 葉月は不思議そうな表情を俺に向けてくる。なんでここにいるの?とでも言いたそうな雰囲気だ。だけど俺はそれ以上に困惑していた。なぜ俺は学校から出られなくなったのか。なぜ携帯電話で通信できないのか。そして、なぜ葉月は中学生なのか。


 非現実的な世界を目前にして言葉を失っていると、突然あの時のことを思い出した。玄関前で曽根川を待っていた時には、頭の中に靄がかかったような感じでうまく思い出せなかったのに、なぜか今ははっきりと記憶を辿ることができた。二年前のあの夏、木笹中学校を訪れた時のことを。そう、あの時は曽根川に誘われて、あいつの探し物の手伝いをしていたのだ。あまりにも突発的でおかしな話だった。探し物があるから手伝えと言われ、曽根川に半ば強引に木笹中学校に連れて行かれた。担任だった教師に形だけの挨拶を済ませてから、曽根川はその教師に校内を少し見て回りたいと伝えた。曽根川は教師ウケが良かったので、特に怪しまれることはなかったように思う。あいつと二人でたわいもない話をしながら、校内を適当に歩いて回った。曽根川は何かを探しているようではあったが、特定の物を探しているという感じではなかった。机やロッカーの中を探すようなことはしなかったのだ。あえて言えば特定の場所を探しているような感じだった。何を探しているのか聞いたが適当にはぐらかされた。あいつは言いたくないことは絶対に言わない奴なので、俺もそれ以上は聞かなかった。そうしているうちに曽根川が足を止めたのは、二階の女子トイレの前だった。すると俺に見張り役を申しつけて、曽根川は堂々と女子トイレに入っていった。俺は教師がやってこないかハラハラしながら周囲に目を配っていた。犯罪の片棒を担がされているような気がして、なんとも居心地が悪かったことをよく覚えている。10分くらい経って、ようやく曽根川は女子トイレから出てきた。教師ウケの良い目立たない優等生。それを曽根川の表の顔とするならば、あいつの裏の顔は、万人の理解しがたい奇怪な奴。俺の曽根川に対する率直な評価である。


 「どうして高根君がこんなところにいるの?」

 中学生の姿をした葉月が問いかけてきた。その声を聞いて、ああ、やはり目の前にいるこの中学生は葉月なんだなって思う。

 「曽根川に呼び出されたから。あいつどこにいるか知らない?」

 俺は目の前の現状を保留して、どうでも良さそうな話題を持ち出す。軽く流される程度の、いわば時間稼ぎのための会話のはずだった。しかし、葉月の反応は俺の予想しているようなものではなかった。

 「そう、曽根川君は元気?」

 どこか昔を懐かしむような、温かい眼差しで遠くを見つめる葉月。彼女がそんな表情をすることにも驚いたが、何より曽根川に対してそういう感情を示すことに驚いた。俺が知る限り中学生の頃の葉月は、曽根川とはあまり接点がなかったはずから。

 「曽根川は相変わらず曽根川だよ。俺をこんなところに呼び出しておいて、自分は現れないんだから」

 俺はなんと答えていいかわからず、答えになっていないようなことを言った。

 「高根君と曽根川君って不思議と仲良かったよね、価値観も考え方も全然違うタイプの人間なのに」

 葉月は相変わらず何かを懐かしむような感じで問いかけてくる。久々に同級生にあったから、というだけの理由ではないような感じだ。人の価値観や考え方を勝手に決めつけるところが、なんとも葉月らしいと思った。

 「出席番号が近かったからな」

 俺は葉月と話しながら、一方で自分に疑問を抱いていた。ここで葉月と出会うまで、曽根川と木笹中学校を訪れた夏のことが記憶から不自然なくらいに抜け落ちていた。それだけじゃない。保健室から声が聞こえた時、それが葉月の声だと思い出せなかった。あんなにわかりやすい声なのに、実際に彼女にあって初めて思い出した。長い間会っていなかったから忘れてしまっていたとか、昔のことなので覚えていなかったとか、そういうレベルではない。今ここで中学生の姿をした葉月に会って、まるで封を解かれて目覚めたかのように記憶から特定の事象が蘇ってきたのだ。俺はさらに記憶の奥を探ってみる。曽根川と木笹中学校へ行った二年前のあの夏、葉月が失踪したという噂を聞いていた。なんでそのことを忘れてしまっていたんだろう。こうやって考えてみると、葉月に関することが不自然に俺の記憶の中から失われていた。いや、失われていたというより、思い出すことがないように意図的に設定されていたとでも言うべきか。中学校を卒業して葉月と会うこともなくなって、日常生活の中で彼女のことを思い出す機会はなかったわけだが、機会がないことと存在しないことは全然違うことである。

 「それで葉月はこんなところで何してるの?」

 触れてはいけないような気がしたが、なんとなく聞いてしまった。

 「そうね、高根君とは別の世界で生きている。答えになっていないかもだけど」

 そう答えた葉月からは、悲観とか後悔のような負の感情は感じなかった。確かに答えにはなっていない。しかし少なくとも俺の常識の範囲内で納得できる答えなんてないのかもしれない。それくらい異常な状況なのだから。聞くべきではないことを質問してしまったような、そんな後味の悪さが残った。だから、回りくどいことをせずに一番聞きたいことを聞くことにした。

 「どうやったらこのおかしな学校から出ることができる?」

 「本当は高根君が自分でそれを探さなければいけないんだけど、私も高根君がいた元の世界に干渉する必要があるから、ギブアンドテイクということで協力しましょう」

 元の世界とか、干渉とか、葉月が何を言っているのかよくわからないが、正直なところわかりたくなかった。関わってはいけないと本能的な部分でアラームがなっている。俺は何も言わずに葉月の言葉を待った。

 「時計を探してきて欲しいの。この学校のどこかにあるはずだから」

 時計?そんなものこの保健室にだってあるだろう。そう思って壁にかけてある時計に目をやると、その時計の針は五時で止まっていた。この時計では駄目ということなのだろうか。葉月の顔をみると、先ほどまでの柔らかい顔つきから、表情が失われていたようなやや影のある顔つきに変わっていた。俺がよく知っている彼女の表情。これ以上ヒントをやるつもりはない、そんな感じだ。俺は小さなため息をつくと保健室を後にした。


 葉月は時計を探しているらしい、それがどんな時計なのかわからないけど。さっき職員室には入れなかった。他の部屋にも入れない可能性が高い。とりあえず生徒玄関へ向かうことにした。確かあそこにも時計があったはずだから。

 玄関の正面にかけられた壁がけ時計、その針は5時で止まっている。保健室の時計と同じように。この五時という時刻はこの学校において何か特別な意味を持つのだろうか。一階の隅にある理科室に行ってみるが、職員室と同様に、室内は不自然な闇に覆われていて廊下からはその様子をうかがい知ることはできない。そして扉を開けることもできない。こんな感じでどの部屋にも入れないのなら、どこを探したらいいんだ。俺は葉月の言っていることが、意地の悪い無理難題に思えてきた。そもそもことの発端は曽根川が学校へ来いなんて言い出すからだ。あいつのことを考えると再び腹が立ってきた。あいつはどこで何をしているのか。曽根川・・・?


 保健室に戻った俺は、二階の女子トイレに置いてあった懐中時計を葉月に差し出す。まさかとは思ったが、二年前の夏に曽根川が何かをしていた二階の女子トイレ、そこの用具入れにひっそりと置いてあったのだ。もっともこれが曽根川の時計なのか定かではないが。時刻は零時で止まっていた。葉月は嬉しそうに懐中時計を受け取ると、それを一通りいじってから少し目を細めて、

 「部品が足りないわね」

 と呟いた。懐中時計なんて使ったことがないので、どんな部品が足りないのか俺にはわからない。無意識にポケットに手を入れると、金属のねじのようなものの感触が伝わってきた。生徒玄関で何者かに投げつけられたと思われる金属製の部品。まさかと思いながらも、この部品を葉月に渡す。彼女は俺からその金属の部品を受け取ると、器用に懐中時計を操作した。そして、その懐中時計が時を刻み始めた。

 「やったね」

 葉月は中学生のように嬉しそうにその時計を俺に見せてくる。そんなに喜ぶべきことなのか俺にはわからないが、葉月が喜んでいるのならこんな得体の知れない世界とはいえ、女子トイレに入った甲斐があるというものだ。そう思って納得することにした。本当は女子トイレに入りたくはなかったから。

 嬉しそうに懐中時計をいじっている葉月から目をそらし、保健室の中を見渡す。明らかにおかしいものがいくつかあった。姿見どころじゃない巨大な鏡、本棚に収められたたくさんの分厚いハードカバーの蔵書、そして巨大なウツボカズラのような植物。他にも冷蔵庫やテレビなどの家電製品もある。ここは葉月の居住スペースなのだろうか。

 俺が巨大なウツボカズラのような植物に目を奪われていると、葉月がコップを2つ持ってきた。そして、その捕虫袋のようなところに溜まった液体をコップに注ぐ。

 「飲んでみて」

 そう言われて差し出されたコップを俺は静々と受け取ったが、中に注がれた液体を飲むことに抵抗があった。これって消化液だろ。しかし葉月はそんな俺にはお構いなく美味しそうにその液体を飲む。その様子を見て、急に強い口渇を覚えた俺は思い切って少しだけ飲んでみた。ほんのり甘くて、心地よい透明感があって、草の匂いがした。不思議な味だ。まずくはない、というかむしろ美味しい。俺はコップの水を飲み干した。葉月は俺が美味しそうに水を飲んでいる様子を眺めていたが、俺がそれを飲み終えると目を細めて、

 「これで高根君は元の世界に戻っても私のことをちゃんと覚えていられるよ」

 と言った。

 「やっぱり俺は葉月に関することを忘れていたんだな」

 「忘れていたというか、そういうルールだから。でもきっと高根君とはまた会える気がする」

 そう言うと、葉月は再び懐中時計をいじり始めた。なんの時間を合わせているのかわからないが、真剣な表情で操作している。数分して作業を終えたらしい葉月は俺に向かって笑顔を見せてこう言った。

 「よし、これで高根君がいた元の世界と時間の位相が会うはず」


 黄昏の回廊をまっすぐ進むのよ。途中で振り返ってはいけない。迷ってもいけない。どこまでも続く回廊をただひたすら進み続けるの。そうすれば元の世界へ戻れるよ。

 葉月に言われた通りに黄昏の回廊を目指す。具体的な場所は聞かなかったけど、それはすぐに見つかった。二階の渡り廊下。本来は存在しないはずのその渡り廊下は、両側の窓から強い夕日が差し込んでいて、赤とも黄とも白とも違う光で溢れていた。葉月が言っていたようにどこまでも廊下が続いていて、その向こう側をここから確認することはできない。永遠にこの光の道が続いているようだった。扉の開かない玄関同様に得体の知れない気味悪さがあったが、葉月を信じて一歩を踏み出す。しっかりと足を着くことができた。そのまま俺は歩き始めた。

 歩みを進めるほどに光が強くなっていく気がした。あたりが白い光に包まれていて、自分がどれだけ進んだのかわからない。しかもこの廊下、まるでゲームの中みたいに対称になっていて、前に進んでいるのか後ろに進んでいるのかわからなくなる。振り返らずに迷わずに。葉月に言われたことを思い出す。進行方向がわからなくなったら、きっと永遠に迷い続けてしまうだろう。全方向から光を受けているような気がするが、俺の背後にしっかりと影ができている。不思議なものだ。

 もうどれだけ歩き続けただろうか。ずっと同じ廊下を歩き続けているせいで、方向感覚もなくなってきた。もしかしていつの間にか引き返しているなんてことはないよな。廊下を包む光はさらに強くなっているような感じで、窓の外はいつの間にか白一色になっている。世界から取り残されたような、そんな心細さが歩みを阻もうとする。その度に俺は、振り返らずに迷わずにと唱え続けた。俺はずっと真っ直ぐこの廊下を歩き続けてきたはずだが、それさえも疑わしくなってくる。そもそもこの先に元の世界が待っているのか。

 どれだけ歩いても廊下は続く。この白い光が精神的に圧迫してきて息が苦しくなる。歩いているだけなのに異常な疲労感を感じる。本当に俺は真っ直ぐ歩いているのだろうか。本当に振り返らなかっただろうか。葉月の言っていたことは正しいのだろうか。本当にこの廊下が元の世界につながっているのだろうか。そもそもなぜ俺はこんな得体の知れない学校に迷い込まなければならなかったのか。曽根川のせいではないか。光がさらに強くなり、目を開けているのも苦しくなってきた。痛みはないのに、足を前に出すのがひどく辛い。体が錆びた金属のように重い。もういい加減にしてほしい。前方にはひたすら廊下が続き、その先が見えない。せめてゴールが見えればまだ頑張れるだろうけど。そして自分の影がなぜかさっきよりだいぶ薄くなっている。光が強くなっているのに影が薄くなるなんて。


 もうこれ以上は歩けない。そう思った瞬間、俺は膝から崩れ落ちた。体を横にすると、少しは楽になったような気がした。とりあえず休もう。そう思って寝っ転がった。意識が薄れていく中で、なぜか俺の影が消えていくのを感じた。


 「おい、起きろ」

 誰かが俺の体を揺さぶっている。聞き覚えのある声だ。目を開くと、俺を起こそうとしているのは曽根川だった。硬い場所に寝ているみたいで体が痛い。ここはどこだろう。体を起こそうとするがうまく力が入らない。曽根川が手伝ってくれてようやく上半身を起こした。見覚えのある光景。木笹中学校の生徒玄関前のようだ。曽根川から渡されたスポーツドリンクを飲み、ようやく少しずつ思い出してきた。それとともに目の前にいるこの男を殴りたくなった。

 「ここでお前がぶっ倒れているところを陸上部の子が発見してくれたんだ。熱中症ってことにしてごまかしておいたから感謝しろよ」

 玄関の時計を見ると五時十五分。でも今は、そんなことはどうでもよかった。どうやら無事に元の世界に戻ってきた。体を動かしてみるが、とりあえず怪我はなさそうだ。もしかして、熱中症で幻覚を見ていたとか、意識を失っていたとかそういうことなのか。そんな都合の良い解釈をしながら、自分の体を見渡してみる。そして、気がついてしまった。自分の影がないことに。黄昏の回廊で自分の影が薄れていき、そして消えてしまったことを思い出した。傍にいる曽根川にはちゃんと影がある。でも今は、そんなことさえどうでもよかった。あの学校から、あの回廊から無事に生還できただけでも僥倖だった。

 こいつは向こうの世界にいた葉月と関わっているのか。そもそも葉月のことを覚えているのか。今回のことはこいつが仕向けたことなのか。疑問は山積しているが、どうせ聞いても曽根川はまともに答えないだろう。それに俺はこれ以上この件に関わりたくなかった。黄昏の回廊なんて二度とごめんだ。なので、あえて俺は曽根川を問い詰めることはせずに、代わりに恩着せがましくこう言った。

 「二年前のお前の探し物、葉月に渡しておいてやったぞ。感謝しろよ」

 曽根川はなんとも形容し難い、意地の悪そうな笑みを浮かべてこう言ってきた。

 「そうか、それはご苦労さん」

 

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