第40話 とりあえず、変わるために頑張ろうと思う


 俺は道から外れた場所に、開けた場所を見つけて、適当に拾った枯れ枝を積みあげると、魔法道具で火をつけた。


 そして持ってきた川魚を焚火の中に投げ込み、焼き上がるのを待つ。


「・・・・・・・・」


「・・・・・・・・」


 焚火を囲んでも、俺達の間に、会話が生まれることはなかった。


「・・・・リデカも、俺と同じ来訪者なんだよな?」


 しばらくして、なんとなく、俺は問いかける。


 川魚をもそもそと食べながら、リデカは頷いた。


「ここに来る前のこと、覚えてるか?」


「・・・・うん」


 リデカは顔を伏せる。彼女がそうしたのは、暗くなった表情を隠すためだと気づいた。


「・・・・覚えてるのは、箱舟に乗ってから。それ以前の記憶はない」


「箱舟に乗ってから・・・・?」


「――――ひどい場所だった」


 リデカはいつも、抑揚のない声で喋っていた。明るくもなければ、暗さもない、それでも陰気には聞こえない、不思議な声だ。


 だけどその時だけは、声にははっきりと、暗い気持ちが乗っていた。会話の中で、思いがけず嫌な記憶を掘り起こしてしまい、戸惑っている。リデカの声からは、そんな感情が伝わってきたのだ。


「・・・・あの時のことは、思い出したくない」


「・・・・・・・・」


 リデカはその言葉で、話を打ち切ってしまう。



(・・・・箱舟に乗っていた時のことは、聞かないほうがよさそうだな・・・・)


 空気を読めない俺でも、リデカの暗い横顔を見れば、それ以上、「嫌な記憶」について聞かないほうがいいと悟ることができた。


 俺には、箱舟に乗っていた時の記憶がない。だからできれば、リデカから箱舟の様子を聞き出したかったけれど、今はそれよりも、リデカに嫌な思いをさせたくないという気持ちのほうが勝った。


「・・・・イーチローは、ここに来る前のことは覚えてるの?」


 話題を続けたくなかったからだろうか、リデカからそう聞いてきた。


「覚えてるよ。・・・・つっても、俺の場合はお前の逆で、箱舟に乗る前のことを覚えてて、箱舟に乗ってる時の記憶はないんだけど」


「そう。どんな暮らしをしてたの?」


「俺は――――」


 じわりと、額に汗が滲んでいた。



「・・・・ろくでもない生活をしてた。だらだらバイトして、食って寝て――――ゲームしてた」


 ――――自分の過去を語ることに、苦痛を感じていた。寒くもないのに指先が震え、汗がだらだらと流れている。


「どこかに行きたいと思ってたんだ。誰も俺を知らない、遠くの土地に。・・・・まさか、異世界に来ることになるなんて、思ってなかったけど」


「・・・・・・・・」


「・・・・異世界に来たと思って、喜んでた。以前の世界でしくじった人生を、この世界でやり直すんだ、って。アルカディアの人達は優しいし、女神様の力のおかげで、余裕のある生活ができる。俺が生まれた世界のように、貧富の差が極端になることも、誰かが虐げられることもない。――――本当に、優しい世界だ。俺達が目指してきた、理想がここにあるんだと思ったよ。この世界なら、俺は人生をやり直せる。そう思えたんだ。――――だけど」


 軽い世間話を装うとしていても、沈んでいく気持ちを隠せずに、声はどんどん小さくなっていく。


「・・・・俺、すごく臆病なんだよ。動かなきゃならない時、声を上げなきゃならない時に、身体が固まって、声が出せなくなる。なんとかしようと思ってるのに、身体が動かない。そのせいで何度も・・・・馬鹿みたいな失敗をしてきた」


「・・・・・・・・」


「この世界に来たばかりの時は、なんだかんだ、うまくやれてた。きっと、現実感がなかったせいだと思う。ゲームをしてる感じで――――楽しかった」


 俺は項垂れる。


「・・・・世界が変わったところで、自分は何も変わってない。前と変わらない、臆病で、ちっぽけなままだ。まわりが変わったところで、俺が変わってないなら、結局同じなんだって、思い知ったよ。・・・・臆病な心が、この世界でも、前に進むことを阻んでる」


 リデカは言葉を挟まず、じっと俺の話に耳を傾けてくれている。


「こっちに来て、支援を受けながらも、何とか生活して――――それで変われた気になってた。でも、変われたと思い込んでいただけだ。・・・・実際は、臆病で矮小で、卑怯なままだった。そこから、動けてない」


「・・・・・・・・」


 深く俯いていたから、リデカが俺の言葉にどんな表情を浮かべたのか、俺からは見えなかった。――――彼女の反応を見る勇気がなかった。


 情けないと、本当に思う。情けなくて、惨めで――――井戸ほど深い穴があるのならば、投身自殺をしたいと、心から願うほどだった。



「――――臆病なのに、どうして私を助けてくれたの?」


「え――――」


 不意にリデカに問いかけられて、俺は息を詰まらせ、思わず顔を上げてしまう。



「・・・・誰も、誘拐犯に追われている私を見ても、助けてくれようとしなかった。見て見ぬふりをしていた。無作為なルーレットのように、裏社会の連中の悪意が、自分に向けられることを恐れて。手を差し伸べてくれたのは、イチローだけだよ。・・・・臆病だったなら、どうしてあの時、私を助けてくれようとしたの?」


 リデカの目は、透き通った湖のように透明なのに、感情が見えなくて、俺は戸惑う。


「あの時は――――」


 とっさに答えられなくて、俺は俯いた。


 あの時の自分の行動を説明するのは難しい。自分の行動なのに、うまく説明できない。


 いつもの自分なら――――少なくとも、前の世界にいた自分だったなら、見て見ぬふりをしていたはずだ。情けないことに、それだけは断言できる。


 だが不思議と、あの時は見て見ぬふりをしたくないという気持ちが働いていた。――――うまく言葉にできないが、あえて言葉にするならば。



「・・・・多分、俺は変わりたかったんだと思う」


 俺の声は、虫の声にかき消されそうなほど、か細かった。


「・・・・俺は駄目な人間だったけど、本当はいい人間になりたかったし、正しいことがしたかった。・・・・だけど臆病だから、いつも行動に移せなかった」


 こんな俺にだって、良心はある。だがそれらは、いつも防衛本能に押さえ込まれる。


「変わるために、一歩踏み出したかった。――――だから、勇気を振り絞ったんだ」



 ――――変わりたかった。


 ここが俺の理想の世界なら――――理想の世界で、理想の自分にできるだけ近づきたかった。


 だけど理想の世界にいるだけで、理想の自分になれるわけじゃない。変わるためには、行動が必要だと、本能でわかっていた。――――だから変わるために、なけなしの勇気を振り絞ったのだ。



「・・・・私、あの時、嬉しかったの」


 ぽつりと、リデカが呟く。


「え?」


「大勢の人達の、関わりたくない、何も見てないって言ってる、あの目。何度も脱走して、連れ戻されたから、私はあの目を何度も見てきた。・・・・そんな目で見られることは慣れてる。それに、関わりたくないって気持ちも、わからないわけじゃない。勇気を出して、善意から、見知らぬ誰かに手を差し伸べたところで、神様が見返りをくれるわけじゃないし、それどころか、巻き込まれて、ひどい目に遭うことだってある。・・・・みんな、そのことを恐れてる。自分を守れるのは、自分しかいないんだから」


 リデカは俺じゃなく、焚火をじっと見つめていた。大きな瞳の水晶体に、焚火が写り込み、橙色のリングのように、瞳の中で自在に踊る。


「・・・・慣れてる。でも、時々、思ってた。あの中の誰か一人でも、私に手を差し伸べてくれれば、って。虚しいとわかってても、時々思った。目が合っても、すっと私の顔の上を通り過ぎてしまう目を見るたびに、私は、自分が透明人間のようになったように感じてた。・・・・私は本当は幽霊で、誰の目にも見えてないんじゃないか、って」


 リデカは目を上げ、俺を見つめる。その時のリデカの顔には、いつものひねくれた色がなくて、透明な水のようだった。


「・・・・イチローは私を助けようとしてくれた。手を差し伸べてくれた。気まぐれでもそれが嬉しかった。救われた気がした」


「・・・・・・・・」


「ある女の人が、教えてくれたの。・・・・人間は弱いから。いい人間でいようとすること、正しく物事を見ようとする努力を止めたら、どんどんちっぽけで、醜くなっていくんだって。誰も、どんなに恵まれた人でさえ、完璧にはなれない。――――でも、わずかにでも、理想に近づくことはできる。日々、努力を積み上げることだけが、私達を、理想の姿に導いてくれるって、そう教えてくれた」


 その言葉を送ってくれた人と、リデカは仲が良かったのだろう。遠くに向けられた眼差しに、愛情が感じられた。



「――――だから、私はイチローを信じるよ」



 その言葉が、何よりも嬉しかった。信頼を失い、針のように鋭い視線を向けられている今だからこそ、唯一の信頼のありがたみが心に染み渡っていく。


 だけど俺はリデカと違って、自分の気持ちを素直に言葉にできなかった。照れ隠しに、俺は頭を掻くふりをして、深く俯く。涙が零れないように、必死に歯を食い縛りながら。


「その人は、信頼は努力次第では取り戻せるとも言ってた。信頼は、取り戻せばいい。イチローの努力は、レノア少尉達にも伝わるはず」


「・・・・取り戻せるものかな。シルト少尉に何かあったら、二度と戻らない気がするよ。・・・・世界で起こることは全部、結果がすべてだから」


 結果がどうであっても、過程が大事、という人もいた。でも成長するにつれて、俺は過程が大事だと思うことは、結局まわりの人にとっては、自己満足としか受け取られないのだと感じるようになっていた。


 自己満足も大事だ。自分の気持ちと、折り合いをつけるためには。


 ――――だが、それは自分自身の頭の中で起こること、俺が努力した過程なんて、他人には関係ない。


 ――――シルト少尉が無事でなければ、レノア少尉達の中には、俺がシルト少尉を見捨てたという事実だけが、永遠に残り続ける。


「・・・・今回のことも、無駄になるかも。俺はお前まで危険に晒してるし・・・・」


「無駄になるなら、それはしょうがない。結果は、私達には動かせないから」


 リデカの声質は、まったく強さを失っていなかった。俺ははっとして、ようやく顔を上げることができた。


「私達ができることは、行動することだけだよ。それが最善の結果を出してくれると信じて。――――結果が自分の望み通りじゃないとしても、それは仕方がない。私達はただ、最善を尽くして、結果を待つだけ」


「・・・・・・・・そうだな」


 リデカの言葉のおかげで、俺は肩から力を抜くことができた。


 結果なんて、俺にわかるはずがない。だが一つ言えることは、行動しなければ何も起こらないということだけだ。――――それだけが、世界で唯一の真実。覚悟して、ことに挑むしかない。


 リデカのおかげで、少し気持ちが楽になった。俺は気合を入れ直すため、自分の顔を叩く。


「それじゃ、そろそろ出発しようか――――」



 立ち上がろうとしたとき、草藪が揺れる音が耳に飛び込んできた。



「・・・・!」


 俺は金縛りに遭ったように動けなくなり、リデカの肩も張り詰め、眼光は鋭くなる。


 俺は中腰のまま耳を澄まし、あたりの気配を探るが、物音が聞こえたのは一度きりだけだった。今は風に揺られる葉擦れの音と、焚火の火が爆ぜる音が混ざり合っているだけで、怪しい物音は聞こえない。


 小動物が動いただけ、と楽観的に考えることもできるが――――今、楽観論に逃げるのは、あまりにも危うい。


(どこだ? どこから聞こえてきた?)


 リデカは剣を手に取り、襲撃に備えていた。俺も同じように剣を手に取りながら、隠れているかもしれない何かに向かって、声を張り上げた。



「誰だ! 隠れているなら、出てこい!」


 俺の声は静かな大気を引き裂いて、森の中によく響いた。



「出てこないなら、こっちから――――」



「ストップ!」



 だけど言葉の続きは、俺よりもよく通る高い声によって、遮られる。


 その声には聞き覚えがあり、俺は息を呑む。


「・・・・ったく、こんな状況で大声出すなんて、信じられない」


 がさがさと、藪を掻き分ける音に文句が混じる。藪を掻き分けて、俺達の前に現れたのはレノア少尉だった。


「レノア少尉・・・・どうしてここに・・・・」


「それはこっちの台詞なんだけど。それに私以外にもいるわよ」


 レノア少尉に続いて、ジョンとサルドゥ、ヒルマさんが出てきた。


「・・・・でっかい声を出すんじゃねえよ。自分からビヒモト達を呼び込むつもりか?」


「そうですよ、そうですよぉ」


「なっ・・・・なっ・・・・」


 こんなに大勢に尾行されていたなんて、まったく気づかなかった。


 レノア少尉は足音荒く俺の隣に並ぶと、どかっと腰かけた。


「・・・・お腹すいた。食べるもの、分けて」


 そして彼女は、まるでここにいることが当然のように、俺達が串に刺して焚火の中に置いておいた非常食を手に取り、食べはじめる。


「これ、焦げてるよ」


「・・・・・・・・」


 なんだか気が抜けて、俺は座る。リデカも、いつの間にか座っていた。


「あの、レノア少尉・・・・どうしてここに?」


「その質問、さっきも聞いた」


「答えがなかったので・・・・」


「抜け出すつもりでいたら、あなた達がこそこそと洞窟を出ていくのが見えたから」


 背筋が寒くなる。――――俺達は運悪く、レノア少尉に見つかってしまっていたのだ。



「・・・・リリーに助けてもらったのに、あなた達がビヒモトの襲撃を恐れて、二人で逃げ出すつもりだったなら、斬るつもりだったけど――――まさか、リリーを助けに行こうとするなんてね。意外だった」


 さらに続く言葉で、俺は冷や汗が止まらなかった。



 その時のレノア少尉の声は、いつもの高い声とは違い、低く、嘘や冗談を言っているようには聞こえなかった。

 命拾いした、と俺は額の冷や汗を拭う。



「じゃ、ジョン達もシルト少尉を助けるために洞窟を抜けだしたところで、俺達を見つけたのか?」


「シルト少尉を見捨てられるわけがないだろ。・・・・他の連中はどうか知らないけど、俺は最初から助けに行くつもりだったさ」


 ジョンは自分の理由を言ってから、ヒルマさん達を見た。


「私はシルト少尉のためというよりも、ロペス少佐のためですかねえ」


「少佐は救出部隊を出さないって決めたじゃねえか。命令違反じゃねえの?」


「本心なわけないじゃないですか。部隊を全滅させないためにそう言っただけで、本当は助けに行きたいはずですよ。シルト少尉の救出に成功したら、ロペス少佐は、戻ってきた私を抱きしめてくれるかも・・・・」


 ヒルマさんは目を輝かせて、ぎゅっと指を絡める。


 残る三人は、そんな夢見る少女に、しらけた眼差しを送っていた。


「・・・・エドガルドが感極まって誰かを抱きしめる図なんて全然想像できないんだけど、万が一それをするとしたら、あなたじゃなくてリリーにでしょうね」


「ちょっとレノア少尉は黙っててくれますか? そんなマジレス、望んでないんで」


 死ぬかもしれない状況で、いつも通りなヒルマさんもすごい。


 俺は最後の一人、サルドゥに目を向ける。


「サルドゥはなんで?」


「いや、なんか面白そうだったから」


「・・・・・・・・」


 死ぬかもしれないのに、それでいいのかよ、と全力で突っ込みたかったが、力が抜けてしまって、声が出てこなかった。


「でも、無謀も良いところよ。あなた達二人で、何ができるわけ?」


「・・・・一応、作戦はあります」


 レノア少尉が、目で、その作戦を話すように圧力をかけてくる。


「・・・・地形についても話さなきゃならない作戦だから、もう少し現場に近づいてから、話します」


 俺は目を泳がせつつ、そう説明した。


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