第23話 仮面の下

 ボナパルト将軍率いる第二機甲師団は、山岳森林地帯の隘路を慎重に進んでいた。道は地形に沿って左右へ曲がりくねり、連続する勾配は気を抜いたら戦車を横転させかねない。上下左右へのたうち回る山あいの狭すぎる道を、全長数キロに及ぶ隊列を組み進み続ける。隊のスピードは、昨日と打って変わって亀のように遅く、先頭車両が町を出立してから一時間弱たってようやく3キロ進んだという状況であった。つまり、師団の移動開始の約一時間後にやっと、隊列の最後尾が町を出たということだ。

 こんな戦車部隊にとって過酷な道が、40キロ続くのである。

 ボナパルト将軍は、縦列の先頭集団のただなかで、キューポラから顔を出し、安全に勾配を乗り越えるため操縦手に細かく指示を出しつつ頭を掻いた。いつの間にか太陽は高く昇っており、山と森に挟まれた谷底にも白い日が差し込む。将軍は思わず目を細めた。

 戦車が横転しないようただでさえ気を張らなければならない険しい山道であるが、気にすべきは勾配だけではない。

 一瞬、道が平坦になったことを確認すると、操縦手に加速を命じつつ、周囲の森を鋭く見回す。

 鬱蒼とした森は不気味に周りを取り囲み、風に吹かれて怪しく蠢く。

 ――バーナムの森が動くまでは滅びない、か。

 古い戯曲の一節をふと思い出し、身震いする。

 ――いや、真に恐怖すべきは森でなく、森に潜む兵士だったな。

 自然の持つ霊的な恐怖感を退け、指揮官として冷静に周囲の森へ注意を向ける。冬を間近に幾らか葉が落ちているとは言え、それでも威圧感を覚えるほど鬱蒼としたプファルツの森は、全域が独立装甲擲弾兵連隊など敵歩兵の潜伏可能場所であった。

 しかし、正午を過ぎても、ただ森が不気味に揺れるばかりで、一人の兵士にも、一発の銃弾にも、遭遇することはなかった。第二機甲師団は、プファルツの森の中に点在する町を通過する度、ある限りの物を収奪し、腹を肥やして進軍する。これはザールブリュッケンの大虐殺と異なり、明確にボナパルト将軍の命令によるものであった。彼は自らの指示が国際法に抵触する可能性があることを自覚していたが、目下の物資の不足を無視することはできなかったのである。とは言え、彼はきちんと、この命令によって自らが戦争犯罪人とならないよう、もっともらしい口実を考えていた。それは、スコーピオン自由軍により設置された独立装甲擲弾兵連隊はプロイスの各市・町を拠点とすると発表されているため、町の物資は全て軍事物資と見なすことができ、押収は敵軍の補給能力に対する純然たる軍事行動に過ぎず、戦争犯罪たる私有財産の略奪には当たらない、ということである。この主張の是非については、後々、国際軍事法廷が判決を下すだろう。もちろんガーリー軍が解放戦争に敗北した場合に限るのだろうが。


 第二機甲師団は、バッタの群れのように通過する山あいの町々全てを襲い、住民の食料や燃料、さらに明らかに軍事目的とは言えない金品まで根こそぎ奪い尽くして、森の中をうねうねと進んでゆく。

 そして、ボナパルト将軍にとっては拍子抜けなことに、森に入った一日目は一度も敵の攻撃を受けずに暮れた。それどころか、敵の潜伏した気配さえ終日感じられなかった。

 山間部の中でも比較的大きな町を今夜の宿に決めた将軍は、十二時間ぶりに戦車を降り、同じく久しぶりに大地を踏んだ副官に歩み寄って話しかける。

「ベルモン中佐、今日一日、敵を見たか?」

「いえ、閣下。影の一つも見ておりませんな」

 ボナパルト将軍は眉間に皺を寄せ、顎をさすった。

「これは、敵が予想以上に動揺していて、未だまったく対応ができていないのか、或いは……」

「嵐の前の静けさか、ですか」

 突然割って入った声に驚き、その主の方を見やる。と、左半面を白い仮面で覆った作戦参謀が背筋を伸ばして立っており、すぐに右手の平を向けて敬礼してきた。ボナパルト将軍は反射的に返礼すると、唾を呑んでうなずく。

「どう思う? 我らが老元帥閣下の触れ込みによれば、大尉はマンシュタイン研究の“第一人者”らしいではないか」

 やや挑発的な言葉に、しかし、参謀は一度静かに頭を下げてから、将軍の目を真っ直ぐ見つめた。

「激しい雷雨には、巨大な積乱雲が必要です。天を覆い尽くすような漆黒の雲を、人の手で作り出すのは、一朝一夕にはいかないでしょう」

「では、二朝一夕には?」

 将軍に問われ、大尉は唇の右端を吊り上げた。

「たとえマンシュタインとは言え、最短でも、その程度は必要かと」

 副官が固唾を飲んで、襟をなでる。将軍はしばらく作戦参謀を見つめ返すと、不意に獰猛に微笑み手を叩いた。

「それは結構! 今回はコーラ狂も紅茶狂もいない。ビール狂に挑むは、ただワイン狂のみという理想的状況だ! そして、ワインは寝かせると味が良くなる。……ということで、今夜はゆっくり眠ろう。明日以降の雷雨に備え、英気を養うんだ。ベルモン中佐、酔っ払いで物盗りの人間のクズどもが、町の女を寝床に攫わないよう注意しろ。どうしても人肌が恋しいなら、戦友おとこ同士で同衾させるように」

 副官が引きつった笑みを浮かべ、右手の五つの爪を額に押しつけて敬礼し、走り去ってゆく。

 将軍はそれを見送ると、ふと隣に佇む作戦参謀の無機質な白い横顔をぼうっと眺める。左から向けられる視線に気が付き、ランヌ大尉は将軍の方を向いて瞬く。

「な、何でしょう? まさか将軍も男色の気が……?」

「さっきのは冗談だ。ただ、大尉は寝るとき、その仮面を外すのか、ちょっと疑問に思っただけだ」

 ああ、なるほど、と、わざとらしく安堵の息をつく。それから少し頬の筋肉を引き締め、気持ち低いトーンでこたえる。

「人がいなければ外します。もっとも今夜のような状況では無理でしょう。この町の規模では、個室が確保できるのは将軍だけでしょうから」

「つけたままで寝苦しくないのか?」

「寝つきは多少悪くなりますが、寝てしまえば分かりませんよ。それに、夜中に化け物と間違われて叫ばれるよりはマシです」

 淡々とそう返されると、ボナパルトは笑いながらも感嘆した。

「意外と前線肌なのだな。寝床に贅沢を求めないとは」

「? どういう意味です?」

 ランヌが眉をひそめると、将軍は思わず口を覆う。

「ん、そうだな……ああ――無名で、経歴不詳だった大尉が、私の参謀に着任した際、持っている情報は確かだから軍歴等を詮索せぬようにと、元帥閣下から言われたからな……。ただ、ということは、大方諜報機関か何かの出身で、こうした前線には慣れていないだろうと思っていたんだ」

 仮面の参謀は、ああ、なるほど、と呟くと、地肌の右目と、仮面に窪んだ左目で将軍を見上げ、唇の右端を挑発的に吊り上げた。

「他でもない総司令官閣下のご命令ですからね。私も逆らえませんので、守られるのがよろしいかと。私の火傷痕も経歴も、どちらも白い仮面が必要なのです」

 そうか、と将軍は一つ首肯する。そして、深く息を吸って満天の星空を見上げた。

 ――まあ、そんなことより、

 白い蒸気を晩秋の夜空に向けて吐き出す。さながら仇敵の駆る漆黒の超重戦車スコーピオンのように。腰の左右に垂れる両拳に、自然と力が入り青筋が立つ。

 ――静かすぎる。こんな静かすぎる夜は、かえって寝られそうにない。

 ボナパルト将軍は悪寒に身震いすると、両腕をさする。が、すぐに重なった腕を驚いてはなす。

 左右の腕は、肩の付け根から指先まで、一人で火傷しそうなほどに熱くたぎっていた。

 将軍は右手を上げて髪をなぜながら、自虐的な笑みを浮かべる。

 ――今日のこの静寂が、マンシュタインの作為かと思うと空恐ろしいのだが……自分でも驚くほどに、私は今を楽しんでいる・・・・・・らしい。まあ、当然と言えば当然か。何しろ、フロイデンヴァルトやシュトゥルムガルトのときと違って、混ざり気ないワイン狂対ビール狂の一騎打ちができるのだから。祖国を辱めたあのマンシュタインに、思う存分、正々堂々の復讐を果たせる好機がついにきたのだ!

 将軍は秘めたる復讐心に燃え、青い目を赤く染めて、暗い宙を見つめる。

 仮面の参謀は傍らに立ったまま、同じ方を見上げる。その目は、青い炎に包まれていた。

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