第2話 扉の印
その団地は、駅から車で数十分走った、小さな山の近くにあった。
一時期団地が乱立した時期があったそうだが、ここもその内の一つらしい。子供だった今の四十代が出て行き、残されたのは今の六十代、七十代。エレベーターもない、バリアフリーには程遠い建物が見切りをつけられるのは必然と言えた。
「ホームレスなんかはいないのか?」
「オカルトスレッドによると、ホームレスの間でも敬遠されてるようだよ」
その書き込みは俺も見ていた。いわゆるネカフェ難民が、知り合いのホームレスから聞いた話だそうだ。
「あそこに行くと帰ってこられない。あそこの噂を聞いて、何人もがねぐらを求めて行ったけど、その後見かけた奴は一人もいない」
そんな話だったらしい。赤の他人であるし、巻き込まれたくないから誰も探しに行かなかった。本当なら探しに行くだろう家族は、その前の段階で諦めているか、そもそも身寄りすらないんだろう。
そう考えると少し切ない。
「なあ……」
俺は思わず木戸に言った。
「何?」」
「俺が消えたら、ちゃんと探してくれよ」
「そんなの当然じゃないか。警察も呼ぶし、俺も探すよ」
そう言って、木戸は屈託無く笑ってくれる。
嫌な予感というものはなかった。だからあんなことになったのだ。
先に一人で撮影スポットを探すのが木戸のやり方だった。というか、俺を助手にして、複数人で作業するようになってから、そう言う習慣になった。今までは一人だったから、先に行くもなにもあったものではなかったが、やはり俺という他人の存在は、ノイズと言うか、廃屋と向き合う時に集中の邪魔になるようだった。
ということで、俺は少ししてから後を追っている。
「ゆっくり来いよ。俺はその間に、良い場所を探しておく。見つけたら連絡するから、スマホは気にしておいてくれ」
「ああ。気を付けろよ」
「お前もな」
木戸はそう言うと、懐中電灯で足下を照らしながら階段を上がって行った。俺が任された機材よりも、もっと繊細なものを持っているに違いないのに、ゆっくりと、だが軽い足取りで階段を上がっていく。
俺は少し待ってから、ゆっくりとその後を追った。丁度二階まで上がりきったところで、彼からメッセージが来ていた。「三階で待ってる」とのことだ。あと一階分。俺は気合いを入れ直して階段を上がった。
「木戸? いるのか?」
三階に到着すると、俺は廊下に向かって声を掛けた。返事はない。どこかの部屋に入っているのだろうか。スマホを見るが、特にそう言う連絡は来ていない。
俺はゆっくりと廊下を進んだ。正直、灯りが懐中電灯しかない廃団地の廊下は怖い。歩く度に、ざりざりと、靴底が砂を踏む音がした。どうやら引っ越しや立ち退きの時に置いて行かれたらしい、折れたビニール傘、ぼろぼろの運動靴、そう言うものが、黒ずんで転がっている。
「ん?」
何気なく歩いて、俺はあることに気付いた。ずらりと並ぶ部屋の扉には、×印が描かれているのだ。何だこれは。アリババと四十人の盗賊か?
気味が悪くなって、俺は機材をぶつけないように、という名目でそろそろと進んだ。一つ、また一つ、印のついた扉の前を通り過ぎていく。
やがて、前方に大きく開け放たれた扉が見えた。外開きで、内側が俺の方を向いている。外れた郵便受けが物悲しさを感じさせた。中からは、木戸が持ち込んだLEDランタンの灯りが漏れている。
その部屋に入ろうとして、俺は奇妙な音に気付いた。ドアの反対側からだ。
ガリ……ガリ……と、固い物を釘か何かで擦るような音が聞こえた。まるでドアの表面に何か書こうとでもしているかのようだった。
『なんか、鉄の扉を硬いものでこするようなゴリゴリって音が聞こえたんだよ』
オカルトスレッドの書き込みが脳裏に蘇り、猛烈に怖くなった。俺は息を潜めて、そろりと部屋の中に入る。最初は暗くてよく見えなかったが、やがてランタンの明かりに目が慣れ、俺は木戸の姿を探そうとした。そして異変に気付いた。血の匂いがする。
木戸の名前を呼ぼうとしたまさにその時、俺はやっと自分の傍に何があるかを把握した。
血まみれの木戸だった。
仰向けに倒れている。目は閉じられていて、意識はないようだった。血があちこちから出ている。どうやら刺されたらしい。
大丈夫かと駆け寄ることも、悲鳴を上げることもできずに俺は立ち尽くした。
外からの光がないその部屋で、ドアが閉まることに気付いたのは、重たい音が立ってからだった。
(え?)
俺は振り返った。ゆっくりと遠ざかる足音がする。引きずるような足音だった。
(誰かいたのか?)
ガリガリと音がしたのは、扉の向こうにいたからだったのか。扉に何かをしていたのか。何をしていたんだろう。
考えていても仕方ない。俺は足音が完全に遠ざかってから、すぐに救急車と警察を呼んだ。
彼を運び出して、その後に付いていこうとしたが、その前にどうしても気になって、俺は開け放たれたドアの外側を見た。あの、ガリガリと引っ掻く音の正体が知りたかった。あれは一体何だったのか。
すぐに追うつもりだったから、俺はひょいと覗き込んだだけだった。それでも目に飛び込んできたものは、俺に強いショックを与えた。
扉には釘でひっかいたような×印が刻まれていたのだ。
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