第4話 ダッハウブルク捕虜収容所
戦後プロイスにおける連合軍の横暴は、一般市民に対するものだけではなかった。あろうことか、正々堂々戦い抜いた同じ軍人に対してさえ、彼らは最低限の礼をも失していた。
いや、厳密には国ごとに差異はある。さすが連合王国は紳士らしく、まだマシな対応であったが、オロシー連邦は、国際法がキリル文字で書かれていなかったためか、無法を尽くしており、ガーリーは己の恥を隠すように、最大限尊大に振る舞っていた。合衆国は、これら二国に比べればまだ理性があるように思えたが、自分たちこそが世界だとなぜか思い込んでいる節があり、その病ゆえに、国際法をそこら中で無視している。
だからこそ、戦争が終わってなお、もはや敵でないはずの将兵たちを、不衛生な捕虜収容所に詰め込み、不当に自由と人権を縛り付けていた。
合衆国軍占領軍最高司令部のお膝元と言っても過言ではないダッハウブルク捕虜収容所も、例外ではない。
淀んだ瞳の男たちの真ん中で、燃えるような赤毛の男が、首に止まったハエを叩いた。筋骨隆々の手と首に挟まれ、小さい命は一瞬で沈黙する。見れば、垢で黒ずんだ手に、ハエ形の鮮やかな黒点が上塗りされていた。思わず、
「撃墜数に一追加だね」
言われた赤髪は鼻で笑う。
「俺は高射砲部隊の指揮官だったことはないが」
「問題ないよ。事実、味方には、戦車で敵攻撃機を撃ち落とした奴もいたそうだ」
「それは驚きだな」
ハエ形のシミを何とか落とそうと、大きな手を叩き合わせるが、耳障りな甲高い音が響くばかりで、一番きれいな黒シミは消えそうにない。深くため息をつき、天井を仰いだ。何百という男たちが発する黒い空気は、天井の低い木造バラックを埋め尽くし、今にも窒息しそうである。
「ここの空気は大層悪いだろう、お嬢さん。体調には気を付けた方がいい」
優しいテノールの声音で、金髪の男が話しかける。クラッシュキャップを目深にかぶったパンツァージャケットの青年、に変装したロマーヌ・エローは
「
「余計なことを言わないでくれよ、アレク。僕はそんな節操なしじゃない」
しかし、赤髪は鼻で笑い、男装したロマーヌの耳元でささやく。
「気をつけろよ。こいつは確かに美形で、性格はいいが、ゼウス同様の欠点がある。誠実な騎士を気取ってるが、その実はドン・ファンだ」
女スパイは苦笑を浮かべ、二人を見やる。
「ご心配痛み入りますが、もし事情を知らない人間が見たら、青年兵を口説いているように映るのではないですか? それとも、私の変装は不十分でしょうか?」
即座に金髪の男は首を左右へ振った。
「とんでもない。あなたに不十分などないさ」
「お前にはあってもな」
赤髪が軽口を叩くと、“
「しかし、あの人であれば、こんな美形の青年兵がいれば、放っておかなかったかもしれないね」
ロマーヌは首を傾げるが、赤毛の男はつられて笑った。
「違いない。毎晩連れ込んでいたものなあ、特にほら、何と言ったか、あのお気に入りの……」
「時期にもよるかもしれないけれど、例の独立重戦車大隊の指揮官は特に思い入れが強かったようだね」
「ああ、そうだ! あいつだ! 毎晩、自分の寝床に呼んでは、酒を酌み交わしてまあ、何をやってたんだか」
「それが結局、何事もなかったという噂じゃないか。むしろその点が、僕は意気地なしだと思ったけれどね」
「そりゃお前、仮にも故郷に妻がいりゃあ、最後まで致すことはないだろう。妊娠までしてたんだし」
あの、お伺いしてもよろしいですか? と、困惑しながらロマーヌが口を挟む。
「どなたのお話でしょうか? お二人がおっしゃっているのは」
二人の男が顔を見合わせる。
「お嬢さんのよく知っている人だね」
「おう、そうとも。お前に潜入を命令したお方さ」
思わず目を丸くして、素の女性の声で叫んでしまう。
「しょ、将軍ですかっ?!」
慌てて二人が指を口に立てる。ロマーヌははっとして、うつむいた。そして目線を逸らし、小声でたずねる。
「その……マンシュタイン将軍は、お二人にとって、どのような方なのですか?」
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