第28話 欠くべからざる男

 唐突に出てきた名に、フレッドはウィスキーを噴き出し、激しくせき込んだ。しばらく苦しそうに呼吸を繰り返してから尋ねる。

「はぜそのなを?」

 自分のあまりにかすかすな声に驚き、咳払いしてウィスキーを一口含む。

「なぜ、その名を?」

 カールはその慌てように思わず苦笑いを浮かべていたが、自分も一度グラスに口をつけると、真剣な表情に戻った。

「実は憲兵隊で一時期、彼の行方を追っていたのだ」

「憲兵隊が? フリッツは味方にも敵にも公明正大な指揮官だった。貴様らに後ろ指をさされ、縄をかけられるような小人ではなかったぞ」

「心配せずとも、軍規違反の容疑があったわけではない。と言うのも、探し始めたのは、黒の森作戦が終わった後のことなのだ」

「……つまり、フリッツの行方が知れなくなってから?」

 フレッドが前かがみになって、カールのグレーの瞳を覗き込む。しかし、すぐに背もたれに身を預け、首を横へ振った。

「そんな馬鹿な。国は44年の暮れ、フリッツを戦死と認定し、遺族に――マリーに弔慰金を支払った。あいつは死んだんだ! フロイデンヴァルト奪還の成功の影で!」

 元上官は、興奮した様子で語気を荒げる。白目は充血し、青い瞳もくすんで見える。カールは深くため息をつくと、両肘をももに乗せて、将軍の目をじっと覗き込んだ。

「だが、国は必ずしも正直者ではない。一般人が知る由もない裏の何かしらに縛られて、国民に嘘をつくこともある。歴史に造詣の深い貴殿なら、分かっているはずだ」

「そのくらいのことは弁えている。だが、フリッツは大尉に過ぎん。国が隠し事をして、命を書類上で奪い去るほどの高い地位ではなかった。そんな陰謀やら工作やらに巻き込まれるのは、せいぜい元帥号を授与されてからの話だろう」

「貴殿も、少将の立場で、中央から執拗な嫌がらせを受けていたと風の噂に聞いたが」

「だとしても将官からじゃないか。尉官はその下の下だぞ! 良い意味でな」

「貴殿の気持ちも理解はするが、事実、私は彼の者の行方について、捕虜に尋問するよう密命を受けたのだ」

「密命?」

 フリッツの生存について、むきになっていたフレッドだが、およそ聞きなれない単語に注意の方向が変わる。

「そうなのだ。さらに不可思議なことに、その極秘の命令書には、マルティン・A・ボルマンの署名がされていたのだ」

「は? ボルマンだと?」

 フレッドは思わず前のめりになり、眉間に幾重にも皺を畳んだ。

 それもそのはずである。ボルマンというのは、旧政権の官房長官であり、総統の個人秘書として権力を握っていた陰の実力者だ。が、軍事畑ではなく、主に政財界の元締めであった。確かに、権力志向の異常に強い男であったため、総統の近辺で力を蓄えた軍人を見つければ、蹴落とすために軍や政府親衛隊の人事にさえ容赦なく口を挟み、大変に評判が悪かったが、やはりフリッツは尉官に過ぎない。総統の側に侍るような地位ではなかった。それも、少なくともプロイスにはすでにいない人間に、憲兵を巻き込んでまで執着するというのは、まったく理解できないことだ。

「同姓同名の他人の署名ということは……?」

「命令書を受け取った際、私も真っ先にそう疑った。だが、紛れもなく、官房長官の、政府ナンバー2の署名だった」

 フレッドがグラスを両手で包むように持ち、首を傾げる。カールはその反応に同意するようにうなずきながら、続きを話す。

「政権ナンバー2が極秘で一人の大尉を探すという命令書だけでも、十分に奇妙と言わざるを得ないが、その密命に基づき捕虜を尋問していた際、より奇妙な情報を得てしまったのだ」

 将軍が喉を鳴らし、誤魔化すようにウィスキーを流し込む。

「ガーリー軍の大佐を尋問した際、聞かされた話だ。時期は45年になったばかりの頃だったと記憶している。その大佐はガーリー陸軍総司令部と繋がりを持つ人物だったが、彼が捕虜になる直前、非常に奇妙な虜囚の噂が立っていたそうだ。元政府親衛隊の尉官で、ガーリー陸軍の総司令部から非常な厚遇を受けている人物がいるという――」

 フレッドはしばらく両手に包み込んだ琥珀の液体をじっと見つめていたが、やがて首を振ってカールに目線を合わせた。

「政府親衛隊の尉官など、数が多すぎる。あの時期に西部戦線で活動していた親衛隊が、そもそも多数に及ぶ。その妙な高待遇を受けていた捕虜が、フリッツであるとは断言できまい」

「無論だ。だから私も、何も報告は上げなかった。しかし、ボルマン官房長官が極秘に捜索を命じてきた事実を踏まえると、奇妙な符合を感じざるを得ないのだ。貴殿もそうは思わないか?」

 冷徹な将軍の顔に、一瞬雲がかかる。ところが、長い黙考の末、合理主義者はわざとらしく肩をすくめた。

「感覚的な判断は人を惑わす。だが、惑わすだけで、往々にして役に立たない。大公グロース・ヘルツォークの言いようは、申し訳ないが、まさにその典型のように感じる」

 かの技師ならば頬を膨らませつつも言いくるめられるところだろうが、二十歳近く年の離れたカールは鷹揚に微笑み、躊躇なく言い返した。

「貴殿はウルムで、“戦場の霧”について話していたであろう。この話も、結局それと同じように、推論の域を出ないながらも、確度の高い仮定として置かれてしかるべきものだと思うのだが?」

「何だそれは。俺がガーリーのトリコロールに寝返ったフリッツと、戦うことになるとでも言いたいのか?」

 軽口のように言葉を返し、グラスを煽る。ウィスキーで喉を焼くと、フレッドは舌打ちした。

「まったく冗談じゃない。なんで……なんだって俺とフリッツが戦わなきゃならんのだ」

「私はそこまで言っていない。……さては酔っているな?」

 尋ねながら、カールは手早く机上の水差しを取り、新しいグラスを満たして渡す。フレッドはそれを素直に受け取ると、三分の一ほど勢いよく飲み下した。

「スコッチならこうはならんが、バーボンはいかんな。あまりの質に悪酔いしてしまう」

「慣れと飲み方の問題であろう。……しかし、ピエヒ大尉を、非常に大切にしていたという噂は事実のようだな。相当に懇意な仲であったとか」

 カールの唐突な発言に、また咳き込む。それを収めるために、まずウィスキーを流し込み、それから慌てて水を倍飲み込んで、グラスを乱暴にデスクに置く。

「ば、馬鹿言うんじゃないよ! フリッツは本当に信頼できる奴だったが、一部の悪意ある人間が囁いていたような不純な関係にはなかった。断じてだ。ただ公私両面において特段に信頼を置ける人物であっただけだ。それに……それに、フリッツは、俺なんかとは違い、自然と人を惹きつける生来の魅力の持ち主で、人格的に優れていたし、軍事的才能にも恵まれていた。よく思ったものだよ、『ああ、フリッツが敵でなくて良かった。フリッツがとも・・で良かった』と」

「なるほど。確かにピエヒ大尉の華々しい戦果は、一度ならず耳にしたことがある。頼りになる戦友だったであろう。しかし、彼が優れていたのは、本当に軍事的な側面だけなのであろうか? 軍事に疎く、専ら政財界を牛耳っていたボルマン官房長官が、すでに戦死したはずの彼の行方を秘密裏に追っていたという事実は、到底それだけでは説明できまい」

 聡明な元憲兵は、グラスを傾け眉をしかめた。

「ピエヒ大尉は、一体何者なのだ……?」

 フレッドは手にしたグラスを、二つの碧眼の前まで持ち上げ、沈黙して琥珀の深海を見つめる。それから、口をつけ、一口流し込むと、嘆息とともにデスクへ戻す。

「――欠くべからざる男だ」

 そのとき不意に、司令室の扉が叩かれた。まだ話の途中ではあったが、将軍が襟を正して叫ぶ。

「誰か?!」

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