第6話 人違い

 ペットボトルの麦茶を、適当なマグカップに入れて出す。菊池は、俺が丁寧にもてなしているのが意外だったのか、ものすごく嫌そうな顔をしている。

「今日はなんですか。俺をまた疑ってんですか」

「じゃあ聞くが、どうしてお前は木戸が中で死んでるって思ったんだ。団地では生きてたんだろ」

 やっぱりまだ疑っていたらしい。

「扉が閉まってたからです」

 閉じられた×印の部屋では人が死んでいる。その例はあの廃団地のふたフロアと三階の一部の部屋が証明している。

「教えてください」

「何を?」

「あの団地、死体が見つかった部屋の鍵って開いてたんですか?」

「開いてたよ。それがどうした」

 俺は黙って例のオカルトスレッドを見せた。×印の扉に鍵がかかっていた、という書き込みを指す。それを読むと菊池も気味の悪そうな顔をした。

「どういうことだ」

「あいつが閉めてたんだ。でもあいつが木戸について出て行ってしまったから、鍵が開いたんだ」

「あいつって誰だ」

「木戸を刺したやつ」

 重苦しい沈黙が降りた。やがて、菊池は口を開く。

「事前情報を集めれば、鍵が掛かっていたことを知ることはできる。下見に行って、鍵を開けることもできる。それなら死体が部屋にあることも知っていたはずだ。流石に全部の部屋を開けたとは言わんが、×印の扉と死体の因果関係はわかるはずだ」


 本当にそうだったらどれだけ良いか。

 本当に俺が犯人で……「あいつ」が存在しないならどれほど良いか。


「お前は架空の化け物をでっち上げた。そうでなきゃ、なんでお前だけ無事で済んだんだ?」

「それは、後から行ったから」

「扉一枚でニアミスしたって言うのか?」

「そうです」

「話にならん。」



 その時だった。硬いものを叩く音がした。ノックの音だった。俺は凍り付いたように動けなくなる。

 また叩かれた。菊池は、扉を凝視する俺を怪訝そうに見て、

「出なくて良いのか?」

 俺は答えられなかった。

 「あいつ」に違いない。そんな、妙な確信があった。

 殺し損ねた俺を追い掛けてきたのか。木戸の次は俺なのか。

「木戸の次は俺なんだ」

 あの団地で殺し損ねた俺を追って来ている。扉一枚隔てて、気付かなかった俺に。木戸を追って、俺を逃がしたことを知ったのか。

「何を言って……」

 ノックは続く。外には誰もいないのだろうか? 外に化け物がいたら、誰かが騒ぐ筈なのに。

 それとも、外にいる人も殺されてしまったのだろうか。


「俺が出るぞ」

「出ないでください」

「近所迷惑だろうが」

 菊池は俺の制止も聞かずにドアに近づいた。俺は恐怖のあまり動けない。

「どちらさん……」

 彼の声が途切れた。来客は、菊池の身体に隠れて見えない。

 蝉の声だけが、時間の流れを教えてくれた。菊池はしばらく立ち尽くしていたが、やがてよろけて後ろに倒れる。ドアが閉まった。呻き声がする。菊池は生きている。

 俺はまだ動けない。息を詰めている。「あいつ」が去るまで。その前に、「あいつ」にはやることがあるはずだった。


 ガリ……ガリ……。


 外から、扉を引っ掻くような音がした。俺は悲鳴を上げそうになるのを堪えた。菊池が息を呑むのが聞こえる。

 扉に×印を刻む音はしばらく続いた。やがて音が止まると、遠ざかる足音が聞こえる。廊下を歩く音が。

 本当に、外に人は誰もいないのだろうか? 昼間だと言うのに……いや、平日の昼だから逆に誰もいないのかもしれない。

 足音が完全に聞こえなくなって、俺はようやく、金縛りが解けた様に動けるようになった。菊池に駆け寄る。彼はまだ息があった。

「お前……お前……」

「……だから言ったじゃないですか」

 俺は救急車と警察を呼んだ。


 やってきた救急隊が菊池を運び出した後、俺がドアを見ると、思った通り扉には×印が刻まれていた。

 やっぱり次は俺なんだ……そう考えると身体が竦む思いがする。俺の居所が知られている。


「菊池警部補は無事です」

 この前、俺を送り出してくれた若い刑事がそう告げた。聴取も彼が行なった。菊池の様に居丈高ではないが、必要なことをもれなく聞く隙のなさはあった。

「良かったです」

「あなたは犯人じゃない、とも。酷く怖い物を見たようですが、美津濃さんはなにかご覧になったんですか?」

「俺は本当に何も見ていないんです。相手は菊池さんの陰に隠れてて」

「そうですか……」

「あの、俺しばらくホテルに泊まろうかと思って」

「ええ、構いませんよ。恐縮ですが、どちらのホテルにお泊まりかだけ、教えてください。まだお話を伺いたいので」

「それはもちろんです。でも、話が聞きたいときは呼び出してください。俺の方から行きます」

 彼まで刺されたら、俺は発狂してしまう。俺はその場で近くのホテルの空室を調べ、これから止まりたい旨を告げると、必要な物だけ家から持ってホテルへ向かった。

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