2章終話 ひしゃげたケース

 一夜明け、雨の上がったウルムの廃墟に、十両の戦車と、死んだように眠るレジスタンスたちの姿があった。皆夜通しの戦闘と整備に疲れ果て、無防備に床に伸びている。スコーピオンの砲手、シモンも黒い髪を、か弱い朝日に透けさせながら目を閉じ微動だにしない。だが、そんな男のそばで、動く影が二つあった。

 ぼさぼさになった金髪のポニーテールが、地面から持ち上がって揺れる。

「早いわね……フレッド」

「ああ、まあね」

 そう言って金属製のコップを傾ける。

「なに飲んでるのぉ……? コーヒー?」

「いい言葉を教えてやろう。ブランデンブルクのある大王が言ったんだ。『朝の目覚めはコーヒーよりもビールがよい』」

「ええ、朝から何てもん飲んでるのよぉ……」

 寝ぼけ眼のまま隣へ這い寄ってくる。背中を壁に預け地べたに座る将軍の横へ来て、思わず鼻をつまんだ。

「またこれぇ? と言うか、ウィスキーじゃない」

「しょうがないだろ、ビールないんだから。代用品だ」

「全然別ものじゃない……」

 普段なら叫んでいるところだろうが、さすがに寝起きではそこまでの元気はないようだ。並んで壁にもたれかかり、足を前へ投げ出す。

「まさか寝てないとか言わないわよね……?」

「うん? あ、そうだ。銃創のガーゼを交換するか?」

「ちょっと誤魔化さないでよ。あと傷はもう完全にふさがったわ」

 お、そうか、早いな、と返すと、コップを口元へ運ぶ。その指先は細かく震えていた。ぼうっとそれを眺めながら、マリーが尋ねる。

「指震えてるわよ。アル中なの?」

 はっとコップを両手で抱くように握りしめる。異様に白くなった指先を、マリーの視線から覆い隠した。

「前にも言ったが、このウィスキーは俺の精神安定剤だ。酒を飲んで指が震えているのでも、酒が抜けて指が震えたのでもない。指どころか、体全体が震えそうな気持ちに襲われたとき、こいつで心から温まっている」

 愛おしそうにコップをなでる。マリーがもぞもぞと体を動かし、膝を抱え、体育座りをする。

「戦闘が、そんなに怖かったの? ってああ、そりゃそうようね。死にかけたものね」

 歴戦の将軍でも死への恐れは消えないのか、と意外そうに見つめる。しかし、フレッドは首を傾げ、頬をかいた。

「死への恐怖心は確かに消えない。戦場では常に殺すか、殺されるかだ。だが、それには残念なことに多少は慣れたのか、今では指がこうして震えることはない。むしろ死にかけたことより、死なずに済んだことが……心に重くのしかかってな」

 そう言ってまた仰ぐ。息を大きくつくと、ウィスキーの強烈なスモーキーな香りが漂った。とろんとした目で、マリーは続きを促す。

「話してよ。私がフリッツのことしゃべるみたいに」

「あのハイテンションは真似できん」

 ええ、もう……と静かに吐息を漏らし微笑する。寝ぼけているのか、弟と機械のことでいっぱいな女史の頭が、じゃれるようにフレッドの肩に乗ってきた。狐のしっぽのようなポニーテールが、かすかに頬にふれる。さながら一夜をともに超した暁のベッドにいるような、常と違って艶めかしい彼女の雰囲気に、フレッドは心拍があがったのを感じた。……まあ飲み過ぎが原因だろうが。

 コップを一旦脇に置き、分厚い軍服のボタンをはずす。そして、懐中から、ひしゃげた平たい箱のようなものを取り出した。

「なにそれぇ?」

「タバコケースだ。と言っても、本来俺のではない」

 そもそも吸わないし、と付け足す。ふーんとマリーが返事をする。

「じゃあ、誰のなの?」

 フレッドの青目を覗き込んで尋ねる。すると、彼は目をそらし、言いづらそうに口を数度開け閉めし、手の中でタバコケースを弄ぶ。しかし、女史に黙って見つめられるのに耐えかね、一つ大きく深呼吸すると、真っ直ぐ瞳を見返して吐き出した。

「フリッツのだ……」

 マリーの目の色が変わる。無言で背筋を伸ばし、ケースとフレッドの横顔を交互に見やる。将軍の細い喉が、固唾を飲んで上下に動いた。

「フリッツのだ。フリードリヒ・ヨアヒム・ピエヒ」

 大切に、一語一語をガラスのように慎重に声に乗せる。マリーは驚きながらも口を閉ざしたままだ。しかし、先ほどまで半分寝ていた顔は、目は大きく見開かれ、頬は紅潮し、完全に覚醒していた。

「これを渡してきたのは、ほんの些細な冗談のようなやり取りだった。俺がタバコをやらないと知ったフリッツが、食わず嫌いはよくないと、戯れに自分のこのタバコケースを差し出して一本すすめてきた。まったく関心のない俺は断ったが、そしたらケースごと押し付けてきてな。びっくりしてその場で返そうとしたが、あいつは笑ってこう言った。『それなら胸元にでも入れておいてください。いずれ砲弾の破片や、銃弾でも、防いでくれるかもしれませんよ』とな」

 胸元にもう一度手を入れ、何か細長いものを抜き出す。それはフレッドの命を狙ったスナイパーの弾丸だった。冗談っぽく渡されたタバコケースは、その言葉通りに将軍の一命を救ったのだ。震える手で凶弾と、穴が空いて変形したタバコケースを握りしめ、懐中へ戻す。冷たい指先でボタンを締め直すと、酒の残るコップを両手で包み一口含む。

「そんなやり取りをしてこのケースを渡されたのは、昨年の11月10日だった」

 マリーがはっとする。

「黒の森作戦の、前日」

 フレッドは一つ首を縦に振った。

「彼がフロイデンヴァルトで戦死したと聞いてから、中に入っていたタバコは全部吸ったよ。だが、どれもあまりに苦すぎた……」

 肩を揺らして自嘲気味に呟く。しかし、その瞬間目がわずかに潤むのを、マリーは見逃さなかった。

 もう一口ウィスキーを流し込むと、あっと言ってコップをまた床に置き、服の中をまさぐる。手には先ほどのタバコケースが握られていた。

「これはお前さんに返そう。他人の俺が持っていていいものじゃない。大切な弟の、唯一の形見だしな」

 だが、姉は差し出されたケースを両手で押し返した。将軍は驚いて瞬きする。

「それはフレッドが持ってて。フリッツは、あなたにそれをあげたんだもの。姉とは言え、取り上げるなんてできないわ」

 しかし……と己の意思を貫き通そうとする頑固者の鼻頭に、ムッとした表情で指をさす。

「それに! フリッツは死んでないから! 形見とかいらないわよ! また一緒にたくさん思い出を作るんだから。このこと、忘れないでよね!」

 そう言って満面の笑みを見せる。ちょうど高く昇り始めた夏の太陽の光に、心底から明るい表情が照らされた。陽気なヴィーン人の前には希望しかないようだ。

 戦場で灰色に鍛え上げられたフレッドには、輝かしい朝日に包まれ、拳を握って上を向く姿は、理解しがたいものだった。しかし、その力強い新たな日の光は太さを増し、薄暗いところにうずくまっていたフレッドをも包み込む。

「さあ、フレッド!」

 陽光の中、立ち上がったマリーが振り返って手を差し出してくる。

「行くわよ!」

 燦然と輝きまぶしいのは、朝日故か、その希望に満ちた姿故か。フレッドはその圧倒的な光景に飲まれるように、熱気立つ女史の手を、力強く握り返した。


 大切なひとのための戦いは、まだ朝の光の中――。

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