第12話 傷だらけフレッド

 旧知の医官は鷹揚に笑うと、元帥の痛々しい穴だらけの背中に消毒薬をふりかけ、プレートを持ってベッドを離れようとする。が、一歩踏み出したところで、急に立ち止まった。マリーが首を傾げて見守る中、白衣姿が急に低い声になって念を押す。

「閣下……いえ、社長。言うまでもないとは思いますが、相当量の木片が取れたということは、背中に同数の穴が開いているということです。いくら内臓に届くような深い傷がなかったとは言え、多量に出血もしていましたから、明朝まではそちらで安静にお過ごしくださいね」

 患者を脅すような口調に、フレッドはぶっきらぼうに、ああ、と返す。元軍医は、大げさにため息をつくと、振り返ることなく廊下に姿を消した。マリーが目でその背中を不思議そうに追っていると、若元帥の顔が枕から離れて現れる。それに気づいて女史が視線を戻すと、くすんだ碧眼は目と鼻の先より近かった。

 近いな……とフレッドに眉をひそめられ、マリーは慌ててしゃがんだまま数歩下がる。

「ごめんなさい。急に押しかけて。それに、逆に嫌なことを思い出させてしまって」

「ああ、気にすることはない。むしろ、不安を解消しようと思ったのに、逆に気を遣わせてしまうとは、我ながら情けない話だ……」

 自嘲して言うと、不意にゆっくりと芋虫のように体を折り曲げ、ベッドから起き上がる。マリーは慌てて立ち上がった。

「駄目よ。安静にしてないと。背中、ほんとに穴だらけよ?」

「知ってるよ。だが、幾ら背中に穴が開こうと、仕事に穴を開けるわけにはいかんのだ。何ぶん、社長は替えがきかないからな。――さて、ワイシャツを取ってくれ。血の染みてない真っ白のが壁にあるだろう?」

 女史は、え? いやでも……とクレーターのような無数の背中の傷を気にするも、社長に無言で見つめられ続け、ついには肩を落として、壁に掛けてあったきれいなワイシャツを手に取った。純白なそれを両手で広げ、珍しく嘆息する。

 ――責任感が強いのは結構だけど、こんな無茶されたら心配になるわ……。自分を邪険に扱ってるわけじゃないんだろうけれど、役目に真っ直ぐすぎると言うか、滅私奉公が過ぎるんじゃないかしら。まあ、その責任感と覚悟は、年下ながら素直にすごいと思うけど……って、ああ! こうやって部下やあの軍医も、フレッドにほだされて、慕うようになったのね。たしかに、まるで……まるで、愚直で不器用で放っておけないこの感じ、弟みたい。

 と、そこまで考えて、一瞬唇がゆるむ。それから首を左右へ強く振って、口元を引き締めた。

 ――何言ってるの、私は!? 最愛の弟は、フリッツただ一人よ! こんな頑固で小生意気で口うるさいやつ、いくら年下だからって、全然かわいくないわ! 弟失格よ! 失格!

「マリー? 寒いから早くくれないか?」

 背後からフレッドに話しかけられ、ブラコン……もとい女史は、肩を跳ね上げて振り向き、純白のワイシャツを押し付けた。

 フレッドは少しのけ反りながら受け取ると、ベッドに両ひざ立ちとなって右から袖を通す。それから左を通そうとしたとき、不意に短く息を吸って、動作を石のように止めた。マリーが深呼吸を続けながら首を傾げる。その両目には、フレッドのしかめられた眉が反射している。

 社長は息をゆっくり吐き出し、眉の端を下げてマリーを見上げた。

「すまんが……背中がやはり痛くてな、その……」

 上目遣いに、弱った様子で口ごもる姿に、元帥の威厳はない。ベッドに膝立ちし、情けなくワイシャツを半分シーツに垂らす様は、ただの不器用すぎる男の姿だった。左に覗く薄い上半身には、数多の傷が刻まれている。

 マリーは、その傷一つひとつに目が吸い寄せられた。これらの傷には、それぞれ彼の部下や同胞に対する決死の責任感と、それをあえては誇示しなかった自虐と、守られた者の感謝の物語があるのではないか――息を呑んで見入っていると、咳払いされる。

「いや、体を見て欲しい訳じゃないんだよ。実に情けないことで、あまり口にしたくはないんだが、そのな……腕が入れられないんだ。急に体が大きくなったか、ワイシャツが小さくなったか、或いは背中に随分な傷を負ったのか分からんが、ともかく手伝って欲しい。早く仕事をしに、ベッドからデスクへ戻らねば」

 回りくどく、回りくどくお願いされ、マリーはため息をつきながら、ベッドの左側に移動した。シーツの上に広がる左襟を取り、闘牛士のように両手でワイシャツを広げてやると、フレッドが背中を極力動かさないよう非常に慎重に細い腕を突き入れてくる。一文字に引き結ばれた元帥の灰色の唇から、荒い息がかすかに漏れる。が、骨ばった左手を袖の先に突き出すと、顎をやや上に持ちあげDankeダンケと呟く。

「これで、自爆した犯人がどこの何であれ、俺は胸を張って言えるな。かの爆発が成したことは、憐れな熊一頭と会議室一室を吹き飛ばし、社長のスケジュールを四十分遅らせただけだ、と」

 ワイシャツ一枚を、助けられながらやっと着たところで、急に肋骨の浮く白い胸を張った。その薄い体に刻まれた無数の傷跡は、上側から閉められてゆくボタンの後ろへと次第に隠される。マリーは腕を組み、思わず呟いた。

「そんなに隠さなくても、いいじゃない」

 フレッドが顔を上げ、下から見上げてくる。が、その視線には先刻までの弱々しさはなく、目の中心は苛立ちの色に、周りは曇った灰色に染まっていた。

「何の話だ?」

 予想だにしなかった尖った視線に、女史は動揺する。

「え、あのその……えーと、立場上、もちろん必要があるんだろうけど、今くらい痛みを我慢しなくてもいいじゃない。部下がいるわけじゃないんだし、そんな意地張らなくても……」

「お前さんは、俺の部下だろう」

「あ。まあそうだけど、私が言ったのは、軍人の部下のことであって」

「同じことだ。アレクや伯爵グラーフは自由軍元帥としての部下で、技術顧問はスコーピオン重工社長としての部下だ。それに俺は意地を張ってるんじゃない。一度でもそう言ったか? ただ仕事がある、それだけだ」

「それはそうだけど……言葉だけが全てじゃないでしょ? お節介かもしれないけど、あまり無理をしたら体にも心にも良くないわよ?」

 マリーの優しい気遣いに、フレッドはいよいよ苛立ちを露に鼻を鳴らすと、ベッドの脇に置かれた革靴に足を突っ込み、彼女の真横で立ち上がる。それから右手で前髪をかき上げると、流し目で鋭く見下ろした。

「お前さんは兵器の設計図だけ書いてりゃいいんだ。上司に余計な気を遣う仕事を命じた覚えはない。まあワイシャツは感謝するが、それ以上は無用だ。仕事に戻れ。俺も戻るから」

 女史はしぶしぶ首を縦に振りつつ、あんまりな言葉に、呆れたように嘆息した。

「ほんと難儀な性格ね……。幾らなんでも不器用すぎるわ。そんなんじゃ結婚できないわよ?」

「……いや、してたんだが。してないのは、むしろお前さんの方だろ」

「――ごめんなさい、そうだったわね。私はほら……フリッツよりいい男じゃないと、駄目だから」

 完全な失言をした上、究極のブラコンっぷりがまろび出て、またも二人の言い合いはフレッドに軍配が上がった。

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