残照が消えるまで

生き馬

短編

 自転車を路地の傍に止め、ワイヤー錠で前輪と街灯を繋ぎ止める。

 折良く鳴り出した夕刻を告げる鐘を耳に、四条しじょう 光輝こうきは学校指定のボストンバッグを肩に担ぐ。


 気付けばポール状の車止めも石畳に薄く影を落とし、空も橙色に染まり始めている。

 生来のアレルギー体質に鼻をグズグズ言わせながら、光輝は石畳の階段を登り始める。



 光輝は、夕焼けを眺めるのが好きだ。

 僅かな時間で猫の目の様に変化する色。

 天頂にある時よりも僅かに大きく見える太陽。

 そして無性に掻き立てられるノスタルジア。

 夕焼けを眺める時間は、中学生として貴重な放課後の一部をなげうって余りある大切な時間なのだが──


 ふと、光輝は自身の事を顧みて何度目かの疑問を覚える。

 自分がここまで夕焼けを好きになったのには何かもう一つ大きな理由があった筈だ。

 それはいったい何だったか──その理由を探るべく記憶を遡ろうとすると、いつものように途中で記憶が途切れる。

 諦めきれずに、記憶の糸口を探ろうともがき続けると、終いには締め付けられる様に脳が痛んだ。


「……」


 光輝は無言で一つ大きく頭を振ると、いつの間にか階段の中程で足が止まっていたことに気づき、一足飛びに駆け上がる。


 階段を登り終えた先──三叉路さんさろの右手を数歩行くと、そこには留め具が外れ、木の板の一部が傾き接地してるボロボロのベンチがある。

 そしてその更に奥の赤茶けたフェンスに囲まれた場所からは、昨今の町をあげたニュータウン計画の煽りを受け、新興住宅が軒を連ねているのを臨める。

 光輝にとってその場所こそ夕焼けを眺めるのに最適な場所であり、未だかつてその後ろを通る人こそあれど、ただでさえ壊れかけのベンチに腰掛ける物好きなど見た試しがない。

 だからだろう。日ごろの運動不足が祟り、息も絶え絶えに階段を登り切った光輝は息を呑んだ。


 小学校高学年、いや中学生かもしれない。

 白いワンピースに身を包み、まるで祈るかのように両手で白杖のグリップを握りしめた少女が、落ちていく夕日を前に憂いを湛えた表情を浮かべてベンチに腰かけていた。


「……」


 呆然と立ち竦む光輝。

 少女はそんな光輝を一顧だにせず、身動ぎ一つ無く紅緋色べにひいろに染まった空に目を向けている。

 折れてしまいそうな程に華奢な体躯に、ベンチに腰掛けて尚分かる楚々とした居住まい。

 それは夕焼け空と相まって、現実の光景とは思えない程に神秘的で、光輝は自分が立ち入ってはいけない所に入り込んでしまったかのように錯覚し、急に居た堪れなくなった。


 今日は帰ろう。


 そう思い至り、実際に踵を返すのが全く不自然ではない程にその光景は光輝抜きで完成されていた。

 それ故、少女の幾ばくかの不安を孕んだ呼び声が聞こえ無ければ、光輝は登り終えたばかりの階段を降る事となっていただろう。


「……誰?」


 光輝の方を振り返り、眉根を寄せ白杖をギュッと胸元に引き寄せた少女は、震えた声でそう尋ねる。

 まるで彼我ひがの距離を測りかねるように彷徨う視線、そして白杖。

 少女が視覚に何か障害を抱えているのだという事に、光輝はようやく気が付く。


「誰、ですか?」


 返事を返さない光輝に業を煮やしたのか、それとも単にこの間が耐えられなくなったのか、少女は再び尋ねる。

 光輝は、どのように返答すべきか数瞬頭の中で思考を巡らせ、少女に怪しまれないよう、穏便に事を済ませようなどと考える事の無意味さを悟る。そして、


「四条 光輝です」


 とそれだけ言った。


 スッと息を吸い込む音が聞こえた。

 それは勿論光輝が発したものでは無く、先程よりも明らかに浮き足立った少女の吸気音である事は明らかだった。

 少女は、しきりに何かを伝えようと口を開くも結局それが音となる事は無く、最後には完全に押し黙った。


 暫しの息苦しい沈黙。


 少女は先程とは打って変わり、俯き、小刻みに体を震わせる。

 流石にその息苦しさに耐え切れなくなった光輝は、多少上ずった声で問いかけた。


「夕焼け、綺麗だよね」


 反応は歴然だった。

 ピタリと体を制止させた少女は、恐る恐る顔を上げる。


「僕も、良くここに来るんだ。日が沈むのを見るのが好きで」


 どうして、と少女の口が動いたように感じた。


 お互いを値踏みするような──そんな奇妙な間が生まれる。


 そしてそれを破ったのは少女だった。

 まだ胸に疑問の塊がこごっているのだろう。

 自分が発した言葉にすら自信無さげに、文節の一つ一つに疑問符を付けるかのような喋り方で、少女は光輝をベンチの隣に座るよう促す。


 細長い木の板の一枚が折れて接地し、座るたびにギシと音を立てるそのベンチ。

 少女との間に微妙に距離を空け腰掛けた光輝は、少女の行動からつい先程、念頭に漠然と浮かんだ一つの仮説を投げ掛ける。


「もしかして、君とどこかであった事がある?」


 この時、少女が浮かべた表情を言葉で表すのは難しい。

 憐憫が、悲哀が、憤怒が、諦観が、一秒の半分にも満たない時間で少女の顔に過ぎったかと思うと、少女は最後に小さく微笑んで言った。


「いえ、まさか」






 夕焼け空も、気付けば紅緋色から茜色にその色彩を僅かに変化させていた。


 光輝は、少女と二人何をするとも無く、ただ静かに空を眺めている。

 先程はあれ程までに息苦しいと思っていた無言の空間は、今となっては幾分か居心地の良い物へと変化していた。


「ねえ」

「なんでしょう」

「僕は、夕焼け空を見るのが好きだからこの状況に対してなんら不満は無いんだけど。あの、君は......」


 少女の触れては行けない所に言及してしまう恐れからか、言葉選びに難儀し一人へどもどする光輝に対して、少女は年に見合ない嫣然えんぜんとした笑みを浮かべる。


「ご心配なく。白杖こそ常に携帯していますが、全盲と言う訳ではありません。それに左目は光の強弱しか判断できませんが、右目はある程度……そうですね、このくらい近づけば四条さんが人間であるのか、はたまた唯の棒なのか判断できる程度には物を見る事が出来ます」


 そう言って少女はじっと光輝の瞳を見据える。

 瞳の奥が、何かに期待するかのように揺れている。

 光輝は一瞬言い知れぬ違和感に襲われ、顔をしかめる。

 脳の奥が、焦げ付くように痛んだ。


「あ、四条さん」


 まるで先程の行動が軽率だったと言わんばかりに少女が目を逸らし声を張り上げた先、豆粒程度の大きさのカラス達が、カアカア鳴きながら隊伍を組んで飛んでいた。


「見えるの?」


 口を衝いて出て来た、光輝の純粋な疑問に対して、少女は小さく頭を振る事で応じた。


「いえ、鳴き声が聞こえたので」


 そう言い一度言葉を区切った少女は一度唇を舌で湿らせ、訥々とつとつと語り出す。


「私にとって、この世界は音と感触と匂いと、そして少しの視界で構成されてました。普通の人が最も頼りにするでしょう視力が殆ど無いので、その分小さな音を聞き取る事、微かな匂いを嗅ぎ取る事、家に帰るまでに転ぶ可能性のある僅かな段差を把握する事、これら全てを世界から強制されました」


 そう言うと少女は悔しげに下唇を噛んだ。


「転んで、白杖が転がりでもすれば憐れの一言です。つくばって、周囲の人々からの奇異の視線を一身に受ける中、誰からも助けてもらう事なくようやく白杖を探し当てるも、その時には自分がどっちを向いて居たのかを見失い、見当違いの方角に歩き出して自転車のベルに腰を抜かす」


 少女はその身を削り、痛みに顔を歪めながらも言葉を紡ぐ。


「だから私は覚えました。先程述べたように家に帰るまでの道のりにある段差、そして帰り道の飲食店の匂いを覚えて現在地を見失わないようにし、自動車や自転車、歩行者の発する音から、来る方角や距離を見極めて事前に対処するようにしました」


 そこまで一息で言い切った少女は、一転して朗らかな顔を浮かべ、夕日を見つめる。


「私にとって周りが絶賛する景色も風景もイマイチピントが合いませんでした。ただ、夕焼けだけは違いました。僅かな時間で変化する色彩に沈みゆく夕日──」


 そこまで言うと、少女は白杖を支えに立ち上がる。

 夕風が少女のワンピースを静かに揺らす。


「四条さんとは見えてる景色は違うかもしれません。でも、私はこの夕焼け空に希望を貰いました。私はこの夕焼け空を心の底から愛しています」


 そう言って少女は愛おしげに双眸を閉じる。

 少女のまつ毛が、間も無く完全に沈むであろう太陽によって赤銅色に照らされていた。






「そろそろ帰らなきゃ」


 少女に聞かせるとも無く、意図せず零れ落ちたかのように光輝はそう呟いた。


 夕日が完全に沈み、尚残る残照が雲を下から茜色に染め上げ、遥か後方に連なる山々をシルエットに変える。

 暗くなるまでが門限と定められている光輝にとって、帰途につく時間は日脚の長さに左右される。

 中学進学を期に、学校に自転車で通えるという理由から身を寄せる事になった伯父が住職を勤める永妙寺えいみょうじ──その中に存在する居住空間である庫裏くり

 この高台からさほど遠くない事もあり、完全に夕日が沈んでから帰り支度を始めたとして永妙寺の山門をくぐる頃にも完全に夜のとばりは下りない。

 なので今から帰れば、別段急がずとも門限には間に合うのだが──


「──君は、この後どうするの?」


 浮かせかけた腰を再びベンチに降ろし、光輝は少女に尋ねる。

 少女はまるで何も聞こえていなかったかのように沈黙を貫いていたかと思うと、急に我に返ったように歯切れの悪い口調で、


「私も、帰ります......」


 と喘ぐように答えた。


 光輝はその返事に少し困惑するも、頷き一つ立ち上がる。

 光輝が自然と目前に差し出した手を取り立ち上がる少女は、先程までの端正な立ち居振る舞いは何処にやら、酷く困窮したように背中を丸める。

 その明らかに異常な少女の様子に、光輝は眉を顰める。


「大丈夫?家まで送ろうか」

「いえ、それには及びません」


 打てば響くような、立ち入る隙を与えない明確な拒絶を表す返事が少女の口から発せられた。


「じゃ、じゃあ、途中まででも」

「いえ、四条さんのお家は階段の下の方角でしょう。私はこっちなので」


 そう言って少女は三叉路の左方を向く。


 取り付く島がないとはこの事だ。

 先程までの弱り果てた態度から一変、少女の顔には決然とした意思が宿っていた。

 その後数度押し問答を重ねたが、その全てがにべもなく断られ、結局折れたのは光輝の方だった。


「......じゃあ、また機会があったら」

「......」


 少女は光輝を──厳密にいえば光輝がいるであろう方向を──何を言うでも無く見つめていたかと思うと、それっきり振り返る事なく三叉路を左方に進む。

 光輝もその少女の背中を、角を曲がり完全に見えなくなるまで見守ると、慌てたように石畳の階段を駆け下りる。


 辺りはまだ完全には暗くなっていない。

 自転車に括り付けた街灯がジジと音を立てて点灯した。




 永妙寺の外に併設された一般参拝者向けの無料駐輪場に自転車を止め、光輝は南大門を抜け、恐る恐る中門をくぐる。

 三重塔を左手に金堂を右手に進むと、その先には講堂がある。

 光輝の伯父に当たる四条しじょう 大生たいせいは、浄衣を身に纏い、“案”という名の神具らしい白木で作られた台を前方に据え、四方に立たせた忌竹に巻き付けるように注連縄しめなわを貼った祭場──その後部、大きな石によって囲まれた火処で、今も尚くすぶる燃えさしをじっと見つめていた。


 光輝は、自分が近付いてはいけないという雰囲気を察して足音を殺し、塀の内側に寄り添うようにして庫裏を目指す──が、


「あれ、光輝君。今日は遅かったじゃないか」


 暗闇の中、僅かな燃えさしと講堂からの仄明りで光輝の存在を認めた伯父は、怒った様子も無く、光輝にこちらに来るよう手招きをする。


「すいません。帰るのが遅れました」


 駆け足で伯父の下に向かい、折り目正しく頭を下げる光輝の姿に、伯父は穏やかに笑うとその頭を優しく撫でる。

 そして光輝が顔を上げると同時に、燃えさしが燻る火処にそれとなく目をやり、


「私が今何をしていたか分かるかな?」


 と楽しそうに光輝へ問いかけた。

 光輝は、伯父からの唐突な質問にその題意が掴めず、顔には出さないまでも激しく困惑する。

「適当でいいから言ってごらん」という伯父の一声が無ければそのまま延々と考え続けていただろう。


「……寺院に溜まったゴミの焼却ではないですよね?」


 神具、祭具が点在する祭場。まさかゴミ掃除の為にこれ程大仰な物を用意する事もあるまい。

 そう光輝が自身が感じるのだから、正解である筈が無い。


 しかし光輝の苦し紛れの解答に、伯父は望む解答を得たとばかりに大きく頷いた。


「確かに、一見してゴミにしか見えないだろうね」


 そう言って目を眇める伯父の視線の先には、辛うじて形を保った人形、顔の一部分が写り込んだ写真や書籍の燃え滓、炭と変わった履物、壷の破片等々。


「この普通の人にとってはゴミにしか見えない物はね、私にお焚き上げ・・・・・をしてもらう為に、様々な人が、わざわざお金を払ってまで送ってきた物なんだ」


 伯父はそう言うとおもむろに空を見上げる。

 昨今のニュータウン計画と関係があるのかは分からないが、明かりが増えたこの町では星一つ満足に見付からない。


「長年使ってきた物には想いがこもる。そして必ず魂が宿る。つまりもう燃え滓へと変わってしまったこの人形にも、元々魂が宿っていた訳だ」


 そう言って、伯父は弔うように、労わるように目を伏せる。


「何故人形が私の元に送られてきたのかは分からない。新しい人形を買って不要になったのだろうか。部屋が塞がり、手元に残しておくのが難しくなったのだろうか。はたまた恋人と決別して、その相手から貰った人形とも決別せざるを得なくなったのか。私には何も伺い知る事は出来ない」


 ただ──と伯父は続ける。


「ただ──私が行ったお焚き上げは、現世に宿った魂に『ありがとうございました』と御礼を捧げ、浄火する事によって天上へ返す儀式だ。そしてわざわざ身銭を切ってまで人形を送ったその人は、それだけこの人形を大切にしていたのだろう」


 人形を、その他様々な物品の送り主達を慈しむように、伯父は口の端に微笑みを湛える。

 しかしその表情も長くは続かなかった。


「街中を歩いて、無造作に捨てられた物品を見る度、私はそれらに宿った魂を天上へ帰してやれない自分の無力さが嫌になるよ」


 伯父はそう言って嘆息する。

 物品への扱いが粗雑な大多数の人々を責めるでもなく、伯父はただひたすらに持ち主から見捨てられた物品を、宿った魂を救ってやれない自分自身を責める。


「救えない魂という点では、何も話は意思を持たない物品に限ったことじゃない。物品に関して言えば、その魂は完全に物品の使用者に依拠する。しかし、人間に関して言えば、その魂は大多数の人々に影響を受けたとして、最後は自分自身に帰着してしまう」


 いきなり飛躍した話についていけない光輝の様子を感じ取ったか、伯父はそこで一度口を噤むと軽く咳き込む。


「これは私個人の考え何だが、いくら死者に花を手向け供養し、法事を行ったとして、死者の魂の中には天上へと還らない物が存在する。そのような魂は揃って生前に何かやり残した事が存在する」


 そこまで言って自身の顔が強張っていたのに気付いたのか、伯父は戯けたように光輝へと質問をする。


「なあ、光輝君。突飛な話だと思うけど、君が今後殺人鬼に殺されたとして、お経を唱えられ、光輝君が好きだった物と一緒に火葬され骨壷に入れられ、年に一回ぐらい親族がお参りに来てくれるけど犯人は捕まらない。この状態で天上で安らかに眠る事は出来るかい?」


 光輝は即座に頭を振る。


「いえ、なんとかして殺人鬼に法の裁きを受けさせるか、最悪でも毎晩殺人鬼の夢枕に立って恨み辛みを唱えてやらないと気が済まないでしょう」


 光輝のその言葉に、伯父は一笑し手を打ち鳴らす。


「それは中々ユニークな復讐方法だ。とまあ、言いたい事は伝わったみたいだね。長年使われ続けたにも拘らず、感謝一つなく捨てられ朽ち果てる物品同様、生前にやり残した事がある人も私達僧侶は救ってやれない。人間が天に還る為には、生前になるべく悔いの残らないよう生きるしか無いんだ」


 そう言って、叔父は禿頭を手のひらで撫でる。

 そして少しの間を置くと、まるで往年を懐古するように目を細める。


「因みに私の名前である大生たいせいも、限りある一生を大切に生きて欲しいという願いを込めて親から授かった名前だ。お陰様で、現状いつ死んでも幽霊となって現世を彷徨う事にはならないだろう」


 そう言うや否や伯父は光輝の肩に手を置く。


「長々と話してしまったが、結局私が言いたかったのは二つ。物を大切にする事。そして限りある一生を後悔しないように生きる事」


 伯父は光輝の瞳を覗く。

 必然的に覗く事となった叔父の瞳には、光輝を慈しむかのように優しい色が湛えられている。


「守れるかい?」

「はい」


 光輝はそう言って大きく頷いた。





 永妙寺の庫裏は、屋根に桟瓦葺さんかわらぶきを用い、切妻造りという本を開いて伏せた様な形状の、寺社によくある構造物の形を取っている。

 しかし、それは外観のみの話であって、庫裏の内部は先代の意向か驚く程現代的だ。


 ダイニングキッチンには、真空チルド室を備えた冷蔵庫に、コーヒーメーカー、フードプロセッサーまで完備しており、当然だがテレビもソファーもある。

 畳こそリビング一面に敷き詰められており和を感じさせるが、何故だか壁に取り付けられたボタンを押すだけで床暖房が機能する。

 という訳で、以前は空部屋だったらしい光輝の部屋も、一般的な中学生と比べて大差ない内装となっている。



「……疲れた」


 お風呂上がりの火照った体にまだ少し湿気た髪。

 重い足取りで自室に戻った光輝は、そう言うなりベッドの上へ仰向けに倒れ込む。

 目の上に腕を翳し、天井のLEDライトからの光を防ぎながら、光輝は今日あった出来事をぼんやり顧みる。


 ──不思議な少女だった。


 少なくとも光輝はそう思った。

 見かけによらず大人びた言動や、序盤の光輝へと何か期待する様な気配。

 そして最後に見せた自己に立ち入られるのを極端にまで拒むその態度。



 夕風に靡く髪。

 燃える様な夕日によって茜色に染め上がったワンピース。

 そして、錫杖を手に神々に祈りを捧げるが如く白杖を握りしめた少女。

 瞳を閉じれば、高台で少女を見かけた時の光景がありありと浮かぶ。


 それはあまりに非現実的かつ神秘的であり、一枚の絵画として過不足なく完成していた。

 光輝の割り込む場所など何一つ無かった。


 つと、頭痛が光輝を襲う。


 ──本当にあの時光輝が少女に話しかけて良かったのだろうか?


 背筋を通った寒気に、光輝は身をぶるりと震わせる。

 光輝は立ち上がると蹌踉そうろうとした足取りでライトを消し、再びベッドの中に潜り込む。

 目を閉じると、憂いを帯びた少女の顔が瞼の裏に浮かんだ。






「行ってきます」

「いってらっしゃい」


 不思議な少女との出会いから一夜が明け土曜日になった。

 光輝の通う中学は、週5日制を取っており土曜日は一日中休みだ。

 山門から叔父に見送られた光輝は、無料駐車場に止めていた自身の自転車に跨り、ペダルを漕ぐ。

 太陽が西の地平線に差し掛かろうとしていた。


 ──本当に少女に会いに行くべきなのか?


 光輝は自転車を走らせながら、今日何度目になるか分からない自問を繰り返す。


 少女が、あの高台で今日も夕焼けを見ている保証はない。

 それ故、この自問が取り越し苦労になる事は大いにあり得るだろうし、実際そうなった方が後腐れなく終われて光輝にとっても少女にとっても良いのだろう。

 ただ、万が一少女と再会する事を考えると心の中も穏やかでは居られず、ハンドルが手汗でじっとり濡れる。


 石畳の階段前の最後の信号に差し掛かり、光輝は最終確認と一度大きく深呼吸する。


 ──本当に自分は少女に会いたいのか?

 会いたい。会って少女の事をもっと知りたい。


 ──本当に自分は少女に会って良いのか?

 分からない。ただ、少女はもう自分との再会を望んでいない様な気がする。


 気付けば赤信号は青へと変わり、点滅を始めていた。

 光輝は散々迷った末にまなじりを決し、勢いよくペダルを踏み込む。

 ここで少女に会わないと後悔するだろうと、過去の自分の経験が言っていた。


 石畳の階段前に辿り着き、覚束ない手つきで街灯と自転車をワイヤー錠で括り付ける。

 一度少女と会うと固く決心してしまうと矢も盾もたまらず、息急き切って階段を駆け上がる。


 石畳の階段の上、三叉路を右に行った目と鼻の先。



 果たして──少女はベンチに端然と腰掛けていた。


 相変わらず息を呑む程に非現実的で神秘的で、光輝は少女に会ったら言おうと思っていた言葉を忘れて呆然と佇む。

 少女は光輝が来るのを予想していたのだろうか、驚いた様子もなく悠然と振り返り、悲愴な笑顔で言った。


「待っていました」





 少女に促されるまま、光輝はベンチに腰掛ける。

 損傷の激しいベンチに気を使う余裕も無く、無造作に腰掛けた光輝は、どもりながらも挨拶をする。

 少女も光輝に挨拶を返すと、昨日同様奇妙な間が空いた。


「あ、あの」

「話したい事があります」


 話し始めたのは同時だった。

 ただ、違う点を挙げるとすると、光輝は沈黙に耐え切れず、話す内容も考えずに勢いで少女に話し掛けたのに対し、少女は光輝と会ったら言おうと心に決めていた事がありながらも、今に至るまで言えずにいたという様子だった事だ。

 少女のただならぬ様子を敏感に感じ取った光輝は、すぐに口を噤む。

 少女も意を決して話し始めた筈が、思わぬ足止めに毒気を抜かれたように呆然としていたが、それも数秒の事だった。


「話したい事があります」


 凛とした少女の声。

 光輝は思わずと言った様子で居住まいを正す。

 少女は俯き、まるで感情を気取られる事を嫌がるように、意図的に瞳を前髪で隠しながら続ける。


「今日で私はこの街を去ります。よってこの高台に来る事は金輪際無いでしょう」


 その声は、慎重に聞かなければ分からないほど小さく、泣き声の様に震えていた。

 光輝は、そんな少女の様子に戸惑い、そして少女の発言内容が気になった。


 少女がこの街から居なくなる。

 たしかに衝撃的な話だし、光輝としても少女と会えなくなってしまうのは悲しい事だ。

 しかし、互いに出会ってまだ2日目であり、互いの仲を客観的に表したとして知り合いが関の山だ。

 主観的にも少女が友達程に親密だとは思えないし、少女としても光輝の事を友達と思っている訳ではないだろう。

 では何故、少女はこの街から出て行く事を光輝に、ここまで辛そうに、悲愴に語るのだろうか。


 少女は困惑し、返事を返せずにいる光輝を見据える。

 瞳が僅かに赤く充血している。


「私はどこか遠くの場所へ行きます。場所は伝えられません」


 そう言って少女は嗚咽するように息を吸い込む。

 そして決定的なその一言を告げるべきか否か、瞬き一つ分の時間迷い、


「もし今後私を見かける事があっても、絶対に話しかけて来ないでください」


 精一杯の侮蔑と嫌悪を込めて、少女は光輝にそう言い放った。


「え……」


 光輝の口から、その言葉が溢れ落ちるのも無理はない話だ。

 少女は、光輝の反応を直視出来ないのか、ギュッと目を瞑りまくし立てる。


「最初から貴方なんかに話しかけるべきなんかじゃなかったんです。私は貴方と会った事を心の底から後悔しています」


 光輝という人間を批判し、指弾する様な少女の口調。

 それは何故だが先程の言葉と違い、紛れも無い少女の本心に聞こえた。


「私は貴方が大嫌い・・・です」


 それは殆ど泣き声だった。

 声は裏返り、涙が少女の頬を通じて地に落ちた。

 少女が発した言葉の持つ意味とは裏腹に、少女の一挙手一投足が彼女の言葉を否定していた。


 光輝は呆然と立ち竦み、何も返せずただ少女の瞳を見つめていた。

 少女は、荒い呼吸を繰り返して居たかと思うと、唐突に白杖を掴み、光輝から逃げる様に走り出した。


「あ!」


 と光輝の言葉が届くより先に少女は転んだ。

 少女は転がった白杖を這い蹲って探し当てると再び走り出してまた転んだ。


 光輝は動けなかった。

 少女を止めようと、助けようと動かした足が震えた。


 気付けば少女の姿は見えなくなっていた。






 それから数ヶ月、いや数年、大学を卒業するまでの間、殆ど欠かす事なく光輝は高台に足を運んだ。

 休日の日には遠出をして、夕日が綺麗に見える場所や少女の知り合いを探して各地を渡り歩いた。

 しかし、少女の行方は杳として分からなかった。


 石畳の階段を登り、三叉路を右折すると、いつも少女の姿を幻視した。

 少女の幻は、決まってベンチの脇に近付いた時に消えた。


 気付けば、あれほど好きだった夕焼けが嫌いになっていた。







 永妙寺に立ち寄ったのは偶然だった。

 今年で30歳となり、壮年期へと差し掛かった光輝はトラックのエンジンを切り、懐かしさすら感じる山門を通る。

 伯父は境内に溜まった落ち葉を掃いていた。


「あれ、光輝君じゃないか。久しいね」

「もういい大人なんですから、やめて下さいよその呼び方は」


 そう言いながらも、光輝は相変わらず健勝な伯父、そして懐かしい景色と匂いに目を細める。

 伯父も禿頭を撫でていたかと思うと、光輝の姿に笑みを浮かべ頷いた。


「光輝君は運送会社に就職したんだったね」


 別段頭の良い訳ではない大学を卒業するに至って、光輝はまず就職先に悩んだ。

 経済学部を専攻したのは良いが、それを就職に活かそうとは毛程も考えていなかった。

 そしていよいよ就職先を決めないと不味い時期になってふと、光輝は昔伯父から聞いた話を思い出した。


 脳裏に浮かんだ伯父の幻影は、物を扱う事の大切さを説き、物に宿った魂を天上へと還してやれない自分の無力を責めていた。


 それが一番の動機となったのだろう、光輝は運送会社に就職し、今や立派なトラックドライバーとなった。


「薄給なのが玉に瑕ですけど、やはり物を扱う仕事は良いですね」

「そうかい。そうかい」


 会社お仕着せの紺色のジャージにズボン──そのポケットを弄りながら不満を垂らす光輝の横で、伯父は嬉しそうに頷く。


「まだ、夕焼けを見てるのかい?」


 伯父の言葉に、光輝は最後にじっくりと夕焼けを見たのはいつだったかと追想する。

 そして大学を卒業してからは一度も夕焼けを見ていないという事実に気付き、自分の事ながら驚く。


「もう見てませんよ」


 苦笑まじりに答えた光輝に、伯父は「少し待ってて」というや否や、庫裏の方へと向かって行く。

 そして数分と掛からずに出てきた伯父の手には、何かを笹で包んだ笹巻きがあった。


「何ですかこれは?」

「これはね、こしあんを生麩で包んだ物で、笹巻きあんぷと言うんだ。久し振りに光輝君が好きだったあの高台に行ってみたらどうだい?」


 そう言って笹巻きあんぷを手渡し笑う伯父の顔はどこまでも人が良く、光輝は乗り気では無かったが苦笑して頷いた。


「じゃあいってらっしゃい」

「行ってきます」


 中学時代に乗っていた自転車はもう壊れてしまった。

 材質上お焚き上げは出来なかったが、しっかりと感謝の言葉は伝えた。


「私なんかに燃やされるよりも、使用者から直接感謝される方が、自転車もよっぽど嬉しいだろうね」


 叔父はそう言って、目元を緩ませ笑っていた。


 石畳の階段の近場に駐車場があるとも思えないので、仕方なくトラックではなく徒歩で向かう。

 毎日通った道を歩いているだけで、懐かしさに自然と胸が一杯になった。




 高台までの最後の信号を渡りきり、石畳の階段の前に辿り着く。

 伯父が鳴らす鐘楼しょうろうからの晩鐘を耳に、光輝は一段一段ゆっくりと踏みしめるように階段を登って行く。



 階段を登る光輝の脳裏に浮かぶのは、白いワンピースを着た少女だ。

 今ではきっと素敵な伴侶を見つけて妻として一家の家計を支えているか、光輝には想像すら出来ない様な事をしているのだろう。


 しみじみと少女に思いを馳せ、光輝は最後の数段のみを駆け足で登る。


 登り切った直後、一際大きな夕風が吹いた。

 風に誘われる様に視線を向けた先、三叉路を右折した場所にある広間で白いワンピースが靡いた。


「……え?」


 その言葉は夕風に掻き消され、光輝の耳にも届かず消えた。

 激しく痛む頭、もつれる足を叱咤し、不恰好な姿勢で光輝は駆ける。

 新しくなったベンチの脇に辿り着き、光輝は何も言葉を発せず立ち尽くした。



 光輝の目前──未だ赤茶けたフェンスの前で、白いワンピースを身に纏った小学校高学年、いや中学生かもしれない少女・・が一人、白杖片手に佇んで居る。

 それは紛れも無い事実であり、決して少女の幻影では無かった。

 少女は鷹揚に振り返ると、目を赤くして、精一杯バツの悪そうな顔を浮かべて言った。


「見つかってしまいました」




 その瞬間、光輝の頭がネジ切れる様に痛んだ。

 あまりの痛さに耐え切れず、光輝はその場でくずおれる。


「……え、こうちゃん!大丈夫?ねえ、光ちゃん!!」


 重度に酩酊した様に激しく揺れる視界の中、懐かしい呼び名が聞こえた気がした。

 ただ一人自分を光ちゃんと呼ぶ、生まれつき目に障害を抱えた幼稚園からの幼馴染みにして、光輝が死なせしまった一人の少女。

 薄れゆく意識の中、何一つ気付いてやれなかった自分に嫌気がさし、光輝は自嘲の笑みを零した。





「光ちゃん!光ちゃん!!お願い……起きて!起きてよ!!」


 騒がしくも懐かしい声が耳朶を震わす。

 光輝は、薄眼を開けて涙声で光輝の名を連呼する少女の瞳から零れ落ちそうな涙を親指で拭う。


「光……ちゃん?」

「すまないあかね


 光輝はいつのまにか茜の膝を枕に眠って居た事に気付き、起き上がる。

 そして光輝が犯した罪を、そして茜からの期待に何一つ添えなかった自分の愚かさを謝罪する。


「許される何てまるで思っていない。僕は茜を死なせてしまった。そして挙げ句の果てに茜の事を全て忘れてしまった」


 忘れてしまっていた小学校6年生の夏休みの記憶。

 青信号の点滅を前に茜を置いて走った光輝。

 そしてそれを追いかけようとして転んでしまった茜。倒れた茜に気付かずに発進したトラック。


 けたたましく鳴り響くサイレンの中、救急車の後ろに乗り込んだ光輝は、救急団員の質問を無視してひたすら茜に謝り、声が枯れる程涙を流した。


 裁判では、トラックの運転手が罪を一手に背負った。

 光輝には罪を償う機会さえ与えられなかった。


 葬式で棺に入れられた茜の顔を見た光輝は、罪悪感に耐え切れず意識を失い、そのまま記憶も失った。

 両親は、最初こそ光輝の記憶を失った事を悲観していたが、茜が死んでから葬式までの間ひたすら罪悪感に苛まれ続けた息子の姿を見ていられなかったのだろう。

 記憶を取り戻してしまうと再び息子が苦しむ毎日が始まると、中学が近いのにかこつけて、記憶を呼び覚ます要因の少ない、伯父が住職を務める寺に光輝を預けた。


 しかし、皮肉にも現実として茜がこうして目の前に現れて光輝は記憶を取り戻す事になった。


 とそこまで過去を振り返り、光輝は顔を上げる。

 そして目の前にいる小学校6年生時代の茜に問いかける。


「……何で、茜が居るんだ?」


 心底驚いた顔を浮かべているのだろう。

 光輝の顔を想像したのか、クスリと笑った茜は、「自分でもよく分からないんだけど」と前置きして話し出す。


「光ちゃん、私が轢かれた時から救急車に乗せられて集中治療室に運ばれるまでずっと謝ってたよね。それで私も『光ちゃんの責任じゃない』って伝えたかったんだけど、あの時は本当に苦しかったし、どう頑張っても声を出せなかったの」


 そう言うと、茜はベンチに腰掛け光輝を手招く。


「光ちゃん、私が事故にあった時の事ちゃんと覚えてる?」


 光輝の額をつつき、茜はそう尋ねる。

 そして光輝の返答を待たずに話し始める。


「あの日、私が夕焼けを見に行こうと光ちゃんを誘ったのに、私がグズグズしてた所為で、家を出る頃には夕日が沈みかけてたんだよ」


 茜の声が震える。

 小学校時代、光輝と茜はよく二人揃って荒川の土手から夕日を眺めていた。

 茜はその名前も相まってか夕焼けを見るのが好きで、光輝も茜に連れられ夕焼けを見るうちに、茜と同じくらい夕焼けを好きになっていた。


「だから光ちゃんは焦って青信号を渡って、私はその途中で転んでトラックに轢かれちゃったの」


 だから──と続けようとする茜の口を光輝は塞ぐ。

 その後に続く言葉は容易に想像がついた。

 茜は、小学生の頃より大きく、固くなった光輝の手のひらを無理矢理口から外すと、


「だから、私が死んじゃったのは全部私の責任!光ちゃんが悪いわけじゃない」


 と辺り一帯に響く声で叫んだ。


「違う!」と光輝は言おうとした。

 茜が死んでしまったのは全部光輝の不注意のせいであり、茜の性格上決してありえない事だが、罪滅ぼしに死ねと言われれば目前のフェンスを乗り越える覚悟が光輝にはあった。

 しかし、その言葉が口から出かかった瞬間、光輝は目を見張った。


「私が、私が全部悪かったの。私が光ちゃんを夕焼けを見に行こうなんて誘わなければ、光ちゃんが罪悪感を覚える事も、記憶が消える事も無かったの!」


 茜は怒っていた。

 滂沱の涙を流し、自分が悪いと誇示し続ける光輝に怒っていた。

 光輝は茜のその様子に唖然とし、唐突に古き日の伯父さんとの会話を思い出した。


「生前に何かやり残した事のある人間の魂は天上へと還らない」


 確か伯父さんはそんな事を言っていた。


 ──いや、まさか。


 光輝は脳裏に浮かんだ一つの仮説を慌てて消す。

 その仮説はあまりにも突飛で、現実離れした物だ。

 光輝はおそるおそる茜に尋ねる。


「結局、何で茜はここに居るんだ?」


 結局の「きょ」の部分で舌が縺れた。

 茜はそれを伝え忘れていたとばかりに目をしばたたかせ、


「だから、私が光ちゃんに『光ちゃんの責任じゃない』と伝える為に、神様が私を幽霊にしてくれたんじゃないかなって、今ではそう思ってる」


 あっけらかんとそう言った。

 光輝は暫く何もせず茜を見つめていたかと思うと、茜の頬っぺをつねり、自分のほっぺも抓る。

 痛かったので夢ではない事を理解した。ただ──


「──幽霊なら何で触れるんだ?」

「知らないよ!」


 光輝の疑問は茜の一言で断ち切られ、その後の変な間に、光輝と茜は顔を見合わせほころんだ。


 光輝が抱いていた仮説はどうやら本当に正しいようだ。

 生前にやり残した事のある人の魂が、天へと還るためにこうして現世に肉体を伴って舞い戻る。

 魂自らが行う最終的な供養方法がこの現象なのだろう。

 光輝は勝手にそう結論付けた。

 そして事ここに至ってようやく、茜に始めて高台の上で会った時から今に至っての、あの不可解な態度に気付く。


 茜は、沈痛そうな面持ちで訥々と語る。


「私が目を覚ました時、私はいつもの土手で夕日を見ていたの。だけどいくら私が光ちゃんの名前を呼んでも、全く返事が帰って来なくて、パニックになりながら家に帰ったの」


 その時の寂しさを思い出したのか、多少鼻声になりながらも茜は続ける。


「よくよく考えると、そこでおかしいと分かる筈なんだけど、自転車も、車も、歩行者も、みんなまるで私の事が見えてないみたいに直進して来るから、その度事前に察知して避けなきゃいけなかった」


 茜は一度身震いすると、自嘲するように続ける。


「でも、本当はそんな必要無かった。私は完全に幽霊になっていたから、人ともぶつかる事は無いし、壁で何でもすり抜けようと思えば簡単に出来た」


 そう言うや否や、茜はベンチに手を沈みこませて実践して見る。


「お母さんも、お父さんも、お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、誰も私に気付いてくれなかった」


 その時の絶望を思い出したのか、茜は両腕で自分の身を抱き竦める。


「だから、私は光ちゃんの事を探す事にした」


 光輝はその時の茜の心情を思い浮かべて、吐き気を覚えた。

 誰一人自分を認識してくれない状態で、唯一の頼みの綱である光輝を訪ねて彷徨う──それも目もまともに見えない状態で。


 ──自分なら、自分ならどうしただろう。そんな絶望的な状況に陥ったとしたなら、早々に膝を屈してしまうだろうか。


 考えると眩暈がし、首を振って思考を追い出す。

 そして冷静になると、茜のたくましさとここまで光輝を頼りにしてくれた事に対するむず痒さに、まともに茜の目を見る事が出来なくなった。


「……どうして、そこまで僕を頼りにしてくれたんだ?」


 思わず零れ落ちた光輝の言葉に、茜も光輝から目を逸らす。

 そして耳を真っ赤にしながら、ポツポツと語り出す。

 曰く、小学校二年生の時に、目が見えない事をからかってきたクラスメイトに光輝が喧嘩を挑んだ事。

 曰く、茜がラジオを聴いていると話した年の誕生日プレゼントに光輝がラジオをねだり、その次の月からは茜と対等にラジオ番組について話せるようになった事。

 曰く、茜がお母さんと喧嘩してしまったと泣いた時、代わりに謝ってくれた事等々。


 覚えている話もあれば、全く記憶にない話もあった。

 茜は、話し終えるとそれっきり何も言わずに俯いた。

 完全に沈黙した茜の代わりに、今度は光輝が重い口を開く。




「茜とこの高台で始めて会った時、茜は失望しただろう。何せ最後の頼みの綱だった僕が、茜の事を全く覚えていなかったんだから」


 第一声から声が震えた。

 茜は何も言わない。


「でも茜はそんな事おくびにも出さなかった!」


 光輝の鋭い語気に、茜の頭がピクリと揺れた。


「茜は敢えて丁寧な口調を用い、他人を演じた。僕が記憶を失ったという事は、僕が茜に対して抱いていた罪悪感など初めから無かったことになる──そして茜自身が現世に蘇った理由すらも」


 茜の体が震える。

 光輝は思う。そこには茜の光輝に対する信頼──いや、そんな言葉では表せない深い深い愛があった。

 そして同時に、それはあまりに悲壮な覚悟で、光輝は内側から掻きむしりたくなる程に胸が痛んだ。


「茜は……茜は唯一自分自身の存在に気付いた僕から離れる事を選んだ。僕が余計な記憶を取り戻し、茜に罪悪感を覚えない為に。茜は僕に嫌われる道を選んだ」


 滔々とうとうと喋るよう心がけているつもりだった。

 ただ、気付けば目の前が涙に濡れて何も見えなくなっていた。

 あの時、茜が出していたSOSに気付いてやれない自分がどうしようもなく愚かだった。

 最後に茜が言い放った泣き声での「大嫌い」は、どうしようもないくらい嘘っぱちであり、真に秘めた思いの対極に位置していた。

 そしてその事実に漠然と気付いていた筈の光輝は、結局走り去っていく茜を止める事が出来なかった。


 ここまで静観して聴いていた茜は、掠れた声で呟く。


「私は、耐えられなかった」


 そう言ってガクリと首を折る。


「光ちゃんの事を思うなら、絶対に見つかる筈のない山の奥にでも一生引きこもっているべきだった」


「何言ってるんだ」という光輝の言葉は、続く茜の言葉に打ち消される。


「それかいっそ光ちゃんに会いに行かなければ良かった!」


 茜の目が見開く。

 茜は溜まりに溜まった感情を吐き出していく。


「15年、15年以上私は誰とも喋らず一人で過ごしてた!」


 口から血を吐く勢いで、茜は話し続ける。


「光ちゃんの幸せを願いながらも、心の底でずっと光ちゃんに会いたいという思いが、私の事を思い出して欲しいという思いが止められなかった!」


 茜は話す勢いそのままにベンチに拳を叩きつけた。

 鈍い音が響いた。


「そのせいでこうして再会して、光ちゃんは記憶を取り戻してしまった!何もかも台無しになった!」


 茜はそう言って悔やむように膝の上に突っ伏した。

 光輝は何も言えなかった。

 何かを言わなくては、そう考えて咄嗟に出た言葉がこれだった。


「茜は、僕の事を何にも分かっていない!」


 光輝はそう言って腕で目をこすり、涙を拭い、立ち上がる。

 そして、フェンスで羽を休めていた雀が飛び立つ程大きな声で叫んだ。


「僕は茜が好きだ!」


 膝に突っ伏していた筈の茜の上体がピクリと跳ねた。

 そして恐る恐るといった様子で茜の顔が上がる。

 せっかくの可愛い顔が、涙でぐしゃぐしゃになっていた。


 男というのは素直になれない生き物だ。

 素面しらふでは絶対言えない30歳になっても変わらない、茜に対する嘘偽りない愛情が堰を切ったように溢れ出る。


「幼稚園、小学校低学年の頃は、周りの人とはちょっと変わった親友程度にしか茜の事を思ってなかった。でも、小学校高学年になってからは徐々に茜の事が気になり始めた」


 光輝は、茜に対して真正面から気持ちをぶつける。


「茜の仕草が好きだった。物を触る時はなるべく慎重に手を伸ばして、優しく触るその仕草が好きだった」

「茜の声が好きだった。どんなに辛い事があってもトーンは変えないその明るい声が好きだった」

「茜の性格が好きだった。生まれつき目が見えないというハンデを背負ってもいつも負けずに頑張り、誰に対しても優しく接するその性格が好きだった」



 茜が光輝への愛を語る時よりも長い時間をかけて茜への愛を語った光輝は、最後にどうしても言いたかった事を告げる。


「茜の笑顔が一番好きだった。どんなに辛い事が起きても、最後に茜が笑ってくれればそれで満足した。茜の笑顔を見る事が僕の一番の幸せだった」


 茜は耳だけでなく、首筋まで真っ赤に染まっていた。

 そしてそれは光輝にも言える事だろう。

 小学生時代は一度だって伝えた事の無い光輝の茜への本心だが、周りのクラスメイトからはバレバレでいつも冷やかされていた。

 茜の事を光輝が好きだと言う事に気付かなかったのは、ひとえに茜が鈍感だったからに他ならない。

 そして鈍感だったのは、今ここで茜の光輝に対する深い愛を知った光輝も同じ事だろう。


 20年以上の時を経て、相思相愛だった事に気付いた光輝と茜は顔を見合わせて、照れ臭そうに笑う。

 空は茜色に染め上がり、夕日ももうすぐ沈もうとしていた。


「喧嘩両成敗、だ」


 そう言って光輝はベンチの前に立ち右手を差し出す。

 小学生の頃、喧嘩した時はこうやって手と手を繋ぎ合わせて互いに自分が悪かった所と改善点を言い合って仲直りした。

 茜は小学生時代を思い出したのか、照れ臭そうに立ち上がり、左手を差し出す。


 この仲直りイベントにおいて、先に悪かった所と改善点を述べるのは、光輝の役割だった。

 光輝は告げる。


「僕は、茜を愛していたのにも関わらず茜の事を最後まで気付いてやれず、さらに茜がこれ程までに僕の事を思っていた事にも気付きませんでした。これからは、空いてしまった空白時間以上に茜を愛します」


 それを受けて茜は告げる。


「私は、光ちゃんがこれ程までに私の事を思っているとは夢にも思わず、光ちゃんが一番好きだと言う私の笑顔を見せてあげられませんでした。これからは、無為に過ごした15年間を返上するべく光ちゃんを愛します」


 そう言って茜は最高の笑顔で笑う──と、その時だった。


「あっ」


 茜の姿が薄くなって行く。

 現世での憂いを断ち切った魂が天へと還る時間が来た。

 夕日は完全に沈み、残照が雲を下から茜色に染め上げている。

 それは光輝に取って、まるで天へと茜を導く光の柱のように思えた。


 茜は名残惜しげに光輝に尋ねる。


「今から15年間を返上できるくらい光ちゃんを愛せるかな?」


 光輝は戦慄わななく唇を意思でもって律し、こう答える。


「当たり前だろ。今からでも僕は、茜をそれだけ愛する自信があるよ」


 こうして光輝と茜は残された時間を惜しむように互いを愛し合った。



 それは、残照が消えるまで続いた。

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残照が消えるまで 生き馬 @reminiscences

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