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 祭壇の上に人形をそっと寝かせて、マルシレスラは杖を片手にその前へ立った。傍らに控えたアルセイアスは調弦を終え、これという指示を待つこともなく、緩やかに送りの曲を奏で始める。


 マルシレスラの奉納舞に合わせ楽を奏するのは、彼女が巫女嗣であった時代からアルセイアスの役割だ。亡き兄に代えて、【知】シルヴの長嗣へと据えられることになった時、その役からは自然と降ろされるものとアルセイアスは思っていたが、マルシレスラがそれを許さなかった。

 マルシレスラが何を思って、己を巫女専用の楽人に留め置いたのか、アルセイアスには知れない。けれどこうして逢瀬にも似た、濃密な時間を重ねゆくことがなければ、邪な想いが生じることなどなかったのではないかと、考えずにはいられない。


 合わす必要もない呼吸で、アルセイアスの歌い出しと、マルシレスラの舞い始めが重なる。森を彷徨う死霊を呼び寄せ、その無念を聞き、祈りを大神へと届け、飛翔させてやる、常日頃の卑俗な彼女からはかけ離れたような、神懸かり、神さびた舞踊。

 マルシレスラの巫女たる本領を、発揮させてやれるのが自分であるという自信が悦楽が、アルセイアスの声を伸ばし、爪弾く竪琴の音を至上の楽へと昇華させてゆく。


 遠い昔、アウルの巫女は、民草の願いを大神に伝え、そうして得られた神託を王に授ける神聖な存在だった。アウルを至高の神とし、その神族である白い肌の神々を崇めてきた、グラシアという国が滅ぼされるまで。

 歴史というのは勝者によって築かれてゆくものだ。アウルを魔王と貶め、その眷属から民草を救済したと豪語する、赤い大地が生んだ赤い肌の英雄と呼ばれる虐殺者は、その血濡れの手で時の大神の花嫁を奪いながら、アウルの選民であるアテンハルダの実像も歪めた。


 曰く、それは魔王の力を分け与えられた、魔性の部族である、と――。

 よって、魔力の源である目玉を抉り出し、無力にしてから根絶すべし、と――。



 奉納舞を終えて、上気した肌を汗で湿らすマルシレスラに、訪れたのは達成感ではなく虚しさだった。

 家族に棄てられ森で朽ちた、死霊たちが唱えていたのは新しい神の名だ。彼ら彼女らは、マルシレスラの送りによって、信ずる神のまします処へ旅立つことができたのだろうか……?


「……外界の者は」

「はい」


「もはやアウルに光を求めず、アウルの巫女の役割を忘れて久しいというのに、我らは未だ古の契約に縛られている……。人ならぬものと恐れられ、徒人ただびとからの迫害を逃れて、神の山に隠れ住む我やラシアが、救いようのない民草の叫びを聞くことに、一体何の意味があるというのだろうな……」


 里の首として、齢に似合わぬ威厳も備えるマルシレスラだが、その背丈も、骨細で肉の薄い体つきも、十四歳のマリアセリアとそうは変わらない。

 いつになく小さく儚く見える、マルシレスラの項垂れた後ろ姿を眺めながら、しかしアルセイアスは、その思いに共感してやることができなかった。


「それをあなたにおっしゃられてしまっては、私どもの立つ瀬がないというものでしょう。我らはみな、生まれながらにアウルのしもべです。ここが大神の花嫁の為だけに存在する、巫女守の里であることをお忘れなきよう」


「そうか……。詮無いことを言ったな、許せ、アルセイアス」

「いえ」

「もう少し竪琴を聴かせてくれるか? もうしばらく……、しばらく、ここで」

「御意のままに」


 アルセイアスは素直に応じ、膝の上に竪琴を構え直した。やがて流れ出す澄んだ音色に耳を傾け、床に腰を落としたマルシレスラは、祭壇にもたれ掛かって目を閉じる。


「良い音だ」

「ありがたき幸せ」

「……なあ、セイアス」

「はい」

「お前、竪琴に関することだけは、我の言葉をすんなり聞くな?」


「好きですから」

「好き」

「ええ。書庫で書物に囲まれているのも嫌いではありませんが、こうしていると心が浮き立ちます。私は本当に……好きなのだと……」


 何を――というのはあえて省いて、アルセイアスはそれ以上の言の葉を、興が乗るまま歌にかえた。歌い上げる曲の中に恋歌が交じってしまっても、それくらいなら、許されるだろう。



*****



 一旦止んだ竪琴の音が再び鳴り始めた。淀みない旋律に、やがては、心癒すような歌も乗る。

「姉上様……」

 マルシレスラの心の震えを感じ取り、リテセラシアは吐息を零した。

 アルセイアスの歌声は、中性的な容姿に見合って透明感があり美しい。天は二物を与えずというが、人の手には余るような予見の才と共に、大神は彼に音楽の天分も与えていた。


 ――アルセイアスの楽を、近くで、聴けるなら……。


 巫女修行をさぼりがちであった巫女嗣時代のマルシレスラが、先代と長老たちから叱られて、ふてくされながらそう条件を付けたのは、ただ、綺麗なものに心惹かれる気持ちからであったはずだ。

 そうして……、真面目に修行に取り組むことがなかったらば、マルシレスラが大神の花嫁に選ばれることもなかったかもしれない。身近に置いた年下の若者に、独占欲を持ってしまうこともまた然りだ。


 人は何故、恋になど落ちてしまうのだろう? 慕い合う男女が、吾兄吾妹と呼び交わせるとは限らないこの里で、自分勝手に恋などしても苦しいだけだ。

 ましてや巫女、巫女嗣と呼ばれる身、自分たち双子にとっては禁断なのだとわかっていた。わかっていた、はずなのに……。


 マルシレスラが退席し、そこに集っている理由がなくなり、散会した議場。神殿の住人であるリテセラシアの前には、キセラシオンが一人、対座していた。


 巫女嗣からも、どうか、労いを、と――。

 疲れた様子のキセラシオンを、ここに残していった【力】キリスの長は、跡取り息子の叶わぬ恋を見抜いているのだろう。

 しかしながら、自分の犯している薄汚い罪までは、知らぬだろうとリテセラシアは思う。知っているならリテセラシアを軽蔑し、哀れな囚人めしうどとされているキセラシオンを、むしろ自分に近づけまいとするであろうから。



「……キセラシオン」

「はい」

「あなたの苦しみが胸に迫って、私まで身を裂かれそうです。あの人形の持ち主のように、ほうっておいても果てるような幼子ならば、自ずと朽ちるのを待ってもよかったのでは?」


 気遣う言葉をかけてくれながら、首には向かない甘さを吐くリテセラシアに、キセラシオンはゆるりとこうべを振った。


「私は、キリスの長嗣です、リテセラシア。境界を越えたけだものを、全て仕留めるのが狩人の使命。かつて例外を作ったことが咎人を生み、最悪の結果としてアクタイオンの死を招くことになりました。どんな理由があろうとも、次の長となる私が躊躇うわけには参りません」


 自らに言い聞かせるようにそう言って、キセラシオンは無理やりに笑みを浮かべた。そうせねば正気を保てぬような殺戮を、キセラシオンは――キリスの狩人たちは重ねてきている。アテンハルダの隠れ里を背に守り、自らの身を危険に曝しながら。


「ですが……、キセラシオン……」

「申し訳ありません、リテセラシア。ただ傍にあるだけで、あなたまで苦悩させてしまう。私は何と、未熟なのだろう」


 必要のない詫びに、今度はリテセラシアが首を振る番だった。安全な里の堅牢な神殿の中にいて、幾重にも守護されている自分にせめてできるのは、慟哭するキセラシオンの魂を受け止めてやることだけだ。


「未熟なのではありません。あなたがとても人間らしい、優しい人であるというだけ。重い責を果たすことで、あなたの心がいつか壊れてしまわぬか、私は心配でなりません」


 親身に寄り添おうとしてくれる、リテセラシアの憂えた眼差しは、気を弱らせていたキセラシオンの口をつるりと滑らせた。


「リテセラシア、あなたさえ、いて下さればいい」

「キセラシオン?」


「里や首のためではない。大神に誓った忠誠からでもない。リテセラシア、ただあなたを、この手でお守りしているのだと思えばこそ……、私は幾度でも、どんな血潮にも染まれるのです」


「そのようなことを口にしてはなりません!」


 一息に青ざめたリテセラシアの拒絶に、キセラシオンはやるせなく自嘲した。発してしまった言辞を、取り消すことなどもうできない。どうにでもなってしまえという、自暴自棄な気持ちになった。


「想うことすら許しては下さいませんか」

「想、う……?」

「神のものであるあなたに焦がれる愚は、誰より自分で承知しています。リテセラシア、それでも、私はあなたを愛しています」


 キセラシオンの真摯な告白は胸に突き刺さり、自分が仕出かしてしまったことの愚かしさに、リテセラシアは絶望した。

 何故【心】イオスの瞳などを、こんな厭わしい能力を、自分は持って生まれてしまったのか……!


「それが本当に、純粋に……、自身の内から芽生えた感情だとでも……、キセラシオン、あなたは思っているのですか……?」

「リテセラシア?」

「下がりなさい!!」


 強い命はリテセラシアの紫水晶の瞳から、禁忌の力を発動させてしまった。この期に及んで、もうこれ以上はこの人に、使うつもりはなかったのに……!


 光を失くした目をして、木偶でくのようにぎくしゃくと、それに従うキセラシオンが退出した議場で。

 自分が歪めてしまった想い人に、作りごとの愛を告げさせてしまったという後悔に、リテセラシアは両手で髪を掴み上げ、声にできない悲鳴を上げて、力なくその場に泣き崩れた。

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失楽の予見者 桐央琴巳 @kiriokotomi

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