第44話 間一髪で心臓が持たない


「イーチロー、急いで! 近くにいた敵が戻ってきた!」


 ロープにしがみ付き、登っている途中で、上からリデカの声が降ってきた。


「くそ、もう戻ってきたのか!」


 俺は手の平の痛みを忘れ、必死によじ登った。そして崖を登りきり、地面に這い蹲る。


「あ゛っ!?」


 だが、登るのが遅すぎたのかもしれない。


 俺が登り切った時にはもう、入口にはビヒモトの、巨大な影が、門番のように立ち塞がっていたのだ。先にシルト少尉に上ってもらうべきだったと気づいても、もう遅い。


 彼らは口々に何かを叫び、俺達に向かってきた。


「うわわわ・・・・!?」


 俺はまだ、立ち上がることすらできていない。パニックになって、這ったまま逃げようとしていた。


「イチローさん、下がっていてください!」


「うぐっ・・・・!」


 下がれ、と言いながら、シルト少尉は思いっきり俺の背中を踏み付けて、俺の前に躍り出ていた。


 ――――そして、剣と剣が交錯する。


 真っ先に斬りかかってきたビヒモトの剣は、シルト少尉が横に弾き返していた。光が明滅し、暗闇に奇妙な色が躍る。


 後ろによろめいた、そのビヒモトと入れ代わりに、二体目のビヒモトが前に出てきて、剣を大きく振り上げる。


 ――――だが、ビヒモトよりも小柄で、なおかつ、素早いシルト少尉に対して、その攻撃は自殺行為だった。


 シルト少尉は剣が振り下ろされる前に、ビヒモトの懐に滑り込むと、がら空きだった脇腹の肉を切り裂く。骨が露わになるほどの攻撃を受け、ビヒモトの絶叫が、空洞を満たしていった。


 一体を倒したからといって気を抜かず、シルト少尉は力が抜けたビヒモトの身体を抱きかかえるような格好で動かす。


 その時にはもう、最初のビヒモトがシルト少尉に斬りかかろうとしていた。だがその攻撃は、仲間の背中によって無効化される。


 シルト少尉が、倒したビヒモトの背中を盾にしたのだ。


 そうやって攻撃をやり過ごした後、シルト少尉は盾にしていたビヒモトの身体を蹴り付ける。ビヒモトは仲間の身体を支える格好になり、両手が塞がって無防備になったところで、首を引き裂かれた。


 ビヒモトの手足から力が抜け、崩れるように倒れていく。


 ――――強い。強すぎる。自分よりも、大柄のビヒモトを、派手な立ち回りで難無く斬り伏せておきながら、シルト少尉の息は乱れていないのだ。――――その動きは人間離れしていて、見惚れるほど優雅だった。


「・・・・っ!」


 また、何かが倒れる音で、俺の視線はシルト少尉から、物音のほうへ動かされていた。俺がシルト少尉の動きに引き付けられている間に、残る一体をリデカが倒してくれたようだった。


 人間離れしているのは、シルト少尉だけじゃなかった。小細工なしでは、一体のビヒモトも倒せないだろう俺を、ここまで助けてくれた、リデカの実力は、折り紙付きだ。


「大丈夫ですか、イチローさん」


「は、はい・・・・」


 まだみっともなく地面を這っていた俺は、自分を取り戻し、慌てて立ち上がった。


 だが、休む時間は与えてもらえない。


 洞窟の中に誰かが駆け込んでくる音を聞いて、俺達は身構える。


「リリー!」


 その声を聞いて、シルト少尉の肩が揺れた。


「エリカ!」


「よかった、無事だったのね!」


 勢いよく走ってきたレノア少尉は、そのままシルト少尉にぶつかっていた。とっさに両腕を広げたシルト少尉は、衝撃で少しよろめく。


「よかった、無事で・・・・」


「・・・・心配をかけて、ごめんなさい」


 美女二人が抱き合っている光景――――こんな場面でなければ、もっとゆっくり鑑賞できたのに、と、俺は心から残念に思う。


「・・・・・・・・」


 横顔に、リデカの白い視線が突き刺さっていることに気づいて、俺はそっと目を背ける。


「あああ! シルト少尉ぃ!」


 レノア少尉に続いて、今度はジョン達が洞窟の中に入ってきた。


 ジョン、ヒルマさん、サルドゥは全員無事で、怪我を負った様子はない。俺は安堵する。


「無事でよかった! 無事でよかったぁ・・・・」


「本当に、ご心配をおかけしました」


「アレンさん、泣いてる場合じゃないですよ! 今は逃げることに集中してください!」


 子供のように泣きじゃくっているジョンの頭に、ヒルマさんのツッコミが炸裂した。


 耳を澄ませば、戻ってくるビヒモト達の怒鳴り声を拾うことができた。


 長く、ここに留まることはできない。


「一刻も早く、ここから逃げましょう」


「ああ!」


 俺達は慌てて、洞窟から飛び出し、全速力で森の中を駆け抜けた。






 ビヒモト達の怒声を背中で聞きながら、俺達は森の中を駆け抜けた。


 引き離せる――――と思いたかったが、ビヒモトの足は速く、引き離すどころか、距離を縮められている。


「まずいわね・・・・」


「あいつらを引き連れたまま、戻るわけにはいきませんよ!」


 このまま、拠点にしている洞窟に戻れば、ビヒモト達に仲間の居場所を知られてしまう。そうなれば、全滅の未来しか見えない。仲間を巻き込むわけにはいかなかった。


「回り道して、別の方向へビヒモトを引き付けるしかありません!」


「ま、回り道・・・・」


 だが、俺にはもう、走り続ける体力が残っていなかった。


 シルト少尉達には、まだ余力が残っているのに、俺が足を引っ張っている状態だ。


「・・・・!」


 背後から、ビヒモトの声が近づいてきた。


「ビヒモトが来た! 急いで!」


 レノア少尉に急かされるも、俺にはもう、速度を上げるだけの体力が残っていない。


(くそ、このままじゃ追い付かれる!)


 どうにかしなければ。だけど、体力の限界に達して、思考力が働かない。


「お、俺を置いて――――」


 先に行ってください。


 だけど俺がそう言う前に、シルト少尉が身を翻して、俺の後ろに立ち、抜刀していた。


「私が足止めします! イチローさん達は逃げてください!」


 シルト少尉の言葉に、愕然とする。


「リリー!?」


「駄目です、シルト少尉! それじゃあ――――」


 ――――命がけで戻ってきた意味がない。


「・・・・!?」


 その時、目の端を光がよぎった気がした。


 その光を捜して、道の側面の、斜面を見上げる。


 目の錯覚かと思ったが、木々の影の中に没しているその場所で、確かに小さな光が、ちらちらと瞬いていた。


「あれは――――」


 レノア少尉も、そのことに気づいたようだ。


「リリー! 逃げるわよ!」


 そしてすぐさま、シルト少尉の腕をつかむ。


「だけど、誰かが足止めしなければ・・・・」


「あれを見て!」


 シルト少尉の声を遮って、レノア少尉は光が見えた場所を指差す。瞬きのように点滅を繰り返すそれを見て、シルト少尉の表情も変わっていた。


「逃げましょう!」


「え、あ・・・・!」


 なぜか考えを変えて走り出したシルト少尉の後を、俺達は追いかけた。


 ――――だが、現状は変わらない。


 背後から迫ってくるビヒモトの足音は、だんだんと大きくなりつつあった。その荒い呼吸音が、すぐ背後まで迫っているのだ。


「本当にまずいぞ、このままじゃ・・・・!」


「撃てっ!」


 ――――前方から鋭い声が聞こえてきたのは、その時だった。


「・・・・っ!?」


 ――――次の瞬間、銃声が雨のように降ってくる。


 音に驚いて硬直した俺の頬を、鋭い何かが駆け抜けていった。


 背後でビヒモト達の悲鳴が弾け、倒れる音が連なっていく。


「ひっ・・・・!」


 少し遅れて、我を取り戻した俺は、頭を庇って蹲ろうとしていた。


「駄目です、イチローさん! 今は走って!」


 シルト少尉が無理やり俺を立たせ、引っ張りながら走り続ける。


「だ、誰かが攻撃を仕掛けてきてる!」


「大丈夫、味方の援護射撃です!」


「み、味方!?」


 驚く俺の横を、前方から走ってきた何かが、素早く駆け抜けていった。


 ――――そして、背後で閃光が閃く。何かが切り裂かれるような重い音も聞こえ、俺は走りながら振り返っていた。


 肩を切り裂かれ、血を吹き出しながら倒れていくビヒモトの前に、誰かの背中があった。銀色の髪が、返り血を浴びて輝いている。


「ロペス少佐!」


 俺の横を駆け抜け、ビヒモトを斬ったのは、ロペス少佐だった。


 ロペス少佐は目では追えないほどの素早さで、次々にビヒモト達を斬り捨てていく。まさに、剣神といった動きだった。


「後ろを振り返らずに、走り続けろ!」


 そう言いながら、ロペス少佐は地面に何かを叩き付ける。


「・・・・っ!」


 そこから吹き出した煙幕が、暗い道を灰色の幕で覆っていく。


 ロペス少佐に言われたとおりに、俺は振り返らず走り続けた。



 ――――背後にあったビヒモト達の声は一歩進むたびに遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


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