無知

成柞草

第1話:汽車






 私は、夢の中にいたようであった。


 己がどこで何をしていたのか、すっかり忘れていた。


 切符を拝見します、と、丁度その様な声かけで目を開けた。


 見ると、四十そこらの背の低い肥えた女が鹿爪らしい様子でこちらを覗いていた。


 私は半ば慌てて懐に手を入れた。


 寝ぼけていたから、もう半ばは落ち着いていた。


 漸く目当てを探り当てた私は、それをよく確認しないまま女に手渡した。


 かすめる様にして眼鏡で閲された切符が可哀想であった。


 それより可哀想なのは己の身である。


「困った、どうやら駅をすぎています。降りた先で過ぎた分をお支払いくださいますよう」


 そのようなことを言われたのだ。


 しかしまだ寝ぼけていた私は、うんうんと頷き切符を懐へ戻した。


 事が重要だと気がついたのはその後である。


 聞きなれぬ、というより聞いたことのない駅が呼ばれた。


 これには参った。


 慌てて散らかしていた読本や手帖、鉛筆やらなにやらを既に入り切らぬと溢れんばかりの鞄に押し込み、外套と帽子を引っ掴んで汽車から転がり出た。


 漸く仕事であった。


 右を見て左を見て、降口を探していると瞬く間に後ろの汽車は煙を吐いた。


 汽車が起こす風に、帽子が飛ばされぬように押さえるのが精一杯であった。


 やれと息をつく間も無く、私は戻らねばならない。


 外套を羽織った。


 過ぎた分を支払えと渡された切符を空いた手でつまんだ。


 支払おうにも駅に己の他、人はいない。


 見つけた降口から首を伸ばしたが、それでも人はいない。


 観念した私は、やれ仕方あるまいと切符と罪悪感だけを残して歩いた。


 不安は担いだ。



 さて、話はこれからである。


 ここがどこかも分からない。


 なぜ、私がこの汽車に乗せられていたのかさえも分からない。


 しかし、その意味があるようでないような曖昧な思考を掻き消すかのように目の前には風景があった。



 不思議な様子だった。


 雪は綿のようであった。


 飴細工のような花が私を見下ろしていた。


 私は、何も考えられぬままその様子を眺めていた。


 やれ、とんでもない所に来てしまったのではないか。


 しばらくの間、私は意識を失っていた。


 不思議な情景に、立って目を開けているのが精一杯であった。






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