第2話:「罪の実のなる木」



 風が唸っていた。


 私はそのうちに、ふと意識を取り戻した。

 その次には、歩くことにした。

 有り触れぬ景色に見惚れている場合ではない。

 これでは、己の身体が冷える一方である。


 そう思ったが、どうしたことか寒さはちっとも感じなかった。


 己の身につけた外套と帽子に、熱を発する力などはない。


 参った。

 そうなれば、残る結果はこれ一つである。

 つまり、熱があるのだ。


 私は熱に浮かされていて、それだからこんな夢を見るのだ。

 そうだ、これは夢なのだ。


 そう、己に言い聞かせたが、この己は聞き分けが悪い。

 困ったことに嫌な予感がして、後ろを振り向いてみた。

「なんということだ」

 思わず、声を上げる他なかった。


 私がここまで歩いてきた軌跡がすっかり失われていたのである。


 つまり、どういうことかというと、付けてきたはずの足跡がないのだ。


 確と頷いて、その場で腰を屈めた。

 筋が強張っていたせいで上手くしゃがめなかったが、なんとか屈んだ。

 確認したいことがあったのだ。


 ところがどうだ。


 何かが気がかりになって、ふと振り仰いで見た。

 その先では、ひとつの大木がこちらを眺めていた。


 これは、ただの大木ではない。

 ひとつの大木にぶら下がっていた。何かが。

 何だ、これは。

 心の中でさえ、己に問うことが出来なかった。


 己は、正気を失った。


 先ず、認識できたのは剥げたペンキで描かれたお世辞にも上手いとは言えない文字。


「罪の実のなる木」


 理解に苦しむ。

 己の意識は、渋々とその文字の解読を始めたらしい。


 視線は、じつに戸惑いながら枝に移った。

 あぁ、おぞましい。おぞましい。

 これは、人間の心を超えている。


 脆く繊細な精神が無理やり引き千切られるのが判った。

 身体から尽く熱が奪われ、芯から骨が震えだす。


 兎角、人間の眼には……否、少なくとも己の眼にはおぞましく、酷くおぞましく映った。

 己の眼に映ったそれを、言葉で表すのはとても困難だ。

 だが、精度が落ちるのを覚悟した上で、敢えて換えるのであれば。


 それは、まるで枝であった。

 いや、じつは未だに枝であったと信じている。

 どう勘違いしたのかといえば、その枝が枯れたヒトだったのである。


 こうすると、枝が偶々ヒトに見えたのであろう。

 きっと、これをみた人間は精神を病んでいたのだろう。見間違えたのだろう。


 そう思うかもしれないが、違う。

 道ですれ違う、己と同じ格好をしたヒトだ。

 そのヒトが、荒縄で締め上げられ、縛られ、吊るされて、枯れている。


 一方で瑞々しいヒトもいた。

 こちらは、枝か何かに横並びで座位をとっている。座位をとっているからと言って、悠長に座っているわけではない。


 身をなんとか他の身の間に挟み込み、落下しないようにするのがやっとだ。

 木の上で危ない押競饅頭をしながら、大きく何かを叫んでいる。


 流石に聞き取ることはできないが、風が唸っているのだと信じていたそれが、断末魔の可能性があると悟ったときは目眩がした。


 目眩がしたのだが、実はそうでなかったのかもしれない。


 大きく何かを叫んでいた、瑞々しいヒトの身体が途端に傾いだ。

 不自然なほどに大きく傾いで。

 当の本人も、いけない、という表情をしていた。

 それにつられるかのように、もう二、三のヒトが続けざまに傾いだ。


 命綱など無い。

 あの高さから空に身を投げたら、どうなるかくらい容易に想像がつく。

 倣って容易に想像してしまった己は、堪えきれずに目を逸らした。


 ところが、何処かで音を期待する己がいた。

 地面に叩きつけられる瞬間の音。

 どの様な音がするのだろうか、あの高さから落ちるとすればまだかまだか、いやもう直ぐだ、きっともう直ぐ……。

 己の視界の外で、四回その音がした。


 四つ、落ちた。

 あぁ、なるほど、こんな音がするのか。思ったより何ともなかった。そう思ったが、その残骸を眼に捉えることはしなかった。


 すると、何処からともなく嗄れた声がした。

「きょうは、五人か」


 思わずそちらに眼を向けた。


 この不思議なところへたどり着いて、駅から放り出されてから初めての人らしき人だ。

 聞きたいことがたくさんあったにもかかわらず、そうなると全てわすれてしまう。


 何もできないまま、何処からか現れた爺を見守ることにした。


 爺は、手に持った荒縄を地面に下ろした。

 降ってきたヒトは、呆気なく潰れていた。

 桃を落としたことがあるが、桃でさえここまで呆気なくはなかったように思う。


 血に塗れることも厭わずに、爺は降ってきたヒトを慣れた手つきで荒縄で縛り上げる。

 先ほどまで風のように唸っていたそれは、まるで静かに大人しくしている。


 縛り終わった爺はおもむろに立ち上がり、荒縄の端を木に向かって放り投げた。それほど高く飛んだ気はしなかったが、うまく掛かったようだ。

 その端を引っ張ることで縛りつけたヒトを引き揚げて吊るしていく。


 なるほど、こうしてあれが出来上がるのだ。

 息をつく暇もなく、次のヒトに取り掛かる爺の背に己は漸く声をかけた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 爺からは、そう返ってきた。


「貴方は、一体何者だ。何をしている。何故それをしている。この木はなんだ。何が起こっている」

 爺は諸手を挙げて、己を制した。

「不思議なものよ。今まで私が何をしているのか問うたものはいなかったが、教えて欲しければ教えてやる。だが、仕事の邪魔はしてくれるな」


 妙な威圧に圧倒されながら、己はゆると首肯した。

「あそこに座っているヒトは、どうやってあの高さまで上がったんだ」

 危険な場所へ。座るところなどこれっぽっちもないところへ。自分の意思で上がっているのだろうか。


 爺は、手を動かしながら話した。

「全ては、お前の想像通りだ」

 その一言に、愕然とした。


「この木は、罪の実のなる木」


 何処からか現れて自ら木に登るのではなく、自然に木から発生する。

「今降ってきたこれらは、ヒトの形をしているが、実だ」

 その言葉を聞いた己が、何故か僅かに胸を撫で下ろしたのがわかった。

「実は何処からやってくる」

 爺の問いに、違和感を覚えながら漸く応えた。

「木だ。木が生んで育てる」


「そうだ。そして、私はその木をずっと管理している者だ」

 なるほど。

「管理というのが、……落ちてきた、その、ヒト……実、を縛って引き上げるこれか」

「そうだ」

 爺は、小さく頷いた。


「落ちてきたこれは罪の実だ。実は何故落ちる?」

「実は、種を残す為に。種を増やす為に落ちる」

「そうだ。つまり、これを放っておくと罪が広がり、増え続ける。私は、それを阻止している。落ちた実が種を作らぬように、落ちた実をまた引き上げる」

 そう聞くと、なるほど辻褄が合う。


「お前はどうして動くことができる?」

 爺の問いが不自然に曲がった。



「今まで変わらず、一日四人降ってきて、残らず動かず潰れていた。ところがどうだ。きょうは五人降ってきて、そのうちの一人が動いている。罪の始まりだ。潰さねばならん」



 嫌な気が流れた。



「落ちてきたこれは罪の実だ。ーー身は何故堕ちる?」



 







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無知 成柞草 @7239sou

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