3章 怪物とダッハウブルク

第1話 最後のピース

 未曽有の世界戦争が全戦線にて終結し、どの国も、負けた国も勝った国も、戦い疲れている1945年の8月。欧州の中央に位置するプロイスだけは、数ヶ月前に時間が戻ったようであった。いや、正確には、数ヶ月の忍耐を経て、また新たな戦火が燃え出していた。


 その火種となった事件――無罪により“戦犯”の指定を受けていた二人の将校が、不当な拘束を振り切るべく戦車で逃走したベルーンの黒い風事件から、六日が経った8月21日の夕刻。拡大し続ける反占領軍運動の最初のクライマックスとも言うべき計画が……暗礁に乗り上げそうになっている。

 モデルのような美貌をたたえた女スパイ、ロマーヌ・エローの顔には、珍しく汗が垂れていた。妹と同じターコイズブルーの瞳には、腕を組み眉間に皺を寄せる男たちの顔が映っている。

「今、何つった?」

 ダッハウブルクのレジスタンス代表が睨みつけてくる。一度固唾を飲むが、女優のように平静を装って言葉を繰り返す。

「お集まりいただいた代表の皆さまには、合衆国軍の第十四機甲師団が置かれるダッハウブルク駐屯地の攻略に、力を貸していただきたいのです」

 聞き間違いではないことをようやく理解したレジスタンスの代表たちは、一斉に異を唱えた。

「第一四機甲師団と言えば、マクドナルド将軍の率いる合衆国軍占領軍の中核部隊だ! ミュンヒェルンにあるあの国の占領軍最高司令部の盾となる部隊だぞ!」

「敵の規模があまりに大きすぎる。詳細は聞かされていなかったが、そんな大それたこととは思わなかった!」

「まったくだ! もっと外堀を埋めるような、小さな目標だと思ったから、協力を承諾したのだ!」

 そうだ、そうだ、と男たちの声が続く。が、やや騙し討ちに近い形で協力を約束させていたロマーヌは、落ち着いた口調で諭す。

「そうはおっしゃいますが、私の一六歳の妹が率いるフロイデンヴァルト・レジスタンスは、マンシュタイン将軍とともに、マクドナルド少将直卒の合衆国軍の百名の将兵と二十両の戦車を、見事撃退しました。それだけでなく、あのボナパルト将軍率いるガーリー第二機甲師団の精鋭をも退けたのです。決して恐れることはありません」

 この言葉に、大の男たちは、口をそろえて非常に大人げない反応を示した。

「そんなもの偶然に決まってる!」

「そうだ。敵が油断していたに過ぎないだろう。次も同じとは限らん」

「絶対に警戒しているさ! 不意をつこうにも、もうそんな隙は見せないだろう」

「で、ですが……」

 狼狽したロマーヌが再度説得しようと口を開いたその時、まったく別のところから、良く通る男の声が割って入った。

「隙を見せてもらう必要はない。隙は、作り出すものだ」

 皆の目が戸口に向けられた。視線を束になって受けながら、薄暗い室内に、金髪碧眼の将軍が歩み入る。黒いパンツァージャケットは泥と油に汚れ、お世辞にも清潔とは言い難い。しかし、板のように伸びた背と、鋭い眼光は、厳格な軍人らしいオーラをまとっている。席についていたレジスタンスたちは、おもむろに立ち上がった。しかし、それを手で制し座るよう促す。

「代表の皆さん、夜分にお集まりいただき感謝にたえない。そして、遅くなって申し訳ない。道中、ちょっとあってね」

 そう言いながら、アルフレッド・マンシュタイン将軍は、ロマーヌの横にかける。

「何があったのですか?」

「いやあ、ウルムで連合王国軍の戦車隊と歩兵にからまれて」

 レジスタンスたちが息を呑む。が、将軍はまるで町のチンピラに遭遇した程度という軽い調子で話す。

「三十両の戦車と無数の歩兵に囲まれてね。ああ、こちらは被害なかったから安心してほしい。まさか連合王国軍に遭遇するとは思わなかったが、無事撃退できて何よりだよ」

「げ、撃退したんですか!?」

 レジスタンスの一人が叫ぶ。フレッドは、ああ、と一つうなずいた。

「苦手だと思ってた相手だったが、やり切った」

「敵は一体誰だったんです?」

「ブレナム公だ。“北アフリカの英雄”と言えば分かるか?」

 一斉に男たちが首肯する。

「もちろんです! 連合王国最良の将と言われるほどの人だ!」

「その器だったよ。なかなか手強かった。それこそ隙のない将軍だ。それでも、無理やり罠に引きずり込んで、叩きのめしてやったがな」

 サラリと新たな武勇伝を語ってみせる。表情は自然だが、誰にも見えない机の下では、両手が震えていた。神経質そうな細長い指を交互に組み、震えを抑え込む。そうして何食わぬ顔で、組んだ両手を机の上に置いた。これで威厳ある将軍の座り姿の完成だ。

「さて、もうロマーヌから説明は聞いたのだと思うが、今回我々はダッハウブルク収容所を攻撃する。目的は、戦後、不当に捕らえられ、自由を奪われている捕虜の解放と、収容所に隣接する兵器工廠の奪取だ。この作戦を成功させるには、どうしても諸君らの力が必要なのだ」

 レジスタンスたちの顔色が少し変化する。しかし、まだ納得には程遠く、疑心暗鬼の霧は晴れていない。耳を傾けてはくれているが、首も同じくらい傾いている。

「だがな、将軍。あそこには第一四機甲師団がいる。捕虜の解放と工廠の奪取、これらを黙って見逃してくれる連中じゃねえのは明らかだ。あいつらがいるのに、どうやって成功させる?」

 代表の一人が詰め寄ると、他の者たちも大きく首肯した。フレッドは理解を示すように、数度首を縦に振る。

「もちろん第一四機甲師団や、合衆国軍占領軍との共存は無理だろう。だから戦って摘まみ出すしかない。皆も分かってるとは思うが」

「だが、どうやって?」

「作戦は考えてある。しかし、ご紹介できるのは、協力に同意いただいてからだ。申し訳ないが、軍事には機密がつきものでな」

「それじゃあよお、作戦聞いてから、協力を撤回することはできねえってことか?」

「場合によるな。作戦に参加する者以外に情報が漏れる危険があるのなら、難しいとだけ言っておこう」

「だが、将軍の考えている作戦が、無謀なものであったら?」

「そこは信用していただきたい」

「……何人殺す気だ?」

 応酬の中、震える一つの声が妙に響いた。その場にいる者全員が思わず口をつぐんだ。

 突然の沈黙に、若き将軍は固唾を飲み問い返す。

Wieヴィー bitteビッテ?(何と?)」

「うちのレジスタンスをだ……。一体……何人の味方を、犠牲にするつもりだ?」

 率直な不安をぶつけられ、フレッドはしばし無言になる。

 結局は皆、それが恐ろしいのだ。攻撃は無謀だとか、敵が合衆国軍の精鋭だとか、そんなことは表面上の言の葉に過ぎない。誰もが、死を恐れている。それも犬死を。将軍が黙って手元を見つめている間に、代表たちの顔が、また青くなっていく。あえて直視していなかった根源的な恐れを思い出し、互いに目配せし、落ち着きなく顔をこする。ロマーヌが緊張した面持ちで、黙ったままの将軍と、今にも逃げ出しそうな代表たちを交互に見やる。そして、決壊を防ぐべく、何か言葉をひねり出そうと口を開く。が、同時にフレッドが顔をあげた。

「予定では犠牲者は0だ」

 強い口調で言い切る。代表たちは、はっとして将軍の青目を見つめた。

「無論、諸君らの練度にもよるが、鍛錬を欠かさぬ向上心があるのなら、私の指揮についてこられるはずだ。少なくとも、捨て石を前提としたような作戦は、私自身が嫌いでね。勝つために兵力をいたずらに損なうような愚を犯すくらいなら、その時は勝負を見送り、他の機会に万全の態勢で完勝を目指すべきだ。理想的な勝ち方とは、相手だけが損害を被ること――そうすれば、敵は弱体化し、味方は経験を積んでより強くなる。合理的だ」

 そうだろう? と一人ひとりの目を見つめ返す。武勇伝を語って宣伝するときと違い、彼の体は芯から熱く、体の奥底から吐き出される息は熱を帯びていた。その真夏の熱波は、代表たちの心の霜にも吹きかかる。

「今が、その理想的な勝ち方ができる時だと?」

 戸惑いながら、まだ半ば疑心暗鬼な代表に、フレッドははっきりとうなずいた。

「そうだ。予定の通り、明日をおいて他にない。明後日でも、明々後日でも駄目だ。時間を置けば、敵の警戒が増し、我々の勝機は失われる。諸君らの協力が得られれば、必ず明日、目的を果たせる」

「どうしてそう言える?」

 また別の代表が確かめるように尋ねると、将軍は端的にこたえた。

「そうなるよう、状況を私が作ってきたからだ。そして、その最後のピースが、諸君らの協力なのだ。軍事の常として、作戦などの詳細な内容は、今ここでお話しすることはできない。だが、絶好の機会である明日目的を達し、合衆国軍第一四機甲師団を追放し、占領軍に大きな打撃を与える――そのための状況は、諸君らの同意によってのみ完成する! だから、どうか、力を貸してほしい。目の上のたんこぶたる占領軍を吹き飛ばす第一歩、明日はその唯一無二の好機なんだ! どうか、力を貸してくれ」

 頼む、と頭を下げる。

 代表たちは、この姿についに首肯する他なくなった。彼らを含むプロイスの市民から、あるいは敵国からも称賛と崇敬を集める将軍に、必死にお願いされ、固く頭を下げられては、折れるしかないというものだ。また、第一四機甲師団を、ミュンヒェルンに占領拠点を置く合衆国軍を、果ては連合軍を……という彼らにとっても同じ悲願は、伝説的な勝利を重ねてきたマンシュタイン将軍の指揮なれば、ただの夢に終わることはないのではないか――互いに目配せして、銘々が確信を持った。

 ダッハウブルク・レジスタンスの代表が、震える声で言う。

「閣下……どうか、顔をお上げになってください」

 ゆっくりと将軍が面を見せる。その青い瞳には、打って変わって覚悟を決めた代表たちの顔が反射した。

「閣下のなさろうとしていることは、まさに我々レジスタンスが望みながら、手の届きようがなかったことです。しかし、全員で信じたいと思います。閣下が指揮をとられる限り、夢は潰えないと」

 “プロイス陸軍最高の頭脳”と呼ばれた痩せ身の男は、中年の代表をじっと見つめる。それから机の上に身を乗り出し、固く互いに手を握った。

Dankeダンケ schönシェーン

 将軍が一言返すと、テーブル中から拍手が起こった。そんな鮮やかな説得の場面に、ロマーヌは安堵の息を漏らし、それから躊躇いがちに喝采から目を逸らした。

 ――できれば私の力で、説得に至りたかった……。

 生真面目な女スパイは、テーブルの下で、スカートの裾を強く握りしめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る