第42話 酒の効能

「……早く酒を飲みたい。それで、全てを忘れたい」

 きれいな技師の目が、驚いたように見開かれる。

「だが、いくらアルコールで洗い流しても、俺が流してきた血の量は変わらないし、罪の記憶もなくならない。それでも、今夜だけは記憶を飛ばすまで飲む。戦闘のあった夜だけは、せめて安息が欲しいんだ」

 マリーが唇を少し動かす。しかし、結局何も言葉はなく、真顔で、フレッドの頬を両手の平で挟んだ。あほ面で困惑するフレッドを他所に、子供をあやすように頬を優しくこねくり回す。

「ひゃ、ひゃんは……」

「なんだ、って言ったの?」

 フレッドは数度首肯する。それをマリーは真っ直ぐ見つめ、今度は舌に言葉を乗せた。

「頬の筋肉を柔らかくしたら、少しは笑えるんじゃないかと思って。自分では分からないでしょうけど、今のフレッド、敗軍の将どころか黒死病患者かと思うくらい顔色悪いからね? まったくびっくりさせないでよ……勝ったんでしょ?」

 手の平を離すと、元帥は嘆息しつつ、うなずいた。

「ああ勝ったさ。戦略的に重要な戦いで、二万弱の急ごしらえの軍隊で、八万の正規兵にな。だが、勝とうが負けようが、俺の人間である部分は痛みを感じずにはおれないんだ。俺は今日、殺しをした――万単位の人間を葬り、彼らの家族を絶望へ叩き落とした。俺にとっては勝利や敗北などというのは戯言・・で、罪の意識だけが重く残るんだ」

「でも、フレッドがやっつけたのは占領軍じゃない。放置しておけば、プロイス中で無垢の市民を襲って、不幸を量産するような連中よ。確かに遺族には申し訳ないことかもしれないけど、言うなれば悪魔祓いをしたのよ、フレッドは。それは罪ではないわ。実際、多くの市民がこの勝利で救われるし、あなたに感謝するわよ」

「んなこと言われなくても分かってる! とにかく飲むしかないのさ。少なくともお前さんのお説教よりは、ウィスキーの方が効く」

 んもうっ! と口を尖らせ前のめりになるも、地獄まで続いていそうな暗く淀んだ瞳を前に、マリーは続く言葉を失った。

 ――これは重症ね。

 ため息を吐き、ゆっくり正面へ向き直る。それから腕を組んで目を閉じた。

 ――ほんと、万事暗く考えがちと言うか、シリアス過ぎると言うか……どこまでも真っ直ぐで、呆れるほど真面目なんだから。その上、頑固。救い難いほどの善人・・ね……まあだからこそ、放っておく気にはなれないのよね。

 再び嘆息し、息を吸うと、せり上がった胸元が腕に違和感を与える。あっと漏らすと、作業服のジッパーを少し下ろし、中へ右手を突っ込む。それから銀のタバコケースを取り出すと振り返って、うつむいたまま前髪をかき上げる元帥の右手を掴んで無理やり握らせた。フレッドが驚いて顔を上げる。ヴィーンの女子はウィンクしてみせた。

「私の杞憂だったわね。返すわ。フリッツから貰った大切なお守りでしょ?」

 あ、ああ……と呟くと、ダブルジャケットの裏側に隠されたボタンを外し、胸の内ポケットに仕舞い込む。そして丁寧に下から順にボタンを閉めると、不意に眉をひそめた。

「お前さん、これどっから取り出した?」

「胸元だけど」

「……その作業着、胸のところに大きなポケットなんかあったか?」

「ないわよ?」

 女史は小首を傾げた。対するフレッドはいささか困惑した様子で尋ねる。

「じゃあ、どこに入れてたんだ?」

 すると、途端にマリーはかすかに頬を赤らめ、胸元を押さえた。

「そ、それはその、女には、男にない胸ポケット・・・・・があるから……」

 女史の細い両腕に押し潰され形を変える立派なソレ・・に目が行ってしまい、フレッドは頭を抱える。が、次の一言で妙な火照りは冷めた。

「す、少しでも、弟を肌身に感じたかったのよ……。フリッツを、この胸に、窒息するくらい強く抱きしめたかったの。愛の詰まったこの胸に。わ、悪い!?」

「気持ち悪い」

「なんでよ!?」

「弟を谷間にうずめるな」

「そ、そんなこと言って、フレッドだって、お姉さんの胸に甘えたいと思ったことくらいあるでしょ?!」

「お姉ちゃ、姉とはもう18年も会っていないから分からん」

「お姉ちゃん? って18年も!?」

 大声を挙げるマリーをうるさそうに睨むと、足元からカールの声が割って入った。

「野戦憲兵が到着し、捕虜収容作業を開始した。我々はどうする?」

 咳払いし、元帥の顔になって、車長席の左下の穴に向かって叫ぶ。

伯爵グラーフとアレクの現状はどうなってる?」

「第一装甲連隊は、野戦憲兵に合衆国軍捕虜を預け、先行して拠点に向け移動中。第二装甲連隊はなおもガーリー軍を追撃中とのこと。装甲擲弾兵連隊は、ブリュッヒャー大佐の命令で先に拠点へ撤収している」

「……アレクめ。ほどほどにして欲しいんだが。まあ、ともかく、それなら我々も撤収しよう。ホフマン中佐にも伝えてくれ」

 Jawohlの声が返ってくると、マリーも真面目な表情になり、操縦手席にきちんと座り直す。それから左壁面の計器類を見つめると、ポニーテールを揺らしてうなずいた。

「いつでも動けるわ」

「Jawohl. じゃあ、帰ろうか。廃村まで」

 ヘッドホンを付け直すと、少しくたびれた声で命令を発した。

「六時方向に旋回。Bewegungベヴェーグング(移動始め)」

 漆黒の超重戦車は、収容されていく捕虜たちの前で白煙を噴き上げ、180度旋回すると、ゆっくりと丘の斜面を下ってゆく。ホフマン中佐率いるグローサー・パンター隊も、ともに戦った味方の残骸を慎重に避けながら、隊長車の後に続く。



 スコーピオン自由軍は、四倍する敵と戦い、天才の作戦と、将兵らの勇敢な戦いと、一部敵のミスや油断とによって、ついにシュトゥルムガルトの戦いを制した。解放戦争始まって以来、初となる“正規軍”同士の会戦は、13時間の激闘の末、自由軍が占領軍主力部隊に致命的な打撃を与えて終結した。

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