第15話 大天使エリス?

「ま、万年筆、忘れちゃって……」

 もう三十路の技師が、頬を掻く。フレッドは盛大にため息をついた。

「オーストライヒにはない風習かもしれないが、プロイスでは入室前にノックをし、許可を求める習慣がある。ぜひ覚えておいて欲しい」

 マリーが頬をふくらませて、小柄な全身を現す。

「オーストライヒじゃなくて、ヴィーンだから! いや、まあ国籍はオーストライヒだけど。と言うか、ヴィーンにもノックくらいあるわよ!」

「じゃあ、実践してくれ。とやかく言う前に。俺も好きでとやかく言ってるんじゃない」

 まったく、社長室を何だと思ってるんだ、と腕を組み睨めつける。しかし、マリーは訝し気な目で見つめ返してきた。

「そっちこそ、社長室で何やってるの?」

 フレッドがむっと眉を寄せ、それから右隣のエリスの美貌を見やり、ようやくはっとして立ち上がった。それからネクタイの結び目を正しつつ咳払いする。

「折角だ、紹介しよう」

 強引な流れに、マリーはかすかに肩をすくめながら、ドアの影を離れ、先刻見ほれた天使に歩み寄った。

「エリス。こちらの女史は、マリア・フェルディナン・ピエヒ。陸軍技術局で戦車開発長官を務め、パンテル中戦車やティーゲル重戦車シリーズを生み出した技師であり発明家だ。今は、スコーピオン重工の技術顧問を任せている」

 女史はGrüßグリュース Gottゴットと言って笑顔で手を差し出す。

「そして、マリー、こちらがエリス・フォン・カレンベルク。俺の一才年下の幼馴染で、ホルンの名手だ。大学時代には同じ学部で歴史を学んだ。スコーピオン自由軍の軍楽隊と、いずれ設立するオーケストラの指揮者を任せる」

 Gutenグーテン Tagタークと天使の微笑を浮かべ、技師の手を取り上下する。挨拶を済ませると、マリーは顔をほころばせた。

「そう、指揮者になるのね。作曲家は誰が好きなの?」

「モーツァルトや、ベートーヴェンが一番好きだよ。鉄板なだけに、振る時のプレッシャーは凄いけどね。あとはブラームスかな。他にはシューベルトも好きだし、シュトラウス一家のヴィンナー・ワルツも聞くのは大好きなんだ。ワルツは振るとなると、あのヴィーン独特のリズムとか色を出すのが、すごく難しいけど」

 故郷自慢の音楽に触れてくれたことに気を良くして、マリーは満面の笑みになる。

「きっとすぐ上手くなるわ! いい教師が、ここにいるもの!」

 そう冗談を言って、歯を見せて笑い合う。

 音楽好きの二人は、もう一人の音楽好きを取り残して、すぐ打ち解けた。輪から弾かれた陰気な元帥が、口を閉ざしたまま、静かに頭を掻く。そうして、二人の弾む会話を傍観していると、ふとマリーが目を泳がせた。

「どうしたの?」

 エリスの緑の瞳が気遣わしげに女史を見つめる。ヴィーンっ子は、えーと、その、ね、と長い前置きをし、小声になって尋ねた。

「失礼になったら申し訳ないんだけど、その、あなたのこと、Frauフラウ(ミス)と呼べばいいのかしら? それとも……Herrヘア(ミスター)?」

 マリーの若干困惑する視線の前に立つのは、少女のような美貌で、頭の左側から腰まで長く伸びるサイドポニーテールを結い、不健康にがりがりなフレッドとは違って、健康的に華奢な女性の像だ。しかし、先刻握った手と言い、口調や声質と言い……どうにも男性のそれのようにも思えてきたのである。

 エリスは一瞬、目を丸くしてから、大きく口を開けて笑った。

「FrauでもHerrでもなく、単にエリスでいいよ。僕の方がはるかに年下だし。むしろ僕こそ、マリア女史のことは敬意を込めて呼ばないと」

「そ、そんな! 全然いいのよ。直属の部下でもないんだし」

「ほんと? じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」

 そうしてはにかむ姿に、マリーは思わず見とれる。エリスは、ぼうっとした彼女の顔を見て、舌をちろと出す。そして、置いてけぼりだったフレッドの腕に突然抱き着いた。

「ちなみに僕……」

 サイドテールの根元をフレッドの右肩に押し付ける。社長は、お、おい……と動揺した様子だが、振りほどく素振りはない。マリーが眉をしかめる中、エリスの唇が小悪魔のように笑う。

「僕……男だよ?」

 え……? とマリーの半目が、エリスでなくフレッドに突き刺さる。若社長の目は逃げるように横へ泳いだ。その泳いだ先を追いかけながら、マリーは腰に両手を当てる。

「フリッツともそんな調子だったんじゃないでしょうね? お姉ちゃん、許さないわよ?」

 いや、そんなことは、とフレッドが弁解をしようとするが、それを遮ってエリスが声を上げた。

「フリッツ……? 誰、その男……?」

 フレッドの口から苦悶の息が漏れる。どうしたのかと、女史が案じるも、痩せ細った右腕に、蛇のように強く絡みつくエリスの両腕を見て、口を閉ざした。何も言わず背を向け、忘れていた万年筆を回収すると、真っ直ぐドアへと向かう。

「おい、マリー。見捨てるな。お前さんのまいた種だぞ」

 しかし、女史はドアに手をかけ、普段出ないような低く冷たい声音で言い放つ。

「私の弟に手出した奴を、なんで助けなきゃなんないのよ。しかも見境ないなんて――」

 断じて手など出してない!! という断末魔は、マリーが後ろ手に閉めたドアに、ほとんど遮られた。

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