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 『泡沫の転校生』



 そう呼ばれている女子生徒がいると知ったのは、去年の初夏。


 小耳に挟んだ情報を繋ぎ合わせると、弧を描くように綺麗なボブヘア、大きな目、透き通る肌。白地に紺襟のセーラー服がよく似合うとか。結論から述べよう。外見的特徴は事実だった。が、その正体はとんでもない。呼び名も相まってどんな清楚女子かと思っていたことを、お前は知らないだろう。



 サボりを隠す気すらなかったナメた態度のあいつが、泡沫の転校生の正体。泡沫の、という修飾語は勿体無い。世界史に怯える転校生、ぐらいが適切だ。理由は、世界史の授業を抜けてくることが多いから。



 同一人物だと気付いたのは何度か会った後のことだった。夏のうちは毎回決まって水泳の授業後にやって来たものだから髪が濡れており、噂に聞いていたボブヘアではなく。


 では何がきっかけとなって判明したのかというと、


「『泡沫の転校生』がテーマの曲作ってもらうとか、できませんか」


 の一言。提案、というよりお願い。言葉のニュアンスから自発的に気づき、念のため確認したら、そうだと答えた。


「すぐに消えるっていうのが由来だと思いますよ。教室にいること少ないんで」


 それが理由の転校生ならもっと変なあだ名がつきそうなものだが。『泡沫』なんて美しい日本語を持ってくるあたり、こいつの見た目が影響しているのだろう。『大和撫子』の割合を全て外見に持っていかれた、口が達者な高校生。



白川しらかわ


 俺の呼びかけに髪を揺らして振り返る姿を、窓から射し込む光が照らす。俺は短く息を吐いた。あだ名の名付け親が誰かは知らないが、センスの良さは認めざるを得ない。


「お前、クラスに友達いんの」

「友達の定義が難しいところですけど、いなくはないと思いますよ。ああでも、その子たちのために死ねるかって言われたら絶対無理です」

「そんな極端すぎる問いは誰もしないと思うけど、断言するんだな」

「迷う余地あります?」


 キョトンとしてみせた後、ふふっと悪戯な笑みを浮かべる。俺はどうもこれに弱い、かなり。

 

 当たり前だが恋愛感情はない。それを抱く相手は別にいた。そうでなくとも生徒を対象として見ることはできない。愛の形は様々だから否定はしないが俺は発泡スチロール程度の強度だから、犯罪者と呼ばれるのはゴメンだ。



 すぐに結論を出すことや要約することは昔から避けたい道だった。ディベートなんてもってのほかで地獄を見た経験がある。そもそも発信すること自体が苦手で。そんな俺が曲を作ってきたのは、言語化できない感情の形や色、規模を、音楽が補ってくれる気がするから。言葉単体はかなり扱い辛いツール。多すぎても少なすぎても駄目。『ちょうどいい』は、実は最も難しいのかもしれない。



 風でぱたりと倒れた写真立てを元に直す。あいつがいない保健室は静かで物足りなかった。そもそも保健室とはそうあるべきだとわかってはいながらも、違和感。非日常が日常になるのに要する時間は意外と短い。


 カチ、カチ、カチ。時計の音は背景だ。いつも通っていたはずの道で突然目に入った建物や看板が、実はずっとそこにあったものだった。それとよく似ている。認識するまで、自分の中では存在していないのと同じ。


 年をとればとるほど視野が狭まる。年の功なんて言ったりするが、それは『普通』の支配下での範囲の話。つまり氷山の一角。



 大多数の人間の人生はメリーゴーランドだ、と思ったことがある。ジェットコースターのような高低差はなくただ回り続けて、見えるのは同じ景色ばかり。次第に目も回って、何がなんだかわからなくなる。けれど自分の他にも大勢が乗っている、だから大丈夫。回っているところから降りるなんていう危険な真似はしない。そんな奴がいたら皆で馬鹿にして笑うんだ。


 自分と他人を傷つけない範囲で好きに生きる。それが俺の理想だが、これにはある程度の意志が必要になってくる。誘惑してくるくせにあとは放置。欲望は無責任を突き詰めていた。


 俺はメリーゴーランドから降りたもののその場から動けない人間だ。だから降りた途端何かを目指して颯爽と走っていく人々に惹かれる。今までもそこにあったのに見えていなかった存在、透明物に気づく機会をくれるのは彼らだ。


 白川はそれに該当する、と言いたいところだが、どこか引っかかる。あまりにも危うさが桁違いで。何をそんなに生き急いでいるんだ?



 先を生きる人間、という名称に恥じぬためにも、精一杯理解しようとした。それでもわかったのは、わからないということだけ。



「……よし」


 丸まりがちな背中を伸ばしてからノートを開く。シャープペンシルのノック音と秒針が、1度だけ重なった。






 ▱





 2学期に入り、白川が保健室に来る時間帯が変わった。本人曰く、


「単位足りなくて留年は本気で無理なんで」


 とか。体育が水泳になる間は次の授業をよくサボっていたから、2学期はそこを埋めつつ余裕のあるところを削る、といった具合で、ギリギリのラインを計算しているらしい。


 そんなわけで水曜5限から月曜3限の常連になり、1ヶ月が経った今日。授業始まりのチャイムとほぼ同時にドアが開く。


「メロンソーダの気分だったのになあ……ショック」


 その手にあるペットボトルには、体に悪そうな色をしたいちごミルク。雑にスニーカーを脱ぎ捨ててスリッパに履きかえる。保健室に来る生徒の態度ではない。突然演技力が開花したとしても戸惑うが。


 手慣れた様子で置いてある紙にペンを走らせ、ベッドに腰掛ける。


「今日の症状は……『頭痛』と」

「夜ふかししたんで、朝起きてからずっとなんですよ」

「もう少し真っ当な理由を考えるとかしろ」

「先生の前では正直でいたいんで」


 首にペットボトルを当てながら笑う。水滴のまとわりついたそれに、5月に切ってから少し伸びた髪がぺたりと引っ付く。静かな空間、主張してくるのは心臓の鼓動。



「……あのさ、ちょっといい?」


 俺の問いに大きい目をさらに大きくする。妥当だ。今までの会話の第一声、そのほとんどが白川だったのだ。俺は間髪入れず続けた。


「『泡沫の転校生』をテーマにした曲つくってほしいって話、覚えてる?」

「え、え? もちろん! 覚えてます!」


 頭上で電球が光ったときのような表情に安心する。忘れられていたらここで終わるところだった。


 鞄からそっとノートを取り出し、机の上のスマホにイヤホンを接続する。それを見た白川はこちらにやって来た。自分がつくったものを他人に見せるというのは、何度やっても緊張する。普段は蓋をして隠している内部を覗かれてしまうようで。


「はい」

「ありがとうございます!」


 電球の次は五線譜が見えそうだ。ノートを受け取って開こうとしたその手を、俺はあと一歩のところで遮る。


「1つ言っておく。テーマは『泡沫の転校生』じゃない」

「え? どういうことですか」


 疑問はもっともだ。会話の流れからして、今から見聴きしてもらうのは『泡沫の転校生』がテーマの曲になるのだから。俺は思わず掴んでしまった腕を離す。


「お前がどうしてそんなに生き急いでるように見えるのか。言葉をかけるなら何が良いのか。考えたけどわからなかった。……だからこれは、100%の自己満足」


 見たことのない顔で、椅子に座ったままの俺を見下ろしている。目を泳がせて唇を軽く結ぶ。少しの沈黙の後、ゆっくりとノートを開きイヤホンを装着した白川に合わせて、再生ボタンを押した。



 曲の長さは約3分。カップ麺ができあがるのを待つ時間。あっという間に経過するはずなのに、全然じゃないか。


 時計が支配者だと言っていたこいつの言葉が、今強く刺さる。イヤホンは音漏れを塞ぐタイプのもので両方とも白川の耳にある。俺の耳に響くのはやけにうるさい秒針の音。


 じっとしていられずに立ち上がり、机の向かいにあるソファへ座る。次に視線を動かしたのは、


「先生」


 という呼びかけで。ソファから離れ、でも机には近づかずその場で立ち尽くす。心臓が口から出そうとはよく言ったもので、どんどん位置が上がっているような気になる。


 最近やっと暑さが和らいだところだったのに、額にじわっとにじむ汗。聴いている間ずっと立ったままだった白川は片方ずつイヤホンを外して、こちらを見る。そして、口を開いた。


「先生は……太宰も、バッハも、ニュートンでさえも超えてしまう天才かもしれません」

「……は?」


 声に力が入らない。いつも以上に馬鹿なことを言い出した。作家と作曲家である前者2人はまだしも、今この状況で出てくるはずのない学者の名前に困惑させられる。


「本気ですよ。心の底からの言葉です。私の語彙力じゃ、それが限界なだけで」


 俺の心の声を読み取ったかのように言う。そして対面にいる俺に手招きをし、自身の背後に立つよう促した。

 





『見つけられるもんならね?

 挑発的にも思えるような

 昼間の月が絵になって

 僕は君に弱いみたいだ』






 ノートに書かれたBメロ。お世辞にも綺麗とは言えない俺の字を、人差し指で優しくなぞる。


 

「私、ずっと星になりたかったんです。でも……今日で終わり」


 脈絡のなさは通常営業。でもそれはいつもと少し違って聞こえた。白川はノートを持ったまま、スリッパをパタパタと鳴らして窓際に向かう。そのまま空いた左手でカーテンを勢いよく開けた。空に向かって指を差す。その対象は俺の位置からは見えないが、1つしかないだろう。



「昼間の月の方が、性に合う気がするので」


 

 そう言ってこちらを振り返る。喉仏まで辿り着いた言葉をすぐさま押し戻した。ゆっくりと息を吸って、吐く。嬉しそうにノートを見つめる白川の隣に立った。窓の外、ちょうど真上に見える、透けた白。


「あれだけ高いところにいれば、時計の音も聞こえないだろうな」


 昼の空を見上げたのなんていつぶりだろう。まだ俺には眩しい。……でも。視界が青で埋められる心地よさから徐々にフェードアウトして気づいたのは、ボブ頭の存在感。


「なんだ、その間抜け面」

「だって……赤点回避したの、めちゃくちゃ久しぶりですもん」


 何点?と尋ねた俺に向けられたのは、左手で順に表した1、0、0。白川の目は潤んで見えて、鼻の奥がつんと痛んだ。







 生きていけ。


 お前はずっと、そのままで。









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