第29話 泥沼

 ガーリー軍の戦車は、マレンゴ重戦車で45トン、パリス中戦車で36トンと、比較的軽量だが、それでも泥濘地を軽やかに進めるような身軽さではない。歩兵が数十キロの装備を担ぎ、軍靴を泥から引き抜いて進む横で、数名の戦車兵が泥まみれになりながら湿地へ沈みつつある巨大な戦車を押す。それでも、彼らの家である鉄騎は沼地へはまり込んでいくばかりだ。灰色の空から凍るような雨をかぶり、足元から踏ん張りの利かない泥に足を取られ、挙句の果てに巨大な“我が家”は自分たちより深く湿地に沈み込み、ついには放棄を余儀なくされる――。プファルツの森からずっと徒歩を強要されてきた歩兵たちが、灰色の顔に悪い笑みを浮かべ、ようこそと言いつつ、震える腕で慰めるように同胞たちの肩を抱いた。

 縦列の先頭では、師団長車も泥にハマり、操縦手を除いた将軍と乗員たちが、全身ずぶ濡れになりながら、肩を並べてマレンゴを押す。しかし、履帯は泥をはね上げるばかりで、全く前へは進まず、むしろ徐々に真下へ沈んでいく。将軍は手を離し、大手を振って叫んだ。

「止めだ!」

 両脇の砲手と装填手が、両手を車体から離し、ボナパルトの方を見て直立する。操縦手には、雷鳴のような音で唸り続けるエンジンの轟音に阻まれ車長の大音声は聞こえなかっただろうが、雰囲気の変化を察し、履帯の激しい回転を止めた。

「このままでは埒が明かない。藁か何かを前に敷くんだ。その辺の木の枝でもいい! 集めろ! 急げ!」

 砲手と装填手が敬礼し、即座に駆け出す。将軍はその場に留まり、戦車兵用ヘルメットの上部を、髪を掻きむしる時のようになでる。ライバルとそっくりな癖の所作で、初冬の刺すような雨の中佇んでいると、不意に灰色の世界から白い半仮面が現れた。

「閣下の車両も立往生ですか。戦車部隊でまともに脱け出せそうなのは、ベルモン中佐率いるパリス中戦車隊の一部だけのようですね」

 将軍は腕を組み、苦い顔をしてうなずいた。

「師団長であるのに情けない」

「無理もありませんよ。こんなところに踏み込んで、平然としていられる装甲車両の方が稀有でしょう。パリスだって、全車両が無事なわけではありません。むしろ中佐に着いていけているのは、第二機甲師団のごく一部である熟練の戦車兵たちだけで、その他大勢は泥にまみれ、挙句、彼らのを泥中に捨て置く他ない状況です」

 ボナパルトはヘルメットの縁から顔にしたたる雨水を右手でぬぐい払うと、参謀の目を見つめる。

「これでも横断が正解だっただろうか?」

 迂回を否定し横断を勧めた作戦参謀は、唇の右端を吊り上げた。

「やはり、これ以外になかったでしょう。保身のために言っているわけではありません。迂回をしていれば、士気の下がった兵士らは次々と逃亡したことでしょう。しかし、この沼地では逃げる先もないですからね。この地獄をいち早く抜けるべく、肩を組み合って前進する他ありません。結果として、団結力を醸成しつつ、戦力を最大限保持して、カールスルーエに到着できるという道理です」

 将軍は思わず後ずさった。

「そんなことを考えていたのか?! いくら合理的とは言え、そんな兵を追い込むような……」

「家畜は餌と鞭で従わせるものです。それが兵に代わっただけですよ、違うのは食べられないということだけです。それに、そればかりを考えていたわけではありません。こちらが泥に足を取られ、行動に支障をきたすということは、戦力の限られる敵ならば一層、このラオターニーデルングには積極的に立ち入らないだろうということです。この悪天候では、航空機が飛ぶこともないでしょう。ですから、目下の敵は泥だけです。敵の銃口に狙われない前線など、むしろ閣下には刺激が足りないくらいではありませんか?」

 仮面に埋もれる目に怪しい光が灯り、戦闘狂の上官を見つめる。ボナパルトは、背筋に雨以外に冷たいものが伝うのを感じ、咄嗟に何か言い返そうと口を開く。


 その時、雷鳴のような咆哮が、部隊の前方より轟いた。


 二人ははっとして、音のした方を見やる。続けて、数発、同じような咆哮が轟き、衛生兵が縦列の前へと掛けてゆく。

 将軍は冷たい目で作戦参謀を見やる。

「目下の敵は泥だけと言ったか?」

 ランヌ大尉は仮面の下で歯を軋ませた。それから、将軍の瞳を真っ直ぐ見つめ口を開く。

「“マンシュタイン”とは、ガーリー語に訳すと奇想天外を意味するのでしょうね。辞書にそう書くべきです」

「我が第二機甲師団が壊滅した暁には、そう書かれるだろう。無論、あってはならない話だが」

 将軍が険しい表情でうめいた瞬間、敵の砲声がまた轟き、足元の泥が波立つ。ボナパルトは湿地を揺らす波紋を見下ろす。冷たい雨がひっきりなしに顔に垂れてきて、視界をさえぎる。

 将軍は一つ舌打ちを飛ばすと、引きつった顔を上げ、突然吠えた。

「前方に敵がいる! 飯がないなら、敵兵を喰らうまでだ! 持てる武器だけ持って、敵を撃滅せよ!!」

 Enオナ avantヴォン!!(前進!!)と将軍の号令が雨の中を轟く。敵の咆哮の後、第二機甲師団の兵士たちは凍える体に鞭打って、雄叫びを挙げ最前線へ駆け出した。ピストル一本を掲げて走り出した将軍の背中を追って――。


「十一時の方向! 距離は30以上!」

 パリスの砲塔から頭を出したベルモン中佐が、ずぶ濡れになりながら、敵弾の飛来した方向を砲手に告げる。中戦車にしては大型の砲塔が左へ旋回し、10.5センチ砲が上下に角度を調整する。砲手は照準器を覗きつつ、すぐ背後に立つ車長の攻撃命令を待つ。しかし、隊長の声より、敵の砲声の方が先だった。

 雨にけぶる視界の奥、30メートル先にある藪を掻き分け火の手が上がる。ほぼ同時に、連隊長の目の前で、部下が乗るパリスの砲塔が爆轟とともに吹き飛んだ。大きな砲塔は空高く舞い上がったのち、回転しながら首を失った車体の脇の沼地へ落ちた。派手に泥が跳ねあがり、ベルモン中佐の頬をも汚す。だが、中佐は泥など気にせず、砲塔内に顔をうずめて叫ぶ。

「砲手! 距離任せる! 砲撃はじめ!」

 ついに敵の正確な距離は分からず、ベルモンは、敵がいそうな範囲に砲弾をばら撒く手にうって出る。幸いにも砲弾は多少の余裕がある。このまま攻撃を躊躇って撃破されるより、当てずっぽうでも敵を撃破できる可能性を大きくする方が、と言うより、自分たちが撃破されずに済む可能性を大きくする方が良いだろう。

 砲手が車長の意図を理解し、距離30から攻撃を始める。一発撃つと、装填手が素早い動作で次弾を装填する。砲手は左手でハンドルを回して砲の仰角を上げ、右手で撃鉄を引いた。直径10.5センチの徹甲弾が雨の中、藪へと吸い込まれてゆく。しかし、何の手ごたえもない。砲手は間を置かず、砲の仰角をさらに上げると、装填済みの三発目を40メートル先へ放った。それでも、冷たく雨音が響くだけで、何の手応えもない。

 ベルモン中佐が歯噛みして、目を覆う雨水を両手でぬぐい30メートル先の藪を凝視する。と、唐突に湿地に生い茂る藪の一部が不自然に左に薙ぎ倒され、かすかにプロイス語の叫び声が聞こえた。中佐は即座に無線を口に当てる。

「敵の装甲車を発見! 十時五十分の方向、距離30メートル! Feuフー!(撃て!)」

 長年の勘に基づく指示に砲手は素早く反応し、砲塔をかすかに左に動かし撃鉄を引く。と、藪の中から爆轟が轟き、雨をはじく火炎があがった。

 ――一体、あんなとこに、どんな車両が……?

 撃破したと思しき火炎の上がった低い藪を見つめ、中佐は目を丸くする。とても中戦車を一撃で破壊できる威力のものが、隠れているとは思い難い実に些細な藪であった。しかし、その驚愕は、別の方角からの再度の砲声によって途切れた。

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