第10話 パンツの定義について、考えてみる
――――お兄ちゃんが交通事故に遭ったという一報を、私は学校で受け取った。
「古屋。話がある。廊下に来なさい」
「え・・・・?」
先生は、授業中の、眠気を誘う静けさの中に、突然、入ってきた。名前を呼ばれた私は、今朝の遅刻の理由を問いただされるのかもしれないと、ひやひやしながら、廊下に出る。
――――だからだろうか、先生に交通事故のことを聞かされても、その内容がまったく頭に入ってこなかった。
「その、な・・・・」
先生はなぜか、ひどく言いにくそうにしている。
「――――古屋。お前の兄が、交通事故に遭ったらしい。・・・・病院に運ばれたそうだ。会ってきなさい」
「・・・・・・・・」
先生は、急ぎなさいとは言わなかった。普通、家族が交通事故に遭い、病院に搬送されたのなら、急がせるはずなのに――――それに先生は、容体に関しては、一言も触れない。――――胸の中は不安で埋め尽くされていった。
「お兄ちゃんは、無事なんですか?」
先生の顔が、はっきりと強ばる。
――――その表情の変化で、答えがわかってしまった。
「・・・・とにかく、行きなさい。俺が病院まで送るから」
「・・・・はい」
膝から力が抜けそうになるのを、必死に堪えて、私は何とか、前に一歩を踏み出す。
――――さっきまで私は、平穏な日常の中にいたはずなのに、何かが急激に変わったことを感じていた。
――――私の嫌な予感は、的中していた。
先生に送ってもらい、病院に到着した私は、そこですでに、兄が亡くなったことを、お医者さんに聞かされた。
病院に搬送された時はすでに、お兄ちゃんに意識はなく、手の施しようがなかった、とお医者さんは語った。
お父さんとお母さんは、私より先に病院に到着していたけれど、二人とも放心状態で、私と同じく、現実が受け止められていないようだった。だから涙を流すことも、動揺を見せることもなく、ただただ呆然としている。突然の悲劇には、心がついていかないことを思い知らされた。
――――遺体安置所の、冷たい台に寝かされた兄の肌は、脱色されたように真っ白だった。
だけど交通事故に遭ったにしては、身体には傷が少ないように見える。顔には白い布がかけられていて、見えない状態になっていた。
私は震える手で、その白い布を持ち上げようとする。
「止めたほうがいいです」
誰かの声が、冷たい安置所の中に響き渡る。
振り返ると、入口付近に医者が立っていた。搬送されたお兄ちゃんの処置をしてくれた、お医者さんだ。
「顔はその・・・・損傷が激しいので」
「・・・・・・・・」
それでも確かめたい、と思ったものの、お父さんとお母さんには損傷したお兄ちゃんの顔を見せたくはなかったので、腕を引っ込めた。白い布は、また顔を隠してしまう。
――――顔が見えなかったせいだろうか、やはり凍り付いた心が動き出すことはなくて、ただただ呆然としていた。
だけど、状況は私達を休ませてはくれない。
遺体の引き取りのことを聞かれ、親族と電話で相談すると、火葬や葬式の準備は、急いだほうがいいと勧められる。私達は涙を流す暇もなく、心を置き去りにしたまま、忙しく動き出さなければならなかった。
病院側が、火葬場が決まるまで遺体を預かってくれると言ってくれたので、私達はその日は家に帰り、葬式の準備や、火葬場の予約を取ることになった。
だけど、準備は思うようには進んでくれなかった。近くの火葬場に、今週の予約は埋まっていると言われ、仕方なくお母さんは、少し遠い場所にある火葬場に電話をかけていた。
そうして、葬式や火葬の目途が立って、ようやく一息つけるようになった頃には、一日が過ぎていた。
「・・・・・・・・」
家族三人で、座敷に正座して、畳の上にアルバムを広げていた。
お葬式に使うための写真を、捜すためだ。
途中で携帯電話が鳴ったので、お母さんは席を外す。私達はその間も、写真を捜し続けた。
「・・・・お兄ちゃん、新幹線のチケット、取れたんだって」
しばらくして、戻ってきたお母さんはそう言った。
「そう・・・・」
一番上の兄は、上京して向こうで暮らしている。
「・・・・チケット、取れてよかったね・・・・」
「そうだね・・・・」
それからまた、写真捜しがはじまった。会話がなく、空気が重たかったけれど、こんな時に明るく振舞う気にはなれず、黙々と写真を探した。
――――だけど、写真がない。写真嫌いのお兄ちゃんは、ろくな写真を残していなかったのだ。
部屋で自撮りした、中二病的なポーズの黒歴史写真はたくさん出てきたけれど、どれもピンボケしている。そうでなくても、こんな写真を使おうものなら、参列者が吹き出してしまうだろう。
「・・・・なんでまともな写真がないのよ・・・・」
段々と、お兄ちゃんに対して腹が立ってきた。
「この写真なんか、どうかしら?」
お母さんが、写真の束の中から、一枚の写真を取り出した。
写真の中で、お兄ちゃんはアニメキャラのフィギアを片手に持ち、痛々しいポーズで、満面の笑顔を浮かべていた。
「・・・・お母さん。遺影に使う写真に、フィギアが映ってるのは駄目でしょ」
「でも、一郎の最近の写真で、顔がはっきりとわかるのは、その写真ぐらいなのよ」
「しかもこのフィギアのアニメキャラ、スカート履いてないよ! パンツが丸見えだってば!」
「お兄ちゃんによると、そのキャラが履いているの、パンツの形だけどパンツじゃないらしいの。だから大丈夫だって言ってたわよ」
「パンツの形だからパンツでしょ! だったら、どこからがパンツで、どこからがパンツじゃないのよ!?」
「そ、それは――――」
「ねえ、お父さんもそう思うでしょ!?」
私はお父さんにそのフィギアを突き付け、意見を求める。
お父さんは目を泳がせていた。
「そ、そうだなあ・・・・でもそれを議論するには、まず、パンツの定義を明らかにしないとなあ」
「パンツの定義!?」
「と、父さん達の時代には、ブルマっていうパンツの形をした運動着があってだな・・・・。だから形だけじゃ、パンツかパンツじゃないかなんて、判定できないと思うんだ。父さんの世代には、マニアも結構いて・・・・」
「お父さん、ちょっと! 脱線してるわよ!」
なぜか話を、パンツの定義だけじゃなく、マニアの方向にも伸ばそうとしたお父さんは、お母さんに肩を叩かれていた。
「・・・・何だか、パンツのゲシュタルト崩壊が起きそうだわ・・・・」
お母さんは額を押さえ、物憂げな息を吐き出す。
「パンツの定義なんて、辞書で引けばわかるじゃない」
「え゛!? この話、まだ続けるの!?」
「いいから、引いてみて」
「え、えーと・・・・」
お母さんは近くに置いていた、電子辞書を手に取る。
「ほら、下半身にはく、短い肌着ってあるわよ。これが肌着じゃなかったら、パンツじゃないわよね」
「だからどうしてそんな考えになるの!? 短い肌着なら、これもパンツで間違いないでしょ!?」
それからしばらくの間、私とお母さんは辞書を引きつつ、パンツの定義について議論をしていたけれど、やがて無駄なことに気づいた。
「・・・・やめよう、こんなこと、本当に馬鹿らしい。蟻の行列を眺めているより虚無の時間だわ・・・・」
「・・・・そうね」
「・・・・こんな大事な時に、私達、本当に何をしてるんだろ・・・・」
写真を捜していたはずのに、なぜ脱線して、パンツの定義について議論などしてしまったのか。気づけば日が傾きはじめていて、本当に、この大事な時間を無駄に費やしてしまったと、虚無感が募る。
「あ、だったら、お父さんの編集ソフトで手を加えて、このフィギアにモザイクをかけてもらうのはどうかしら? いいアイディアでしょ?」
「どこがいいアイディアなの!? そんなことしたら、余計に卑猥に見えるじゃない! 絶対に駄目だからね!」
駄目だ、このままじゃお母さんがその写真を使ってしまうかもしれないと、私はお母さんの手から写真をひったくって、ポケットの中に隠した。
「・・・・お兄ちゃんねえ、アニメのフィギアを買いに行ったんだって」
不意にお母さんが真顔に戻って、ぼそりと呟く。
「久しぶりに外出した理由が、アニメのフィギアを買うことで、しかも一か月ぶりの外出だっていうのに、車に轢かれるなんて・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・千陽(ちはる)、これ、どうしたらいいと思う?」
お母さんは、脇に積み上げていた箱の一つを持ち上げた。
何を置いているのかと気になっていたけれど、箱にプリントされたアニメキャラのフィギアを見て、察する。
「お兄ちゃんは、これを買いに行ったの?」
「そう。・・・・山ほど買い込んだから、横断歩道で信号が青になるのを待っているときに、一つが道路に落ちちゃったんだって。それを拾おうとして、トラックにはね飛ばされたらしいの」
「トラックが行き過ぎてから、取ればよかったのに・・・・」
「汚れるのが嫌だったんだろうさ・・・・」
「お兄ちゃんらしい死因よね・・・・」
「そうね・・・・」
両親と私は、死因に納得して、うんうんと頷く。三つの溜息が零れた。
私はアニメキャラのフィギアを凝視する。顔の半分以上を占めている大きな瞳が、私を見つめ返してきた。
「このフィギアはどうしよう? お兄ちゃんの形見なんだし、葬式の席に飾るのがいいのかしら?」
「やめたげてよ! お兄ちゃんが生前、あんなに、『俺が死んだら積み荷を燃やしてくれ』って言ってたじゃない! 死後に黒歴史を発表されるとか、死体蹴りで成仏できない!」
「それもそうね・・・・」
そしてまた、会話の結びのように三つの溜息が流れ落ちる。
「うう・・・・うううっ・・・・」
溜息は、いつの間にか嗚咽に代わっていた。
お母さんが両手で顔を覆って、泣いている。お父さんは顔も見えないほど深く項垂れているけれど、両肩はわずかに震えていた。
写真を探す私の手の甲に、何かが当たった。最初に落ちた涙の一滴に、二滴目が重なり、手の平のほうへ流れていく。
――――涙が止まらない。拭っても、拭っても、止まらずに流れ落ちて、顔を汚していった。
霊柩車が、火葬場の中に入っていく。
両親と私、集まってくれた親族が、霊柩車の到着を待つ。やがて火葬場の前に停まった霊柩車から、棺が取り出され、建物の中に運ばれていった。
(・・・・そう言えば結局、事故の後は、お兄ちゃんの顔を一度も見てない)
損傷がひどいからと医者に止められてから、もう一度、お兄ちゃんの顔を見ようとはしなかった。――――変わってしまったお兄ちゃんの顔が脳裏に焼き付いて、お兄ちゃんを思い出すたびに、損傷後の顔のほうを思い出すようになってしまうのでは、と恐れる気持ちがあったからだ。
両親も同じ気持ちだったのかもしれない。棺が用意され、お兄ちゃんの遺体が家に帰ってきても、棺の中のお兄ちゃんに語りかけることはあっても、顔にかかっている白い布を外そうとはしなかった。
思い出す顔が、生前の顔じゃなく、死後の変わってしまった顔では、あまりにも悲しすぎる。
――――だけど今、遺体は荼毘に付されようとしている。顔を見るなら、これが最後――――もう二度と、見ることはできない。
私はいまだに、お兄ちゃんが死んだことを受け入れられずにいる。死んだときちんと受け入れて、前に進むために――――遺体をしっかりと見ておくべきじゃないかと考えるようになっていた。
悩んでいる間に、私達と棺は、巨大な焼却炉の前にたどり着いていた。
棺は焼却炉の前にある祭壇の側に置かれ、僧侶の読経がはじまる。
もっと前に、顔を見ておくべきだった――――今さら、棺の蓋を開けて、最後に顔を見せてくださいとは言い出しにくい。
考えているうちに、読経が終わってしまった。
「それでは、最後のお別れをしてください」
火葬場の人にそう言われ、私達は棺桶の中を覗き込んだ。
白い布はまだ、お兄ちゃんの顔に被さって、その顔を隠している。
(顔を見るのは、これが最後――――)
もう出尽くしたと思っていた涙が、また滲み出て、私の視界をぼやけさせていく。もう泣くまいと唇を噛み締めて、私は最後にお兄ちゃんの顔を見るため、顔に被せられた白い布を手に取ろうとした。
だけど、布を持ち上げようとした私の手首を、お父さんがつかむ。
「・・・・千陽、見ないほうがいい」
「だけど――――これが最後で――――」
「一郎だって、死んだ後の顔より、生前の笑顔を覚えておいてほしいと思っているはずだ。・・・・俺なら、死んだ後の変わってしまった顔は、覚えておいてほしくない」
「・・・・・・・・」
私は反論できずに、手を引っ込めた。
――――そして棺は、焼却炉の中に入れられ――――扉が閉じられる。集まってくれた親族達は、それを葬儀の終了ととらえ、ぞろぞろと焼却炉の前から去っていった。
だけど私とお父さん、お母さんだけは、その場に留まり、涙を堪えながら、じっと焼却炉の扉を見つめていた。
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