第17話 ムスィデン
時計の針が朝の8時半に差し掛かる頃、合衆国軍のプロイス占領部隊が駐留するダッハウブルク基地は、静かに慌ただしかった。
混乱は早朝から続いている。敵発見の報告を受け、基地北西の森へ出撃した第二四戦車大隊五〇両と一五〇名の機械化歩兵は、レジスタンスによる巧妙な半包囲に引っかかり、援軍として二個戦車大隊と三〇〇名の機械化歩兵を迅速に出撃させれば、直後、本命であった敵将が、本命の戦車とともに収容所正門に現れた。無事にこれを撃退するも、正門に通ずる橋を落としたことで、森に送った部隊との連携が思うように取れなくなる痛恨のミスを犯している。敵のかく乱と自身のへまで激しく戦況が動き続ける中――捕虜収容バラックは、混沌とした状況を静かに見守り続けていた。
戦車や兵士が慌ただしく出て行ったダッハウブルク基地の南側とうって変わって、戦後ゲートで隔離された北側の収容地区は、息をひそめて時を待っていた。合衆国軍側の様子と言えば、南側は千単位の戦車兵に、歩兵、砲兵、工兵、衛生兵が駆けずり回っていたが、北側は若干名の憲兵が、敷地の外周に並ぶ監視塔から、ライフルを構えて見下ろしているだけである。無論、マクドナルド少将の厳命により、普段以上に警戒は強化され、正門付近には重武装した憲兵隊が控えていた。
しかし、三万名の怒れる捕虜たちを抑えきるのには、不足と言うほかない。
敵が万全の面をして、バラックを見守っているのを、ロマーヌは窓越しに確認し、ほくそ笑む。同じ窓に顔を寄せていたアレクと
「
闘将ブリュッヒャー大佐が、大きくうなずく。周囲の同士を見回すと、拳を宙へ高く掲げてから、一定の間隔で三度振り下ろす。そして四度目で、地鳴りのような兵士の大合唱が、ロマーヌらのいるバラック内に響き渡る。
『
Zum Städtele hinaus, Städtele hinaus,(この町を発たねばならない)
Und du, mein Schatz, bleibst hier.(大切な君を、ここに残して)
Wenn i' komm', wenn i' komm',(僕が戻ってくるときは)
Wenn i' wieder, wieder komm', wieder, wieder komm',(また帰ってくるときは)
Kehr i' ein, mein Schatz, bei dir.(大切な君のところに戻ってくるよ)
Kann i' glei' net allweil bei dir sein,(君のそばには、いられないけれど)
Han i' doch mein Freud' an dir.(君と一緒にいるのが僕の幸せ)
Wenn i' komm', wenn i' komm',(僕が戻ってくるときは)
Wenn i' wieder, wieder komm', wieder, wieder komm',(また帰ってくるときは)
Kehr i' ein, Mein Schatz, bei dir.(大切な君のところに戻ってくるよ)』
繰り返しに入ると、隣のバラックも歌い出し……同じ歌詞がまた繰り返されると、さらに隣のバラックが重ねて歌い出し、捕虜の合唱は段々と三万人規模へ膨れ上がってゆく。
仰天した合衆国軍憲兵隊は、鉄柵を開き、鎮圧するべく待機させていた部隊を送り込む。もちろん狙うは、最高級士官二名がおり、真っ先に歌い始めた南東端のバラック――ロマーヌの潜伏する一棟である。
『
Zum Städtele hinaus, Städtele hinaus,(この町を発たねばならない)
Und du, mein Schatz, bleibst hier.(大切な君を、ここに残して)
Wenn i' komm', wenn i' komm',(僕が戻ってくるときは)
Wenn i' wieder, wieder komm', wieder, wieder komm',(また帰ってくるときは)
Kehr i' ein, mein Schatz, bei dir.(大切な君のところに戻ってくるよ)
Kann i' glei' net allweil bei dir sein,(君のそばには、いられないけれど)
Han i' doch mein Freud' an dir.(君と一緒にいるのが僕の幸せ)
Wenn i' komm', wenn i' komm',(僕が戻ってくるときは)
Wenn i' wieder, wieder komm', wieder, wieder komm',(また帰ってくるときは)
Kehr i' ein, Mein Schatz, bei dir.(大切な君のところに戻ってくるよ)』
塀に川に木々を超え、森のレジスタンスにも届きそうな大合唱が膨張し続ける。全ての兵士が足踏みして拍子をとり、バラックの床が今にも抜けそうだ。しかし、合衆国憲兵隊も腰が抜けそうになっていた。彼らは数か月前の戦争で――主にマンシュタイン将軍率いる第七装甲師団から――負った巨大なダメージを克服しきれておらず、占領軍として威張り散らす無法者のほとんどが、実戦経験に乏しい新兵であった。そんな青二才たちが、自分たちの何十倍もいる歴戦の強者どもの音圧に、震えを覚えぬはずがない。むしろいっそ虚勢こそ、恥ずべきものと言うほかない未熟ぶりであった。
だが、どれだけ青かろうとも、仕事は仕事である。部隊長が震える声を抑え、結果上擦らせながら、配下の重武装した憲兵に号令を下し、主犯のいるであろうバラックのドアを叩き破って侵入するよう構えさせる。いよいよ目を剥いて侵入の命令を下そうとした時、三万名の大合唱を貫いて、思いも寄らぬ方向から雄叫びが聞こえてきた。
「待て! 目標変更! 三時方向!!」
重機関銃まで構えていた若い憲兵たちが、動揺して右へ顔を向ける。そして、青ざめた。自分たちが突入しようとしていた南東端のバラックではなく、北東側の複数の棟から一斉に捕虜たちが飛び出してきたのだ。黒い装甲服の一団が、プロイス語で罵りを上げながら、自分たちの側面目がけて、小銃を乱射しながら突っ込んでくる――攻撃も、防御の準備もない脇腹に! 重機関銃が分隊長の怒声を浴びて、重たい動きで向きを変え始める。監視塔上のライフル憲兵たちが、狙いをつけ発砲し出すが、捕虜の数があまりに多すぎる。屈強なプロイス軍人たちも、今ばかりは命を捨て、鬼気迫る勢いで合衆国軍憲兵隊の側面に切りかかってゆく。
しかし、彼らが側面に激突する前に――半ば三時方向を向きかけていた憲兵隊を、真西から大音声が襲った。
「
燃えるような赤毛の闘将、アレクサンデル・フォン・ブリュッヒャー大佐の号令一下、血にたぎる捕虜たちが奇声を上げながら飛び出し、アホ面を45度の角度でさらす憲兵隊に、殴りかかった。再び不意を突かれた合衆国軍側は、最前列は素手の捕虜相手にぶちのめされ、後列は指揮官の再度の指示で西に向き直り、銃を構える間に、味方の死体から剥ぎ取られた銃と銃剣によって、血祭りにあげられる。側面に向けて走り込んできていた捕虜は、一部が立ち止まり、監視塔上にいる憲兵たちを棒立ちで狙撃し出す。無防備この上ないことだが、唐突な事態に慌てふためく塔の憲兵らは、その隙を狙う余裕さえなく、次々と血しぶきを上げて落ちてくる。
正面と右側面から猛烈な突撃を受け、鎮圧部隊が即座に壊滅されると、バラックから飛び出してきたロマーヌは腹に力と空気を込め、あらん限りの声量で叫んだ。
「二十番倉庫へ!」
これを合図に、他のバラックの戸が開き、武器を持たぬ捕虜たちが収容所北西端に見捨てられた倉庫へ走り出す。無論、西側の監視塔にいる憲兵に狙われるが、構わず走り続ける。そして、命からがら二十番倉庫に辿り着くと、鍵をロマーヌが開け、鉄門扉を開け放つ。中にはプロイス国防軍時代の銃火器が並べられていた。
「ここにあるだけです! 他は敵から鹵獲してください!」
あらかじめロマーヌが、現地のレジスタンスに納品業者を装わせて持ち込ませた小銃や拳銃は、すぐになくなる。すると、一斉に踵を返し走り出した。目指すは、ダッハウブルク基地の南側、占領軍第一四機甲師団の本拠である。
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