異世界転移しても僕は一人落第する
権田 浩
異世界転移しても僕は一人落第する
僕はその朝、とっても気が重かった。のろのろとベッドから起きて、二人のルームメイトの後から食堂へ行き、部屋に戻って身支度する間もずっと黙ったままだった。
結果はもうだいたい分かっているけれども、それを現実にしたくない、と拒否するみたいに身体が重い。今日のための立派なビロードのマントと帽子も、心に圧し掛かってくるみたいだ。
同部屋の佐々原くんと目黒くんはさっさと行ってしまった。僕もトボトボ教室に向かう。
白い大理石のようなもので出来た荘厳な廊下。窓にガラスははまってないけど、魔法の力で守られている。その向こうの景色も雄大だ。折り重なる深緑の山々、その間を流れる白い雲。自然そのままで人が作ったものは何一つ無い。この魔法学校以外は。
――ちょうど一年前の朝、担任の先生がやってきてホームルームが始まるのを待つ僕たちはクラスごと、この世界に召喚された。いつもの教室でそれぞれがいつもの場所にいたまま、身に着けていた物と僕ら自身だけがこちらに来た。突然こんな見渡す限り大自然な場所に来てしまったので大騒ぎになったし、ポケットにスマホを入れていた人たちは現在位置を調べたり、連絡を取ろうとしたりした。もちろん無駄だったわけだけど。
すぐにローブ――RPGとかファンタジー映画とかで神官が着ていそうなやつ――を着た女性が現われて事情を説明し、僕らを落ち着かせようとした。それがミルドレッド先生だった。
この世界では魔法が発達していて、人々の生活には不可欠らしい。だけど三〇年くらい前から魔法の才能を持った子供が全く生まれなくなってしまったそうだ。このままでは魔法が失われてしまう、と危惧した人々は対策を検討して、異世界から魔法使いを召喚することにした。
ところが、僕らのような魔法が無い世界から一五歳前後の子供たちばかり召喚されてしまう。しかし、そうして召喚された子供たちは全員が魔法の才能を持っていた。それで召喚のための儀式場をそのまま学校にした――ということだった。
説明を聞いてすぐに、生徒会長の五木さんがラチカンキンとかジンケンムシとか文句を言いだして、意識高い系の人達がそれに加わった。男子の半分くらいは窓の外を見ながらスゲーを連呼し、「これって異世界転移じゃね?」と興奮していた。女子はいつものグループに分かれて何事か話し合い、僕は自分の机にただ座っていた。
皆はすごい。状況ハンダンが早い。僕はミルドレッド先生の説明もよくわかんなかったし、五木さんたちが何を問題にしているのかわからなかったし、騒げるほど動揺から立ち直ってもいなかった。ただ、何が起こったのかわからないでいた。
――結局僕は、その時から何が起こったのかわからないままなのかもしれない。
ミルドレッド先生は辛抱強く、他にどうしようもない状況であることを説明した。そして次に転移魔法が使えるようになるには一年が必要で、自分の世界に戻りたい人はその時に帰してくれると約束した。当然ほとんどの人がそれを望んだ――その時は。
「おう、皆もう教室に集まってっぞ」
廊下をのろのろ歩く僕に用務員のジンゴさんがそう言った。ジンゴさんの後ろにはほうきやモップが一列に並んでいる。この世界では用務員さんでさえ魔法を使う。
背が低く太っていて、ミルドレッド先生やグリムト先生に時々怒られているジンゴさんは生徒からも馬鹿にされている。裏では「ブタ」とか「デブ」とか呼ばれている。僕と同じ。だから僕はちょっと安心する。でも親しいわけじゃない。
目を合わせずペコリと頭を下げて通り過ぎる。
朝の教室の風景は日本にいた時と変わらない。自分の机にいる人もいれば、友達の机で話す人もいる。大抵は誰かと一緒にいる。僕は注目されないようコソコソと自分の机まで行って座った。誰かが話しかけてくることもないまま、やがてミルドレッド先生が姿を現す。
「おはようございます。皆さん」
皆が慌てて自分の席に戻り、それから五木さんが号令をかけて「おはようございます」と全員で挨拶した。
先生が何も言わないので、教室が一瞬変な空気になった。僕も目を上げて教壇を見る。ミルドレッド先生は気持ちを抑えるみたいに胸に手を当てて話し始めた。
「今日で一年ですね……皆さんには一年間、魔法を学んでもらいましたが、それは私たちの側の都合でしかない。本当に申し訳なく思っています」
先生は丁寧に頭を下げる。
「それなのに……先日の進路希望では全員がこの世界に残ると書いてくれました。ありがとうございます。本当に、ありがとう……」
「先生、泣かないで」と五木さんが言い、数人の女子が続く。
本当の事を言うと、僕は日本に帰りたかった。魔法の世界に来たからといって僕自身は何も変わらなかったし、お母さんに会いたかったし、ゲームしたかった。でも皆は、日本にいた頃の遊びなんて忘れてしまったように魔法に熱中した。ゲームなんかより何倍も楽しいと言っていた。日本に帰ったら魔法は使えなくなってしまうから、誰も帰りたいなんて思わなかったんだろう。
ミルドレッド先生は目元を拭い、そして元気な声になって言った。
「そうですね。今日は皆さんがこの魔法学校を去る日。涙は似合いませんね……では、この一年の総合評価を発表していきます」
僕は本当にこれが嫌いだ。思えばクラス全員がこの世界に召喚された日も中間テストの結果が張り出された日だった。あの日と同じ気持ち。僕が皆より劣っているのは分かり切ったことなのに、何故わざわざ公開する必要があるの?
「ではまず、今年はなんと三人も〈選ばれし者〉になりました! 皆さんはご存知ないと思いますが、一人も選ばれない年もあるのです。とても素晴らしい事です!」
先生の拍手に続いて、皆も拍手する。僕も小さく手だけ合わせる。音を出さないように。
〈選ばれし者〉は五木さん、飯田くん、横井くん。この三人の魔法がずば抜けてすごいのはもう皆わかっていたから、拍手はするけど驚きはしない。ほとんど万能と言ってもいい。日常生活で必要な事は何でもできるし、空を飛んだり、瞬間移動したり、光線を出したり、嵐を呼んだりもできる。
「次はAクラスの発表です」と先生が名前を呼んでいく。ここでの成績によって、この世界でどんな役割を担うかが決まるらしい。先生がそう言ったわけではないけど、当然、高い方がいい生活になるに決まっている。異世界なのに、魔法の世界なのに、日本にいた頃と変わらない。
続いてBクラス。同じ部屋の佐々原くんが呼ばれる。佐々原くんは異世界転生ファンタジーとかが好きで、僕のようなクラスで最底辺なヤツこそ最強になるのが〝お約束〟だと教えてくれた。でもそれはやっぱりお話で、ファンタジーで、僕はここでも最底辺のままだった。
そして先生は名前を呼ぶのを止めた。つまり、残りは全員Cクラスだ。それでも火を出したり、氷を出したりはできる。僕にはそれもできないけど。
「それでは、今のクラスごとにこれからの説明があります。場所は別々ですけれど、その後で卒業式になりますからね」
数人の女子がしくしく泣きだした。ミルドレッド先生までもらい泣きみたいになって、震えた声で「涙はその時まで取っておきましょうね?」と言った。
指示された教室への移動が始まった。
僕らCクラスは一〇人しかいなくて、最後にトボトボと教室を出る。同じ部屋の目黒くんや、クラスで一番可愛くて人気者だった小島さんもいる。魔法の才能が人気に影響するようになってから、小島さんは〝ただ可愛いだけ〟とか陰で言われるようになってしまった。でも僕は今でも小島さんを可愛いと思うし、小島さんが同じクラスにいるのが嬉しかった。もしかしたら、もしかしたら、今後お話する機会があるかもしれない。
僕らの入った教室には机も何も無く、がらんとしていた。何となく不安になって真ん中付近に集まっていると、扉を開けて用務員のジンゴさんが入ってきた。もしかして、Cクラスの人は用務員になるのかな?
僕らを見てジンゴさんは肩を落とし、「はぁぁぁ」と長い溜息をついた。それから人数を数えて、「くそっ、一人一匹もねぇぞ。質は悪くてもせめて量があればなぁ、くそっ!」と怒鳴った。驚いて、僕はびくっと身を縮める。
目黒くんが手を挙げた。すごく勇気がある。
「あっ、あのっ、これからの進路の説明をしてくれると言われているのですが」
「聞きてぇのか?」
ジンゴさんが全員をジロリと睨む。
「おめぇらはこれから、俺らに食われるんだよ。俺ら下っ端悪魔には、一番等級が低いおめぇらしか回って来ねぇ。今年は〈選ばれし者〉が三人も出たってのに……ちくしょう、せめて血の一滴でも味わってみてぇもんだぜ……」
「えっ? な、な、なに……?」と皆がざわつく。
周囲に黒い煙が渦を巻く。教室の壁も扉も窓も、あっという間に見えなくなって暗闇に閉じ込められる。床が緑色の燐光を発しているので、かろうじて皆の姿は見えた。
ジンゴさんがいた場所には、赤く光る一対の目だけがある。そして、ぞわり、ぞわりと気配が増えていく。僕らの周囲に。赤い目が一つ、また一つと瞬く。生臭い吐息。そしてたぶんこれが――殺気。
闇を抜けてジンゴさんが姿を見せた。身体はすごく大きくなっていて、目は赤く輝き、口から長い牙が上向きに出ている。ナイフみたいな歯がずらりと並ぶ口を歪めて、鋭い爪の生えた手を伸ばし目黒くんの肩をむんずと掴んだ。
「ひえっ……」というか細い声が、目黒くんの最後の言葉だった。ジンゴさんは頭を掴んで、肩から目黒くんを引き裂いた。肉が裂け、血が飛び散る。白い背骨が頭と一緒に引き抜かれる。ジンゴさんはそれにむしゃぶりついた。
それを合図に、闇の中から獣か怪物か悪魔か――そうとしか言えない姿の生き物が現われて皆に襲いかかった。容易く腕を引きちぎり、身体をバラバラにし、フライドチキンを食べるみたいに肉を食う。骨に残った筋まで綺麗にこそぎ取り、骨の髄まで舐め尽しながら、ジュースのように血を飲む。
もう男子なのか女子なのかわからない甲高い悲鳴が響き渡った。僕の頭蓋骨の中にわんわんと。悲鳴の元は一つずつ、「げびゅっ!」とか「ぱきゅっ!」とかいう変な音を最後に消えていく。
魔法で抵抗しようとした人もいた。炎を出す呪文を唱えて手を伸ばしたけど、その手は悪魔にぱくっと食われた。噛み千切られた腕からじゅるじゅると血を吸われ、狂ったみたいに悲鳴を上げる。
「ヒャハハハハハッ」とジンゴさんが笑った。「いいかぁ? 魔法ってのは〝魔〟の力なんだよ! 俺らが力を貸してやってたんだ! 魔法を使うたびに〝魔〟はおめぇらに染み込んで馴染んでいった。そうやって一年かけてじっくり熟成させてきたんだ……ああ、くそっ、もっと等級が上の人間を食ってみてぇ!」
僕は何もできなかった。悲鳴をあげるように口を開けてはいたけど声は出てなかった。両手を持ち上げてブルブル震わせていただけだった。床は一面クラスメイトの血で真っ赤に染まり、小さな悪魔がそれを必死に舐め取っている。
目の前に立つジンゴさんはもう人間の姿はしていない。巨大な肥満体で顔は豚に似ている。長い角に牙、緑色のブヨブヨしたお腹にはもう一つの口がニヤけている。震える僕を見下ろして、ぶひっと鼻を鳴らした。
「クズ中のクズだな。
その時、小島さんの声がした。
「本宮くん! 助けて!」
初めて小島さんに名前を呼んでもらえた。錆びついてしまったように首をギギギと動かして彼女を見る。小島さんは血に塗れていても可愛かった。必死に僕へ手を伸ばしている。細い腰を悪魔が掴んでいる。ジンゴさんの巨体が飛び跳ねる。
「てめっ、それ取っといたのに! 俺にも半分寄こしやがれ!」
ジンゴさんが小島さんの頭を掴んだ。恐怖に見開いた目には美しい涙。そのままぐりんと逆さになる。二人の悪魔によって、小島さんは僕の目の前でねじ切られた。形の良い胸が引きちぎれ、彼女の温かい血が僕の顔にバシャッとかかる。ものすごく酷い臭いがした。人間の中身がこんなにも臭いなんて。あの可愛い小島さんの中身がこんなにも臭うなんて。
もう僕以外に生きているクラスメイトは残っていない。血の池に立つ僕の周囲では悪魔たちの食事が続いている。酷い痙攣が起きて、息ができなくなった。ひっ、ひっ、と引きつりながら僕は皆が流した血の海に倒れる。ジンゴさんや他の悪魔がぬっと顔を出して僕を覗き込む。
「ただのクズかと思ったが、こいつ――」
そして、僕の意識は途絶えた。
――どうやって戻って来たのか全然覚えていないけど、僕一人だけが教室で発見された。一年前にクラス全員が神隠しにあった教室で、きっかり一年後に僕だけが、血塗れで、丸くなっていたという。
僕は病院に移されてたくさん検査された。お母さんやお父さんも来た。たくさんの大人に、たくさん質問された。どこにいたのか、皆はどこか、身体についた血は誰のものか、などなど。
僕は全部を答えたかったけど、頭の中のどこかが詰まってしまったみたいに声が出なくなってしまった。セイシンテキショックによるシツゴショウとかいうものらしい。
だけど、僕は全部覚えている。異世界に行ってからの一年間の出来事。あの惨劇。そしてジンゴさんの最後の言葉。あれはどういう意味だったんだろう。僕にはよく分からない。
『ただのクズかと思ったが、こいつ――同化する珍しいやつだ。俺たち〝魔〟の側に』
舌の根に、鼻の奥に、小島さんの血の味が残っている。できる事なら僕はもう一度彼女に会って――それを味わいたい。
異世界転移しても僕は一人落第する 権田 浩 @gonta-hiroshi
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