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疲労を滲ませたキセラシオンが、他二名の若者と共に帰還したのは、さらにそれから数日後の昼下がりだった。
狩人たちの暗い顔つきと、行きと比べて少なすぎる人数にアテンハルダの里人はざわついたが、重傷者は今回連れ帰った内の一人だけであること、そうして
その報は即座に、里の
車座になって待ち構える人々の中央で、上席を占めるマルシレスラに相対し、禊を終えて最後に参上したキセラシオンは半下座をした。大神の花嫁に恭順するキセラシオンの気持ちは、それ以上の感情も催させる、リテセラシアにも向いている。
「南方の国で、口減らしを要する事態があったものらしく、老いたけだものと子供ばかりが、少なからず
けだものはたいてい痩せさらばえており、基本無気力で抵抗も少なく、虫の息になっている、或いは、我々が手を下すまでもなく屍となっていることもありましたが、後顧の憂いを残さぬように、微かでも息があれば見つけ次第に仕留めております。終わりの見えぬ狩りですので、現地において拠点を築き、警邏を命じて参りました。ひとまずはそのご報知と、狩人及び癒し手の交代の要請に戻りました。探索と連絡の要員として、巫女の目も派遣して頂けるとありがたく。
けだものたちが森に入った事情については、私が推測を並べますよりも、遺物は多くを語るでしょう。詳しくはこの品をもってご報告に変えたく存じます」
そう述べてキセラシオンが、床から取り上げ献上したのは、赤黒い血に染まった粗末な人形であった。
人形を受け取った瞬間に、マルシレスラはぴりりと痛みを感じたように眉を顰めた。
「哀れなことだな……」
人形をそっと胸に抱き、赤子をあやすように撫で上げて、マルシレスラはぽつりと呟いた。目を閉じて集中し、マルシレスラはその持ち主が残した思念を読み取ってゆく。姉の肩に手を添えて、リテセラシアもそれを助く。そうして力を増幅することができるのは、この双子姉妹ならではだ。
マルシレスラの頭に響いてくるのは幼い少女の声。そして固く人形を抱き締めながら、少女が耳にした大人たちの声だ。言語の違いをものとはせずに、マルシレスラは妹を連れて、人形に宿る記憶に潜ってゆく。
*****
……おなかがへった。
働いても、働いても、新しくきたえらいひとが全部持っていく。そう言って怒っていたおとなりのおじいちゃんは、この頃ぜんぜん会わなくなった。
ひとつしかない寝台の中で、お父さんとハンナがおはなししてる。家にハンナが住むようになってから、お父さんはあたしと一緒に寝てくれない。
床はつめたい。ひとりじゃ寒い。お母さんのお人形をぎゅってしても寂しい……。ハンナの声が大きくて、お父さんの声は聞こえない。
――何を悩むんだい?
一人減れば、食い扶持だって、税だって減る。お隣みたいにさ、うちも森へ
うちには棄てる爺さんも婆さんもいない? そんなこと、言われなくったってわかっているよ。だけどさ、ねえあんた、うちにはあの子がいるじゃないか。ちっちゃくて、弱っちくって、働けもしない、売れもしない。いつまでたってもあたしになつきもしない、穀潰しのあの子が。
あんたにとっては可愛い子供? そうだよねえ……、前の奥さんを思い出して辛いからって、突き放してるくらい愛しい子だよね。……だから何さ! これ以上食べれなくなって、あんたもあたしも動けなくなったら、どうせあの子だってくたばっちまうんだ!
子供だったら、ねえ……、もうちょっと暮らしがましになったら、今度はあたしが産んであげる。しょうがないよ。だから諦めてよ。あんたとあたしが生き残るためなんだ……。
……ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら。
目が開いたら、お父さんに負ぶわれていた。
ここはどこ? 森の中?
勝手に行っちゃ駄目って言われる、迷霧の森の中?
久しぶりの、お父さんの背中。大きくて、あったかくて、気持ちいい。
ぎゅうっとしがみついたら、ずうっと聞いていなかったお父さんの声がした。
――この森の奥には、楽土があるんだ。
らくど?
――そう。お前は小さかったから、覚えていないか? 昔お母さんが、お休み前に何度もしてくれたおはなし。
この森の奥には、誰もが幸せになれる楽土があって、大昔の神様に選ばれた神人たちが、腹一杯の美味しい食べ物と、隙間風の入らない立派な家と、つぎはぎのない綺麗な衣服をもらって、毎日遊び暮らしている。悪いやつらが入って来ないよう見張っている、おっかない人食いの番人もいるっていうけどなあ。
お前は毎日いい子にしていたから、新しく楽土の住人に選ばれたんだ。先に行って待っている、お母さんのところへ行けるよ。
お母さんの、いるところ、お父さんも、一緒に行けるの?
――……行けない。お父さんは、悪い人間だから。きっと楽土の番人に、頭をぱっくり食べられてしまうよ。
さあここから先は、お前一人でお行き。お父さんの言葉を信じて歩いてゆけば、白く輝く楽土の人がお迎えに来てくれるよ。
怖い。
暗い。怖い。足が痛い。
怖い。暗い。さびしい。かなしい。
らくどになんて行けなくていい。ハンナがいるけど、おうちにかえりたい。いいこじゃなくていい。わるいこになって、お父さんのところへかえりたい。
おなかがへった……。もう動けない……。
らくどのひとなんて来ない。お母さんのところに行けない。おうちがどっちかわからない。お父さんのところにも行けない。
……きれい。
ほんとうにいた。らくどのひと。へんなふく。へんなことば。だけどきれい……。しろくてきれい……。
いけるんだ、お母さんのとこ。お父さんは、うそつきじゃ、なかった……。
*****
少女が最期に目にしたのは、弱々しく手を述べようとする自分の眼前に、それを取ってくれることはなく、かざされたキセラシオンの手のひらであった。
そこで少女の意識はぱたりと途切れ――、ずっと胸に抱かれていた人形は、キセラシオンの念力によって首を飛ばされた、彼女の血潮を吸い上げたのだ。
マルシレスラの内に、行き場のない怒りが込み上げる。
アテンハルダの民が、何代も何百年もこの森の深奥に、隠れ棲んでこなければならなかったのは何故か? 外界の
古い契約に縛られた、寂れた山里に過ぎないこの閉鎖的な里の、どこが楽土であるというのか――?
「何が楽土! 何が伝説の神人か!? この森に、神の光差す場所などありはしない! あるのは時の流れに遺失された、大神の花嫁の
マルシレスラの、大神への冒涜ともとれるような憤りは、彼女が読み取った少女の記憶を知る由もない、里の要人たちに息を呑ませた。唯一人、姉と意識を重ね合わせていたリテセラシアだけが、悲痛に歪めた顔を背けている。
立てた片膝に肘を乗せ、その上にずいと身を乗り出して、マルシレスラはキセラシオンに労いの声を掛けた。
「辛い役目を、よく引き受けてくれたな、キセラシオン。老いていようが幼かろうが、外界の者どもが、我らに仇なすけだものであることに相違はない。迷いが生じた場合には、アクタイオンが何故死んだかを思い出せ。お前たちはなすべき役割を果たしている。誇ることはあっても、嘆くことはないのだ」
「……は」
その言葉を勿体なく受け止めて、キセラシオンは深く
「交代要員の編成については、キリスとアロウの両長に任せる。口減らしの要因は、どうやら為政者の圧政だ。森へ棄てられる子や老人の数にも限界がこようが、長期化も視野に入れて、定期的に入れ替えができるよう組んでおけ。
巫女の目については、それが決定してから考慮する。基本的には、巫女の目の誰かの吾兄が隊にいれば、その吾妹を随行させるものと考えてくれていい。
シルヴの家の者は誰でもいい。可能であればこの件に関して予見をするよう全員へ言い渡せ。媒体が必要とあれば、この人形を使わせる。我に申し出るがよいと伝えよ。
……我はこれから祭壇に行く。我が主への請願と、ついでで鎮魂を取り行う。竪琴を持て参れ、アルセイアス」
「はい」
人々に指示を出し終えて、すっくと立ち上がったマルシレスラは、右手に杖を、左手に血染めの人形を無造作に掴み、畏まった長や長老の間を抜けてすたすたと祭壇へ向かった。
車座をなす人々に一礼をしてから、持参を命じられてきた愛器を抱えて、アルセイアスもそれに続いて退出した。
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