第26話 陥落

 歩兵の先導で三人がマクドナルド少将の司令室に入ると、フィールドグレーの同胞たちが、驚いた表情で敬礼する。そして、部屋の奥で、漆黒のパンツァージャケットを身にまとった男装の麗人が、長く美しい金髪を惜しげもなくさらしながら、ゆっくりと手を額にあてた。

「姉さま!」

 ニメールが駆け寄ると、ロマーヌは敬礼を崩し、砲弾のように飛び込んできた妹を、腕をいっぱいに広げ抱き留める。今までにないくらい強く、小さな身体を抱きしめる。

「おかえりなさい、ニメール」

「姉さまこそ、無事で良かったのです」

 かすかに鼻をすんと鳴らしながら、心底からの笑顔で見上げる。姉は微笑みかけると、自分と同じ金髪の頭を撫で、それからあっと声を出し、ニメールを引きはがした。

「ね、姉さま?」

 不安そうに首を傾げる妹に、もう一度微笑を浮かべ、自身の袖で妹の頬をぐりぐりとこする。

「い、痛いのです、姉さま……」

「じっとなさい。――はい、取れた」

 何がです? と自分の顔を触りながらたずねる。と、ロマーヌは聖母の表情で、ニメールの頭をまた撫でた。

「返り血がついていたわ。せっかくのかわいい顔なのだから気を付けなさい」

 それを聞くと、ニメールは一転して明るい笑顔になり、Dankeダンケ! と言ってまた抱き着く。幸せそうにその頭を再び撫でる様を見て、フレッドは唇をゆがめ肩をすくめた。

「ぬぐったのがイチゴジャムだったら、微笑ましい限りだったんだが」

 隣に立つシモンは、相変わらずの無表情だ。彼の単語帳には、愛想笑いという言葉はないのだろう。

 代わりにという訳ではあるまいが、ロマーヌは左手で妹の頭を優しく撫でながら、右手を額に当て再び敬礼した。

「お怪我はありませんか?」

「優秀なボディガードのおかげで、傷一つないよ」

 ニメールの方に一瞬視線をやって、微笑みで安心させる。

「ところで、マクドナルド少将は? 捕らえていないのか?」

「私たちが司令室を占拠する寸前に、保身を図った副官や参謀たちの手で脱出しました。現在、追跡中です」

 保身? なるほど、そうか……と呟き頭を掻く。これは彼にとって、良くない報せでも、良い報せでもあった。

 将軍が、敵の士気と指揮の瓦解を把握しつつ、親玉が拘束できていないという現状に中長期的な不安を感じている一方、ロマーヌは不意に深く首を垂れた。

「勝手に作戦を変更してしまい、申し訳ございません。その上、敵将まで捕らえ損ねましたこと、お詫びいたします」

 美しく勇敢なスパイは、目線を下げたまま、言葉を続けようと息を吸うが、将軍の落ち着いた声が突然遮った。

「いや、臨機応変によく対応してくれた。ロマーヌの機転がなければ、ダッハウブルクは落とせなかったかもしれない。この際、原則論はまた後日に語ればいいさ。それに、マクドナルド少将は今回の作戦の主目的ではない。可能ならばもちろん捕縛したいが、まだ逃げ切られたと決まったわけではあるまい」

 激賞に近い言葉に、ロマーヌは思わず顔を上げ、感激した様子で目を潤ませる。それからもう一度深々と腰を折った。周りの元歩兵たちも、感心してうなずく中、感情のない声がフレッドをせっつく。

「……ダッハウブルクは、まだ落とせていない」

「分かってるよ。チェックをかけてはいるが、キングは逃走中で、ポーンやナイトもまだ黙ってはいないからな。まずは外堀から大人しくさせよう」

 マイクを、と言うと、歩兵の一人が歩み出て、基地内全てのスピーカーに繋がっているものを将軍の口の前へ掲げる。Dankeと軽く頭を下げると、他の歩兵が放送のスイッチを入れた。フレッドは音を立てずに一つ深呼吸し、腹の底から声を出す。

「合衆国将兵に告ぐ。合衆国将兵に告ぐ。私は、プロイス国防軍第七装甲師団師団長であった、アルフレッド・マンシュタイン元少将である。諸君らは良く戦った。しかし、諸君らはすでに、三万を超える我が同胞らによって包囲されている。また、諸君らの司令官たるマクドナルド少将は、副官や参謀たちとともに、すでに逃げ去った! 司令部が逃走した今、これ以上の戦いは無益である! 武器を捨てて投降されたし。繰り返す、武器を捨てて投降されたし。降伏した将兵らを、我々は国際法に基づき、適切に遇することを約束する。諸君らの司令部は逃げ去った。無益な流血を避け、武器を捨てて投降されたし」




 将軍からの本格的な降伏勧告が始まったのを、マリーはスコーピオンの操縦手席で腕を組んで聞いていた。周囲に群がっていた元国防軍兵士たちは、すでに自身の持ち場へと散っている。漆黒の戦車は、最低限の護衛だけつけ、建物脇に佇んでいた。

 つなぎの作業着姿の女史の背後では、カールが車長に代わって、キューポラのペリスコープを覗き、周囲を警戒している。マリーが前を向いたまま尋ねた。

「どう? 投降しそうなの?」

 聞こえてきたのは、ため息だ。

「ここからでは敵は見えないが、味方の表情をうかがうに、敵はまだ諦めてはいないようだ」

「どんな表情してるの?」

「張りつめている。小銃を抱える手や腕にも、力が入ったままだ。敵も武器を捨てていないからに違いない」

「ねえ、正直私、こういうの分からないんだけど……合衆国軍側はこの状況で勝機あるの? チェックをかけられたみたいなもんでしょ?」

 えらく素直な質問に、脱力感を覚えつつ乾いた笑いを立てる。

「私はマンシュタイン将軍とは違って、その道の玄人ではないから断言はしかねる。しかし、司令部が逃げ出したことは致命的と言えよう」

「へえ。なんで?」

「逆転の一手を打とうにも、それを考案する者、指揮する者がいない。動揺した部下をまとめ上げる役も不在だ。合衆国軍側は、不利な状況を覆す旗振り役を失ったということだ」

 なるほど、それじゃあ無理ね、と数度首を縦に振った。それから顎をさすり、中空を見つめる。

「それでも、諦めないのね」

「理性で分かっていても、感情の面で平伏し難いということもあろう。むしろ女史には、共感できる部分があるのではないか?」

「どういう意味?」

「諦めきれず探しているのだろう? 公式記録では戦死したが、行方不明となっている弟、フリードリヒ・ヨアヒム・ピエヒ元大尉を」

 思わず振り向いた。きつねの尻尾のような太いポニーテールが、勢いよく回転する。

「私……話したっけ?」

 ニメールとカールには、まだ明かしていなかったはずだ。別に隠しているわけではないのだが、たまたまはっきりと話す機会がなかったのである。

 しかし、元憲兵の回答は、まったく予想外であった。

「女史やマンシュタイン将軍に出会う前から、弟の捜索か救出を目的に行動を起こしたのだと思っていた」

 むしろニメール女史が、計算外の存在だった、と続けられ、マリーは唾を呑んだ。

「会う前から? なんで分かったの?」

「それは憲兵隊時代に遡るのだが、実は彼を探しているのは――」

 長い話が始まりそうになったその瞬間、遠方から地鳴りのような音が重なって響いてきた。カールは慌てて、ペリスコープを覗く。

「森の方ね」

 四方を装甲に囲まれた闇の中、マリーが耳を澄まして言うが、ペリスコープのある車長の位置からその方向には司令部建物があり、具体的に何が起こっているのか見通すことはできない。正確な状況が掴めない中、元憲兵はかすかに背中に汗が伝うのを感じながら、ゆっくりハッチを開けた。

 同時に、また突き上げるような地鳴りが、複数轟いてくる。外に顔を出して見れば、北西の方角に煙が上がっていた。まるで大地が火を噴いたような光景に目を奪われていると、マリーが唐突に隣の操縦手ハッチを押し開けて顔を出す。それから、あっと叫んで上空を指さした。

「カール! ね! あそこ!」

 言われて見上げれば、大空には鋼鉄の翼があった。

「騎兵隊の到着か……」

「アンナ! おーい、アンナあ!」

 五機のタイフン連絡機が、即席の爆装を施し、矢じりのような編隊を組んで、森を飛び越え向かってくる。その圧倒的な光景に、プロイス側は一斉に沸き立ち、合衆国軍側はいよいよ声を失った。敗戦国を占領しにきただけの彼らには、空からの攻撃など想定になく、当然対空砲といったものもないため、即席の爆撃機さえ撃ち落とすことができなかったのだ。


 8月22日朝10時頃、合衆国軍占領軍の要である第一四機甲師団は、完全に士気を失い、武装を銘々解除した。茫然自失としながら、彼らが虜囚としていた者たちに、捕虜とされてゆく――不可能と笑われたダッハウブルク基地攻略は、一方の司令官が逃げ出したまま、皮肉な結末を迎えた。

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