第3話 Good Morning

 ありがとうございました、そう言って下げた頭を戻し、お店の看板をOPENからCLOSEにひっくり返す。本日最後のお客様が退店し、自然と肩の力が抜ける。

 閉店作業をしている私の気分は、少し沈んでいる。

「黒ぶちくん、今日も来なかったな...」

 言って、口に出ていたことにハッとする。誰かに聞かれてないよね、と視線だけで周囲を確認していると、黛さんと目が合った。

「黒ぶちくんって、あの、いつも赤いキャップ被ってるお客様?確かに最近見ないわねぇ。」

「あ、えっと、ですよねぇ。私が入ってる時に見ないってだけじゃなかったんですね。」

「うーん、そうねえ。店長にも聞いてみる?」

「いやいや、いいですいいです。ちょっと思っただけなんで。」

 そう?と言って黛さんは作業に戻っていく。危なかった...いや、特に追及されて困ることもないんだけれど。

 黒ぶちくんがお店に来なくなって、もう1ヶ月以上経つ。彼の部屋でワインとチーズをご馳走になって以来、お店はおろか例のコンビニやその周辺でも姿は見えない。

 もしかして私に会うのが気まずいとかなんだろうか。いや、わんわん泣いて恥ずかしかったのは自分の方だし、それにそういう理由でお店に来なくなるのは彼のイメージに合わない。

「あ、芹川さん、お土産事務所にあるから持っていってね。地元に帰ったときに買ってきたの、鳩サブレ。」

「ありがとうございます。そういえば黛さん、鎌倉のご出身でしたね。」

 旅行だったり里帰りだったりで遠出した人がお土産をもってくるのがうちのお店ではままあることだった。ものによってはすぐ無くなったり競争になったりする。

「あ、えっと、ちょっと多めに貰っちゃってもいいですか?」

「いいわよ、いーっぱい買ってきたから。10人分くらいもってっちゃいなさい。」

「そんなに食べられませんよぉ。」

 ふふっと笑顔で黛さんは了承してくれる。これを持って、黒ぶちくんの部屋を訪ねてみよう。他人様のお土産で恐縮だけれど。

 私は足早にお店を出、ひと月前の記憶を頼りに彼の住むアパートへ向かう。えーっと、部屋番号は忘れちゃったけど、角部屋だったからここで会ってるはず。

 すーっ、はー。一旦深呼吸してから、インターホンを押す。ぴんぽーん、という音がやけに鳴り響いて聞こえた。

「・・・」

 待てどもドアは開かない。留守中だろうか。時刻は19時に差し掛かっていたが、彼の労働時間は恐らく変動的だろうし、今も仕事中かもしれない。

 もう少し待ってみようかな、と私がステイ状態を決め込むと、数分したところで隣の部屋の人が出てきた。

「あ、こんにちは。」

「こんにちは...」

 不審に思われないように咄嗟に挨拶をすると、相手の反応はやや不自然なものだった。却って逆効果だったか、と思っていると男の人は話し掛けてくる。

「あれ、おねえさんここの人、じゃないですよね?」

「あ、えっと、はい。あの、ここの部屋の人の知り合い、といいますか。ちょっと様子を見に来たんですけど、まだ帰ってきてないみたいで。」

「あー、ここの人、少し前に引っ越したみたいですよ?」

「え?」

 脳が言葉を認識しない。目の前のこの人はいま、何て言った?

「2週間くらい前だったかなあ。俺はたまにちょっと話すくらいの間柄でしたけど。なんか仕事の拠点を海外に移すとかで。えーっとどこって言ってたかな、確かニューヨークとかに行くんだって。」

 さっきの話が呑み込めないうちに、更に頭を麻痺させるような情報が伝えられる。引っ越し。しかも、行き先はアメリカ。それが2週間も前のことだという。

「ま、まあ、俺も詳しいわけじゃないんで、もしかしたら間違いかもです。その部屋はもう空きになっちゃってますけど。…それじゃ、俺はこれで。」

「あ、ありがとうございました...」

 ぺこり、と控えめなお辞儀をして隣の部屋の人は去っていった。私はしばらく呆然と立ち尽くしてから、改めて208号室のドアを見やる。

 もう、彼はここにいないのか。お店に来なくなったと思ったら、ニューヨークにいるって。

「ふふっ、なによそれ...」

 なんだかおかしくなって、笑ってしまった。この別れが、やっぱり彼らしく思えて。

 もちろん寂しい気持ちとか、一言くらいあっても良いんじゃない?って文句を付けたい気持ちもあるけど。それでも、なんだか納得してしまっていた。結局名前も知らない、彼の顔を思い浮かべる。彼と出会って、お店で何気ない遣り取りをして。

 そして、この部屋で大切な話をしてくれた。

 死が終わりでないのであれば。

 別れもまた、終わりではないのだろう。だって彼が残してくれた大事なものは、私のなかに今でも確かに生きている。

「次会う時は、美味しいハンバーガーでも紹介してくれたりして、ね。」

 ドアにそっと手を触れ、アパートを後にする。日は沈み、月明かりが街路を照らしていた。帰ったらお酒を飲もう。今日は、2人分の鳩サブレをつまみにして。


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TIMELESS 須能 @silverwhitesnow

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