第18話 将軍の演算
女スパイのロマーヌの機転と指揮によって、マンシュタイン将軍の方針を守りつつ、彼の練った策を超えて、三万名の捕虜が蜂起した頃、当の本人は相変わらず川沿いで頭を掻いていた。
「
マリーが、右足でブレーキペダルを踏んでから、サイドブレーキを引き上げ、150トンの巨体を完全に停止させる。続くシャーク八両も停止する中、フレッドはキューポラから顔を出し、手元のメモと周辺を見比べる。
「ここだな。渡河が望める、最後の地点だ」
ため息をつき、皺の寄った額をかく。目前の川は特に底が浅いところで、今まで見てきた他の地点より、一見水位は低そうに思えた。
「
足元の車体側に呼びかけると、
フレッドが固唾を飲んで見守る中、メジャーを引き抜く。元憲兵が、銀色の測りの濡れ具合を確認する。そして一つ首肯すると、大声で報告した。
「1メートル47センチ!」
車長は
「スコーピオンは渡河できそうだな」
それに対し、設計者のマリーが返す。
「ええ、潜水渡河の装備なしでね。車高と同じ2メートルが限度だから」
「うん……」
眉間に皺を寄せ、額にあてた手で、そのまま前髪をかき上げる。
「だが、シャークが問題だ。あれはおそらく、1メートル50センチが上限だろう」
脳天をゆっくり掻きむしる。技師も腕を組んで、渋い顔をする。
「そうね。それ以上の水位だと、エンジンに水が流れ込むことになるわ。そうしたら、川の中で機能停止よ」
戦車にとって川を渡ることは、常に頭痛の種である。特に今回のように橋を失ったときなど、最悪だ。潜水渡河専用の装備があればまだしも、今はそれがない状況なのだ。ことエンジンの給排気口が、水中に没しないようにせねばならない。超重戦車スコーピオンは車高が非常に高く、車体天板に生える火室への吸気口と、シリンダーの排気煙突を川面より上に突き出せば、メインエンジンの蒸気機関は簡単に守れる。ところが、スコーピオンより全高が約1メートル低いシャーク中戦車は、そうはいかない。車体後部に向けて緩やかに下がるボディに設けられたエンジンの給排気口は、最も低いところでおよそ1メートル半の高さである。
カールが車体後方のハッチより、通信手席に滑り込むように戻ってくる。
「やはり増水している。川岸近くで1メートル47センチだ。最深部はより深いだろう」
「どのくらいだと思う?」
頭上の車長からの質問に、立派なカイゼル髭をなで上げ、渋い表情でこたえた。
「川の底が見通せなかったため、断言はできかねるが、端より20~30センチ程度は深くなっていると感じた。あくまで私の主観だ」
「だが、今はその感覚を信じるほかない。仮定としては、水位は最大で1メートル80センチほどということだな」
その通りだ、とカールは率直に返した。
フレッドが鼻から嘆息を漏らし、頭を掻く。が、そのヘッドホンに、前方の砲塔にいる奇策師の声が届いた。
『スコーピオンがダムとして、水をせき止めるのはどうでしょう? 20センチ程度なら、低くできるのではありませんか?』
フレッドは思案し、低く唸る。が、不意に振り返ったマリーと目が合い……女史の珍しい困り眉に気が付いて、息を呑んだ。それから無言でうなずいて見せると、咽喉マイクをつまむ。
「現実的に難しいだろう。ダムのように完全に水を止められるわけではない。水位を変えるには至らんさ」
ヘッドホン超しに、悩ましい少女のため息が聞こえる。フレッドは足場にしていた車長席から一歩降り、操縦手席の右斜め後ろに立つ。夏の陽光が遠ざかり、頭の先まで暗い後部席内へおさまる。粟立つ腕をさするように組み、目を閉じた。
――問題は二つ。一つは、スコーピオンは渡河できても、シャーク八両ができないということ。無理に渡っても、スコーピオンが孤立する。ウルムの挟撃の時のように崖を背にして待ち構えられるのなら、やりようはあるが、今回は塀に囲まれた収容所に攻め入らなければならない。孤立するのは危険だ。そして、もう一つの問題は、時間だ。
一瞬目を開き、腕時計を見やる。すでにスコーピオン隊が突入していて良い時刻を、大幅に過ぎていた。
――渡河に手間取って我々の突入が遅れれば、その間、数的に最大の戦力たる捕虜たちの蜂起を起こせない。必然的に、森の陽動部隊も、犬死となってしまう。渡河の遅延は、今作戦の失敗が確定するばかりか、今後の再起の可能性さえも完全に潰してしまうだろう。……正直、先ほどは虚勢を吐いたが、あのアレクがいるとは言え、俺から直接命令を授かったロマーヌが、ロベルト同様うまく統制してしまう可能性だってある。まあ、軍隊の原則的にはそちらの方が望ましい訳だし、
再び腕を組み、深く嘆息する。
――味方の士気を上げるには楽観論が良いが、指揮官は内心では常に現実的悲観論を基礎にするべきだ。
フレッドの発想は、原理原則から言えば、正解であろう。しかし実際のところ、同時刻、事態は偶然にも楽観論的に推移していたのだ……彼は決して知り得ないが。
――二つの問題のうち、より大きいのは後者の方だ。今をおいてほかに基地奪取の機会はないと、レジスタンスの面々に説得したのは、他ならぬ俺だ。とすれば、自ずと解は定まる、か……。
演算を終え、大きく息を吐き、目を開ける。右手で咽喉マイクをつまむ。
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