第6話 フロイデンヴァルト

 森の中には幅数メートルほどの空間が、道のように奥へ奥へと伸びていた。道のように、というのは、獣道にしてはあまりに大きく、かと言って整備された様子はまるでないのだ。しかし地面は踏み固められた跡がある。

 マリアは小さな覗き穴から目を凝らし、道らしきものを探しながら左右の加減弁を押したり引いたりして、進路を細かく調節する。が、やはり前方におよそ9メートルも車体が伸びているためか、行く手がほとんど見えないようだ。周辺の木々を派手に薙ぎ倒して進みながら、行路を逸脱しそうになる。

「違う! 十時方向だ!」

 キューポラから外に顔を出していたアルフレッドが叫ぶ。慌てて右の加減弁レバーを思いっ切り引き寄せ、右手側の木を根こそぎ引っ繰り返す。襲いかかってくるトウヒの針のような葉をアルフレッドは軽く悲鳴をあげて払いのける。

「前が見えないで何が操縦席だ!」

 苛立たしく叫ぶと設計者が怒鳴り返す。

「車幅4メートルの戦車でこんなところ来るのが間違いなのよ!」

「森を通れずしてプロイス戦車なものか!」

 ――いや、結構ティーゲル・ドライでも苦労したが……とシモンは思い返すが、何も言わない。一人“邪魔な”前方砲塔内に収まり沈黙している。

「ええいこのっ、鬱陶しい木の葉め!」

「ちょっと! やめてよ! 操縦席に入ってくるじゃない」

「そりゃキューポラ開いてるからな」

「そういうことじゃなくて!」

「お、おい! 前見ろ! 二時方向転進!」

「えぇっ?!」

 言った直後、前方の視界が木で塞がれる。戦車は巨木に突っ込み完全に道を逸脱していた。マリアは慌ててブレーキを踏む。巨体はゆっくり滑って数拍後に停止した。

 そのまま逆進に切り替えようとするが、アルフレッドが頭上で声を張り上げる。

Panzerパンツェル vorフォー!(戦車前進!)」

 逆進レバーに伸ばしかけた手が空中で止まる。

「なんで?」

「目的地に着いたからだ。思わぬショートカットになったが」

 ヘッドホン越しに声が入る。

『……バンカーか』

「そう。黒の森作戦前夜、第七装甲師団で使用していた戦車バンカーだ」

 マリアが立ち上がり、車長用のキューポラから身を乗り出そうとする。アルフレッドが驚きながら身を引き空間を空けてやる。

「あの木が半分のしかかってるやつ?」

「そうだ。あそこにティーゲル・ドライやパンテルを隠していた。作戦の当日までな。簡単な整備も行える。意外に立派な施設だぞ?」

「でっかいトーチカみたいね。しかも半地下化されてる。空爆対策?」

「そんな感じだ」

 そう言うと、マリアを操縦席へ押し戻す。

「ま、おしゃべりは後だ。とりあえず、あの中にこのデカブツを隠すぞ」

 マリアは皮肉をこめた言葉に眉をしかめながらパーキングブレーキを解除する。鋭い音でブレーキの空気が抜けると、巨体はバンカーへ吸い込まれていった。






 三人は戦車を念入りにバンカーの奥へ隠すと、森を急ぎ足で抜け、もと来た街道に戻る。すでに日は西へ沈み、あたりは薄暗くなり始めていた。

「案外森を抜けるのにかかったな……」

 アルフレッドが腰に手を当て紫色に染まる空を見上げる。

「あっちはガーリーの空ね」

 マリアが憎らしげに漏らす。

 それに対しシモンはため息をついて言った。

「……それよりまずは今夜の宿だ。この時間からバンカーへ戻るわけにはいかないし」

 森の方を振り返れば、すでに真っ黒の塊となっている。

「仕方あるまい。フロイデンヴァルトまで歩いて行こう」

「日がのぼっちゃうわよ!」

「だが、ガーリー軍の追っ手は必ず来る。道端で寝ていて、起きたら軍の牢屋だったなんて笑えないからな」

「えー、でもフロイデンヴァルトまで何キロあるの?」

「だいたいこっからだと、50キロくらいか」

 シモンがうなずく。

「うへえ、ほんとに朝になっちゃうじゃない」

「じゃあ朝まで歩いて夜まで町で寝てりゃいいさ」

 だいたい研究職なんて徹夜と友達みたいなもんだろ、と言われると、マリアはうんまあと首肯し押し黙った。そうして根性で森に挟まれたナイトウォークを始めようとした矢先、軍人の鋭い神経が空気の揺れを感じ取った。

「隠れろ!」

 小声で叫ぶとシモンとマリアの手を引いて、街道脇の茂みへ倒れこむ。

「痛いじゃない!」

「静かにっ」

 小枝で頬をかすったのか、マリアの横っ面に赤い跡が見える。が、今はそれは無視だ。

「エンジン音だ。東から来る」

 シモンが固唾をのんで懐中に忍ばせておいた拳銃を握る。

「東から……? てことは、私たちの後を追いかけてきた……?」

「かもしれんから、しばらく大人しくしてろ」

 無用心に頭を上げるマリアを押さえつけて、草むらに隠す。抗議するような目で睨んできたが、むしろ力いっぱい地面にキスさせる。

 鳥の寝静まった無音の街道の先のほうから、かすかに低いガソリンのエンジン音が響いてくる。非常にクリアに聞こえてくる。

 ――エンジン音はひとつか。斥候の可能性もあるが、これは……。

 数センチ頭を上げて、音の方向に目を凝らす。

 ほの暗い闇の向こうに小さくライトが見える。点だったそれが次第に線となり、束の大きさにまで近付いて来る。ライトの奥には小型のトラックが見えた。

「民生品のトラックだ。しかもプロイス製だな」

 シモンが一旦拳銃から手を離す。と同時にマリアが伸びをするかのように背すじを大きく逸らす。

「なーんだ、心配して損した!」

 おい馬鹿! まだ敵でないと決まったわけでは! と言いながら再び押さえつけようとするが、それをひらりとかわしてマリアは堂々と茂みを出る。アルフレッドが額に手を当て嘆息する目の前で、トラックは突然の歩行者に驚き急停車した。マリアが運転手席の真下へ歩み寄る。シモンはもう一度拳銃を手に取り息を殺して見守る。運転手席の窓がおりる。

 マリアは純粋な笑顔を浮かべ窓に向かって話しかけた。

Grüßグリュース Gottゴット(こんばんは)。ちょっといいかしら」

「……な、なんでしょう?」

 男二人の方からは姿が見えないが、どうやら少女の声らしい。

「私たち足がなくって、フロイデンヴァルトまで行きたいんだけど、乗せてってくれないかしら?」

 いや誰が乗せるか、と茂みに隠れつつため息をつく。その戦友は固唾をのんで耳をそばだてていた。

「あ、はい。いいですよ」

「……平和になったものだな、シモン」

 相棒は黙ってうなずいた。マリアが感謝の言葉を口にしながら二人を手招きする。軍服を着た戦車兵が茂みから立ち上がり歩み出る。運転席に座っているのは、十代後半くらいの女子であった。

「三人いるんですか?!」

 少女が叫ぶ。アルフレッドは頭を掻いてこたえる。

「この女は荷台でいいさ。俺たちは狭いところには慣れてるから、一つのシートをシェアするよ」

「ちょっと! なんで私が! 男二人で荷台行きなさいよ!」

「やだよ。荷物と一緒なんて」

「はあっ!?」

「いえあの、荷台はいっぱいなので、乗れないかと……」

 申し訳なさそうに少女が肩をすぼめる。

「なら仕方ない。三人でワンシートだ」

「さながらサーカスね」

「……細身でよかった」

 口々に言いながら曲芸ばりに体をねじり、無理やり全員が乗り込んだ。一体どうやったのだと目を疑う少女だが、アルフレッドの苦しげなうめき声にはっとすると、急いでトラックを発進させた。

 不審な三人組を乗せることへの不安など、目前の人間積み木を前にしては吹っ飛んでしまっていた。






「到着しました。フロイデンヴァルトです」

Dankeダンケ schönシェーン

 アルフレッドは辛うじて会釈すると、ほら降りた降りたと折り重なる二人を急かす。また器用に何とか抜け出すと、戦車長もドアに手をかけ降りようとする。が、少女の声が彼を引きとめた。

「フロイデンヴァルトには、どういったご用事でいらっしゃったのですか?」

 一瞬言いよどみ目が泳ぐ。が、少女の目を見てこうこたえた。

「尋ね人があってな。……まあ、これから探すんだが」

「ご親族……ではないのですね」

「そうだ。古い友人でな」

 別に詳細を伝える必要もないので、適当に返しお暇しようとする。

「あの、よろしければ何ですけど……」

 再び少女の声に呼び止められ、アルフレッドは振り向いた。

「もし今夜の宿がお決まりでないなら、うちにいらしてください」

「いや、それはありがたいが、三人で押しかけるわけには……」

 驚いて自重しようとするも、少女は微笑した。

「大丈夫です。実は家族で宿を営んでおりまして――今日はたぶん部屋も空きがありますから、まだお決まりでないならどうぞいらしてくださいな」

 ああ、そういうことならぜひ、と笑顔で応じる。

 こうして三人の無計画な訪問者は、数日ぶりにまともな飯と寝床にありつけることとなった。

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