TIMELESS

須能

第1話 Life is One Time

 自分でも理由は分からない。


 ただ、たまらなく恐ろしい。


 TVのニュースを聞き流している時

 駅の改札を抜ける瞬間

 駆け回る小学生を目にする夕暮れ


 そういうふとした折に、恐怖が肩を叩く

 

 この身にも、確かにそれは迫っている

 逃げることなんて、きっと誰にも不可能だ


・・・


 彼の名前を、私は知らない。

 だから、勝手に黒ぶちくんと、心の中でそう呼んでいた。モスコットの丸い黒縁メガネをかけている彼を初めて見たのは、もう半年以上前になる。

 その日は、夏の終わりにおひさまが最後のひと踏ん張りをしているみたいに、とっても暑かったのを覚えている。お店の空調は古いタイプのものだから、ぐぅぐぅ唸るばかりで涼しくしてくれない。

 私は背に流れる汗を感じながら、先程までの賑やかさを思わせるテーブルを片付けていた。おばちゃん達は容赦なく卓上で無秩序な世界を形作る。どうしたってこれ程までにしっちゃかめっちゃかにするんだろう。きっと家では夫や子供たちが散らかす様を叱責する側であるハズなのに。

 そんな不平が顔に出ないよう口角を上げながらお皿を重ねていると、カランコロンとドアの鈴が鳴った。閉店まで後約1時間というタイミングで、彼は一人で入店してきた。

 私は一旦バッシングを中断し、5脚までのカウンターに彼を通した。少し肉付きの良いその体格通り、彼の額や鼻の頭は私の比にならないくらい汗をかいていた。

 気持ち氷をいつもより多めに入れたお冷を渡すと、すぐに飲み干しアイスコーヒーを注文される。

 その後は店長に任せ、私はテーブルの片付けを再開。確かその日はそれっきりで、それ以上私が黒ぶちくんと話すことは無かったし、特に興味を引くようなことも無かった。

 それでも何故か、再び彼が店を訪れた際には、(あ、先週来たお客さんだ)とすぐに思い出した。

 普段から店長はお客さんの顔をよく覚えているけれど、私はあまり得意ではなかった。だって、常連さんならまだしも、2〜3ヶ月に1度くらいで来る、しかも30分もしないで出ていってしまうお客さん一人ひとりを覚えていたら、私の小さな脳はすぐにパンクしてしまう。

 それだけに、黒縁メガネの彼がすぐ思い出せたのは、自分でも意外だった。

「あ、俺カウンターのここ座ってもいいすか?」

 そう言って黒ぶちくんは初めて店に来たときと同じ席を指差した。落ち着いた低い声と裏腹に、口調は軽い。

 夏の暑さはもう過ぎ去っていて、1週間前が嘘みたいに過ごしやすい気候になっていた。なのに彼の肌は汗ばんでいたものだからおかしかった。

 それから週に1度は必ず来店するようになった彼。いつも同じカウンター席でコーヒーを頼んで、1時間くらいしたら出ていく。

 タブレットを弄っている時もあれば、難しそうな英字新聞を広げていることもあるし、何もせずにぼうっとカウンターの内側を眺めているだけの日もあった。

 黒ぶちくんは誰かに話し掛けるのに物怖じしない人らしく、メニューやお店のことで気になったことがあれば私を含め従業員によく質問した。コーヒーの豆が何故コナ産のものばかりなのか、とか。この喫茶店はオープンしてどれくらい経ってるのか、とか。

「ついさっき、そこの交差点で信号待ちしてたんすけど」

「はい?」

 黒ぶちくんはいつも唐突に話し掛けてくる。これは彼をお店で見かけるのが10を超えた頃にした会話だ。

「後ろで何かぶつぶつ言ってる人がいて。で、俺に声かけてんのかな、って思って『何すか?』って振り向いたんすよ」

「ええ、それで?」

「そしたらその人、通話中だったんすよ。あれ、イヤホンで会話するやつ。最近なんか多いじゃないすか。」

「あー、ハンズフリー通話ですか?」

 わざわざ携帯を耳に当てずに通話が出来るアレのことか。私はあんまりやったことないけれど、確かに街中でよく見かける光景になってきた。

「そうそう、それっす。あれ紛らわしいっすよね。横目で見たとき携帯手にしてるのが目に映れば俺も勘違いしなかったと思うんすけど」

 そう言い切ったら満足したのか、黒ぶちくんはいつものようにコーヒーのお替りを頼む。刹那的な彼の話し方は、今まで出会ったどんな人とも違っていて新鮮だった。

「休みの日って普段何してます?」

 だから、この突然の質問もいつものことではあったんだけど、私のプライベートに踏み込むようなことを聞かれたのは初めてだったので、戸惑いを覚えた。

「そうですね。ちょっと凝った料理するか、映画見に行くか、とかかなぁ。」

「映画かぁ、それもいいかもな...」

 黒ぶちくんは私の答えを聞いてぶつぶつと呟いている。

「あ、後はたまになんですけど、温泉行ったりしますね。日光の方とか、草津も。」

「あー、良いっすねそういうの。...そうだ!そうしよう。」

「え?」

 そう言うと、思い立ったかのようにアイフォンを取り出してついっついっと操作を始める。手持ち無沙汰になった私は、砂糖やガムシロを袋から出してボックスに入れ替える。

「スペインとフランス、どっちが良いと思います?」

 作業していると、後ろから声を掛けられる。何だろう、その二択は。黒ぶちくんはこちらを見ておらず、その視線は変わらず携帯に注がれている。

「うーん、じゃあフランスかな。私、エクレア好きなので。」

「え、エクレアってフランス発祥なんすか?」

「たぶん、そうだった気がします。お菓子職人さんが、昔偉い人に作ったとかなんとか。」

 彼の興味が引けたらしいのが嬉しくて、何とかエクレアの謂れを思い出そうとしたけど、曖昧な情報しか出てこなかった。ホントはイタリアが起源なんだっけ?いや、それはマカロンだったかな?

「ところで、何の質問だったんですか?」

「あぁ、明日から旅行しようと思って。フランスに決めました。」

「えぇ!?何ですかそれ、ていうか良いんですかそんな決め方で?」

 思わず大きな声をあげてしまった。対して黒ぶちくんは良いっす良いっすって感じで頷いている。明日から4日間、突然仕事が休みになったから、何をしようか決めあぐねていたらしい。それでさっき旅行することにして、その候補地がフランスかスペインだったという訳だ。

「フランス語、話せるんですか?」

「まあ何となく。同じ人間だしどうにかなるっすよ。あ、一緒に行きます?」

「え!...っと、明日も仕事、なので。」

 あーそうっすよねー、と言う彼は、さして気にしてる風でもなかった。どういう気持ちで誘ったのかは分からないけれど、きっと深い意味は無かったんだろう。

「じゃ、準備しなきゃなんで、今日はもう行くっす。ごちそうさまでした。」

「ありがとうございました。お土産話、楽しみにしてますね。」

 そう言い残し去っていく彼の姿を見て、私も行けば良かったかな、なんて思った。 一瞬一瞬を逃さず過ごしているような黒ぶちくんの生き方は、真似できない私には眩しく見えた。






 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る