第2話 As It Is

 黒縁メガネが似合う彼が再び店に顔を見せたのは、彼がフランスへ行くと言った日から1週間と2日後だった。実際の日数以上に、黒ぶちくんを見ない日々は長く感じた。

 窓の外にいつも彼が被っているsupremeのキャップが見えた時、自然と口元が綻んだのを覚えている。

「いらっしゃいませ。」

 お久しぶりです、なんて付け加えようかとも一瞬思ったけど、常連として扱われるのを好まないお客さんもいることが思い浮かんで、結局いつものマニュアル通り。黒ぶちくんはきっとそんな細かいことなんか気にしない。だから、私が気にしてるのは私自身なんだろう。

「どうでした?フランス旅行」

 でもやっぱり彼と話がしたくて、たまらず話しかけてしまう。彼はいつもの飄々とした喋り方で返してくれる。

「いやーマジでやばかったっすね。ブドウ畑見学しに行ったんすけど、ちょうど収穫時期だったみたいで。景色が壮観って感じだったっす。」

 以前テレビのドキュメンタリーで見た個人経営のワイナリーを思い出す。何列にも連なって育てられたブドウ畑が、陽光に照らされ黄金に輝いていた。

「それで帰国してからずっと作ってたんすけど、なんか変に熱入っちゃって。このままじゃ俺ぶっ倒れるなって思って、無理やり中断してここ来たんすよね。」

「作ってたって、お仕事ですか?」

「あれ、言ってませんっけ。俺映像作家?みたいなやつで、CMつくったりMV撮ったりしてるんすよ。」

 彼に関する謎がまたひとつ解けた。といっても会社所属なのかフリーでやってるのかも不明だけれど(そもそもそんな区分なのかも怪しい)、常に何かに興味を持っている黒ぶちくんの人となりが繋がった気がした。

「フランスで映像の素材がめちゃくちゃ手に入っちゃったんで。楽しいけどきついっすね、全然時間が足んないっすよ。」

 きっと彼の毎日は目まぐるしく変化しているのだ。そのなかで自分の広げた網に引っかかったものを逃さないよう常に目を光らせている。一方自分はどうだろう。毎日この喫茶店に出勤して、閉店まで接客とお掃除して、帰宅して。そんな私のループした生活がきらいではないけれど、退屈さを嘆く自分もいることは確かだった。

 変化を望んでいるのに、混沌は恐れ拒絶する矛盾した自分。結局どうすればいいか分からなくて、がんじがらめで身動きがとれない。岩屋のなかで藻掻く山椒魚みたいだ。

「せっかくチーズとワインめいっぱい買い込んできたのに、まだほとんど手つかずなんすよ。」

「仕事がひと段落するまでのお預け状態ですね。」

「そうなってるっすね。なんでちゃっちゃと片付けちゃいたいんすけど。」

 それからコーヒーを一杯お替りして黒ぶちくんは仕事をしに帰っていった。

「芹川さん、急で悪いんだけど明日午後からだけ来てもらえないかな?」

「えっと、13時からでもダイジョブですか?」

「うん、お願いしたい。」

 わかりました、と了解の意を示すと店長は奥へ戻っていく。特に予定もなかったし、平日の午後はそんなに混むわけでもないから良いだろう。突然の休日出勤を命じられても、たいてい断れはしないけれど。

 しかし私のアテは大いに外れ、翌日は息つく暇もない程の繁盛具合だった。どうやら近くでイベントをしているらしく、それを見越した店長の増員要望ということを見抜けなかった。最後のお客さんが退店するのを見送った時、今日は絶対に飲もうと強く誓った。

 お店を後にし、青と白が鮮やかに光るコンビニへ向かう。さてさて、今宵はどなたに楽しませて頂こうかとおつまみ群とにらめっこしていると、後ろから声を掛けられた。

「あれ、店員さんじゃないっすか、奇遇っすね。」

「あ、く...偶然ですね。こんばんわ。」

 危ない危ない、つい本人を前に黒ぶちくんって言ってしまうところだった。何とか誤魔化せた、よね?と彼の顔をちらりと見ると、特に不審がっている様子はなかった。

「お仕事、ひと区切りついたんですか?」

「たった今終わったばっかっすよ。んで俺いつも酒飲む時はここの豚汁締めで飲むんで買いにきたんす。」

 黒ぶちくんはそう言って手にした豚汁の容器をこちらに示す。少し文と文の繋がりが見えなかったが、昨日の話からこの後ワインとチーズを堪能する、ということだろう。

「ご苦労様です。でも良いなあフランスのお土産、私なんてこれから130円のビールで晩酌ですよ。」

「あ、じゃあうち来ます?すぐそこなんすよ。」

「え、そんな」

悪いですよ、と断りを入れようとしたところで、言葉が詰まった。頭に浮かんだのは、1週間と少し前の、彼の後ろ姿。

「...?」

「あ、ええと。じゃあ、お言葉に甘えよう、かな。」

「おっしゃ、決まりっすね。」

 えいやっという気持ちで誘いに乗ると、黒ぶちくんは一度頷いてそのまま会計を済ませに向かう。私はビールを棚に戻し(ごめんなさい)、適当なものだけ買って店を出る。

 黒ぶちくんのアパートはコンビニから歩いて10分程度のところにあった。キレイに掃除された階段を上り、角の208号室に入る。

「お、お邪魔します...」

「どうぞどうぞ。ちょっと散らかってるっすけどあんま気にしないで下さい。」

 少し緊張しながら脱いだESTNATIONのローヒールを揃え、玄関からすぐの部屋へ上がる。間取りは1DKで、6畳くらいかな?奥の部屋がたぶん寝室で、お風呂やお手洗いなんかは今いる部屋を出てすぐのところ。ユニットバスではないらしく、なかなかにお家賃のしそうな所だった。

 黒ぶちくんは部屋の隅のミニコンポを起動し、そのまま一人暮らしには不釣り合いなくらい大きい冷蔵庫をがさごそし始める。流れるブルーノ・マーズに耳を傾けながら、私は紅葉色の円形クッションに座る。

 程なくして黒ぶちくんが右手にはワイン、左手にはチーズを備えた姿で登場する。フランスの観光大使だってこんな有様にはならないだろう。

 私はチーズを受け取って円卓に並べるのを手伝う。カマンベール、ミモレット、モルビエ、ブルーチーズ...これは何だろ。当然フランス語で書かれているので、形から判別できないと何か分からない。プリンみたいな、ヨーグルトみたいな見た目。ひょっとしたらチーズじゃないのかな?

 しげしげと小さめのカップ容器を見つめていると、黒ぶちくんが教えてくれる。

「それはカンコワイヨットっすね。たいていのチーズ作るときに捨てちまうホエーって奴を活用してできるみたいっす。向こうでちょっと食べましたけど、チーズってよりソースみたいな感じで面白いっすよ。」

「へぇ。初めて見ました、えっと、カンコワイヨット。」

 卓上ではワインとチーズの博覧会が催されている。脇を固めるバゲットやリッツもニクい。グラスへ注がれるコルトン・シャルルマーニュのトクトクという音が鼓膜に優しく滑り込む。

「フランスの文化に、乾杯。」

「乾杯。」

 ちん、とグラスを鳴らし口へ運ぶ。ふわりとした芳香が広がり、上品な酸味が口腔内を満たす。

「とっても美味しいです!こんな良いワイン飲んだのいつぶりだろう...」

「俺もこんな機会じゃなきゃだいたいそのへんで飲んじゃうからなぁ。定期的にこういうことできるのが理想っすよね。」

 もぐりもぐりと薄くスライスしたミモレットを咀嚼して、またワインをひとくち。コンポから流れる曲はいつの間にかAviciiに変わっていた。

 それからぽつりぽつりと、いくつかの話題を散発的に話した。不思議と沈黙も気にならなかったし、彼の体験は刺激的なものばかりで飽きることがなかった。

「しかしワインもチーズも面白いっすよね。どっちも置いとけば置いとくほど熟成されてうまくなるの。発酵っていうもの自体がなんか好きなんすよね。」

「発酵、ですか...」

 私は4杯目、黒ぶちくんは6杯目に口をつけ始めた時に彼が呟いた。発酵が面白い。分かるような、分からないような。酔いで頭がうまく回ってないからだろうか。

「なんていうんすかね、すぐ形にならないものっつーか。今食べてるチーズだって、残しておいたら更に熟成進んで味が変わるじゃないすか。そういういつまでたっても終わりのないものに惹かれるっすね。」

「でも、食べちゃったらそこで終わりじゃないですか。」

 頭がぼうっとする。何でこんなことを言うんだろう、私は。そうですねって相槌を打てばいいのに。この失礼な口は更に言葉を重ねようとして止まってくれない。

「確かにワインもチーズも寝かせておけば深みが増しますよ。でも、結局いま食べてるものはそこでおしまいだし。例えずっと放置したとしても、最後には腐ってダメになっちゃう。どちらにせよ死が待ってるだけじゃないですか。」

 そこまで言い切って、黒縁メガネをかけた彼の顔を見る。驚いた訳でもなく、困惑している訳でもない、その表情は一体何を表しているんだろう。

「死を、終わりだと捉えているんすね。」

「え?」

 思いもよらぬ返答を受けて、思考が停止する。死が、終わりである。それは、その通りじゃないのだろうか。

「例えば今俺の手にあるこのロックフォールってブルーチーズ。熟成には3ヶ月以上かかるみたいっすね。そんだけ長い期間かけて作られたチーズを、食べます。」

 そう言って黒ぶちくんはなにとも合わせずそのままひとかけらを口に放り込む。むしゃりむしゃりと嚥下し、続けてグラスに残っていたクロ・ド・ヴージョを飲み干した。

「これで、確かにこのチーズ、いち個体は消滅したっす。まあ厳密にはまだ俺の腹の中にあるっすけど。それも数十分もすれば消化して完全になくなるっすね。」

「ええ、だから、それでおしまいなんですよ。このチーズにかけられた時間も、労力だって。その先には続かない。」

 私も彼の真似をしてロックフォールをつまむ。クリーミーな甘みのなかにぴりっとした塩っけを感じる。単品で食べるにはくせの強い味に、思わず顔をしかめてしまう。

「そこが俺の考えとの相違点っすね。こいつが無くなるってだけで、ロックフォールを食べたっていう経験が俺の中に残り続ける。」

「経験、ですか...」

「このチーズは三大ブルーチーズって言われてるみたいっす。それは、いろんな人が食べて、この味を気に入って。それで、皆の記憶に残ったり色んな人が伝えたりして、そう称されるようになったわけじゃないすか。食べた瞬間終わりなんだったら、そうはなってないっすよ。」

 経験。ものが消えても残る、五感で直接に感じ取ったそれは、人の中で記憶され、再現され、そして伝播する。

「あーうまいなって思って。後からあれ良かったなって思いだして。そんで誰かにおすすめしたりして。そういうのって、食べたチーズが自分の一部として存在し続けてるからって気がしないすか?」

 私は卓上の食べ物に目を落とし、そして今しがた食べたばかりのあれそれを思い出す。酔いが回った頭でも、鮮明に記憶に残っていた。

「付け加えるなら、人だって同じだと思うんすよ。それに、仕事もかな。」

 何故かどきり、とした。人も、行き着く先は終わりではないというのか。

「俺が死んだらたぶん火葬されて、骨だけになっちゃうっすよね。俺という人間の物質性は大部分が失われる。それでも俺が生きた証は残るし、それが残るように生きていきたいと思ってるっす。」

「生きた、証ですか。」

「そう、俺が確かにこの世界に存在して、毎日歯食いしばって生きてたんだぞっつう証明っす。俺という人間そのものだけじゃなくて、俺が見たもの、聞いたもの、なんでも人に伝えていくんす。そうやって誰かがまたそれを誰かに伝えていくんす。そうすりゃ俺という人間は、いつまで経っても終わらないっすよ。」

 ああ、それは本当にその通りかもしれない。今私の目の前にいるこの人。背が高くて、ちょっと太めの体格で、突飛な話し方をして。

 そして何より、黒縁メガネが似合う彼は、私の脳に鮮烈な存在感を持って刻まれている。きっと私だけじゃない、この人に出会った人たちの心の中には、彼の強烈な人間性が息づいている。

 私も、誰かにとってそうであるだろうか。おとうさん、おかあさん。店長。大学の時の友人や、地元の幼馴染。初恋のあの人。酷い喧嘩別れをした不動産会社のあいつ。

 あとは、黒ぶちくん。誰かのなかに残る私は、もしかしたらいるかもしれない。私がこの世からいなくなった後も、世界に留まり続ける私が。

「死は、終わりじゃなかったんですね。私、何故だかずっとそう思ってたんです。」

「ええ、死は、終わりじゃないんす。かといって別に、始まりって訳でも無い。死は、ただ死であるだけっす」

 そこで一息置いて、天井を見上げ、そしてまたこちらに視線を戻して、その落ち着いた声で述べる。

「でも、死を死以上のなにかにするものがあるとしたら、それは死を受け取った人たちと、何より、死ぬまでのそいつの生き方ってところじゃないすかね。俺は、そう考えてるっす。」

 その言葉を聞いた瞬間、頬を涙がつたっていったのが分かった。何杯も飲んだワインの水分が干上がってしまうくらい、いつまでも、いつまでも溢れ出して止まらなかった。



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