第14話 ロマーヌの焦り
マンシュタイン将軍率いる別動隊が転進を強いられている頃、日の高さに焦り出す者がもう一人いた。捕虜収容バラックの汚れた窓から天を仰ぐ、工作員ロマーヌ・エローだ。
地平線を離れた太陽を認め、手元の腕時計を見やる。
時計の針は7時半を回り、8時目掛けて急いでいた。当初の予定では、すでに正門を将軍直接指揮の下確保し、スコーピオン率いる戦車隊が収容所内へ突入してきているはずの時間である。が、正門のある南側から響いてきていた砲撃音はやみ、合衆国軍人の歌声が聞こえるばかりだ。
――まさか撃退されたのでしょうか? 或いは、一時的な後退でしょうか?
肩で息をし、心を落ち着かせようとする。
――いずれにしても、芳しくありませんね。将軍の突入が遅れれば、それだけ森のレジスタンス部隊は壊滅の危機に長時間さらされますし、我々もタイミングが……。
歯噛みして耳をそばだてる。しかし、待ち望む大サソリの咆哮は聞こえてこない。
戦力的に優位な合衆国軍を相手取るに際し、マンシュタイン将軍は敵軍を分散し、隙を生じさせて突くつもりであった。まずは、敵が最も警戒するであろう森林に戦力を引きつけ、収容所内の部隊が減ったところにスコーピオン率いる別動隊が突入、それに合わせてロマーヌ先導の下、三万名の捕虜が一気に蜂起して、収容所中枢を占拠する計画であった。
しかし、将軍が指揮する別動隊は、予定時刻を過ぎても、まったくやって来る気配がない。おそらく悪い状態に陥っているのだろうが、広範囲をカバーする携帯無線がないため、状況は互いに推察する他ない環境である。しかも、収容所内部と外部の戦力間では、連絡員を走らせるという訳にもいかない。当然ながら、間に合衆国軍と、彼らが守る門があるのだから、考えるだけ無駄だ。
ロマーヌは一旦窓から顔を背け、バラックの中を見渡す。
数ヶ月間、風呂で垢を落とすことさえできなかった男たちが、赤黒い顔に目をぎらつかせ、決起の時を待っていた。ロマーヌの近くには、マンシュタイン将軍の忠臣であったブリュッヒャー、ザイトリッツ両大佐が控え、攻撃命令を待っている。
だが、その命令を三万名の同胞に下すのは、ロマーヌの声ではないのだ。スコーピオンの砲声が収容所内に轟いて、初めて彼女は二人の大佐に決起を促すことができる、そういう手はずになっていた。
けれども、いくら日が昇り、美しい白い頬に汗が流れようと、期待する音は聞こえてこない。
ロマーヌは未知の重責を感じ、一度深呼吸する。
こうした最悪のケースについて、もちろん将軍との間で話がなかったわけではない。正門を突破できなかった場合の新たな攻撃ルートは、両者に共有されていた。ところが、どのように正門突破の失敗と転進を判断するかについては、詳細に決めていなかったのである。呆れた話のように思えるが、連絡員の行き来ができない状況で、しかも、スコーピオン隊の攻撃に先行するレジスタンスたちによる半包囲が、予定時刻通りに始まるか正直分からなかったのだから、昨晩のうちに、たとえば何時になったら転進と見なすと定めることはできなかったのだ。
――ですが、明らかに戦闘の音が聞こえなくなりました。合衆国兵の歌声は相変わらず正門付近から聞こえてきますけれど、そこから動く様子はありません。もしスコーピオンを撃破したのであれば、中へ戻ってくるか、森の方へ増援に赴くはずです……レジスタンス部隊が生き残っていて、かつ敢闘していればですが。いずれにしても、正門に留まっているのは、まだ警戒しているからではないでしょうか。そうなりますと、スコーピオンはあくまで一時退却し、転進したと考えるべきでしょう。
耳を窓ガラス越しにそばだて、懸命に、しかし冷静に、見えざる情報を分析する。実地で叩き上げてきたスパイとしての能力が、全力で動き出す。人生で二度はないであろう窮地に立たされ、これまでの諜報活動で培われたものが開花し、そして……
――将軍から示された計画を墨守するだけで、うまくいくでしょうか?
力強く咲いた花は、自分も知らない果実を結び始める。
落ち着かない様子で黙考を続けるロマーヌに、赤髪の大佐が話しかける。
「本来の作戦から、重大な変化があったのではないか?」
その声に意識を現実に引き戻され、はっと顔を上げた。目と鼻の先で、力強い緑色の瞳が二つ、こちらを見つめている。ロマーヌは固唾を飲み、一つ首を縦に振った。
「ええ、おそらくは」
「なら、元々の計画に拘泥することはない。成功の前提を欠いた作戦を、まるで親の言いつけ通りに守っても、褒められはしないからな。目標と目的の達成が最優先だ。定められたゴールに着くように、過程は随時柔軟に判断すればいい」
真剣にアドバイスするブリュッヒャーの肩を、しかし僚友たるザイトリッツは、しかめっ面で掴んだ。
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