第2話 嵐の前兆
翌朝、ベルーン中心部にある職業斡旋所の前に、むさ苦しい男たちの行列ができていた。通行人が一瞬驚いた顔をしてから、慌てて顔を伏せ脇を通り抜けていく。
8月15日。プロイス新政府は全ての退役軍人に対する年金支給を、翌月より停止することを突如発表した。
表向きは財政状態の極端な悪化が理由とされ、他にも官僚らの給与削減案などが検討されている旨が報道されていたが、年金全カットなどという過激な措置は前代未聞だ。要は、今回の発表は、政府が先の大戦を戦い抜き一線を退いた者たちに、のたれ死ねと言ったようなものなのだ。
その犠牲となった元軍人たちは、さっそく生真面目に職を探し始めつつ、裏の理由を察しはらわたが煮えくり返る思いであった。
「くそっ。連合軍め」
誰ともなく呟く。そして何百という淀んだ目が、昼間から路上でワインをラッパ飲みし、ベルーンのゴミ一つなかった街で立ちションする“元”敵国兵を睨みつける。
連合軍が軍事大国プロイスに対する勝利に酔いつつ、まだ残るしらふの部分で真剣にその脅威を見つめなおした結果、戦後処理のために作られたプロイス新政府に、今回の極端な決定を迫ったのだろう。誰もがそう察していた。だが、それでも敗戦国の惨めな民として苦境を受け入れなければならない、それが運命なのだと多くの者が感じていた。
「勝てば官軍だな」
一般市民の車に白昼堂々幼稚な落書きをする連合軍兵士を見て、呆れたようにフレッドが笑う。
「もっとも、彼らに官軍の器はないようだが」
シモンが黙ったままうなずく。
「……ガーリーの兵だ」
特に下品な集団を顎でさす。フレッドはちらと見やると、すぐさまえづいた。
「すまん。あまりの品のなさに吐きそうになった」
「……仕方あるまい。だが――」
シモンが不服そうな顔をする。
「……戦車砲があれば、吐き溜めごと消し飛ばしてやるのに」
「お前さんは撃ちたいだけだろう?」
「……撃つ快感と撃破する快感は別だ」
「生涯、理解したくないものだな、そんな快感は」
呆れたように肩をすくめる。列が少しだけ進む。夏の太陽はじりじりと湿っぽい男たちの背中を焼く。妙な蒸気でむせ返りそうだ。そしてその黒い霧の中から、やはり暗い目が見つめていた。勝ち誇り、分別を失った“戦勝国”の乱行を。
不意にシモンが呟く。
「……もしプロイスが勝っていたら、戦後、我々もパリスで同じことをしていたのだろうか」
アルフレッドは肩をすくめる。
「少なくとも第七装甲師団では断じて許さなかっただろう。軍役にない市民への暴力や財産の損壊は国際法で禁じられている。犯したものは誰であろうと、師団長の権限でもって即決裁判の後処刑だ。他の隊は知らんがな」
「……たしかに石人間こと
「はっ、石人間か。つくづくうまい洒落だな」
声を立てて笑うが、一斉に振り向く視線を感じ慌てて口を閉じる。
「連合軍指定一級戦犯は、街中で笑うのにも気を遣うな」
小声で自嘲する。
「……この世で最も公平な指揮官が、最も卑劣な犯罪者に仕立て上げられるのは道理でない」
珍しくシモンがむっとして返すが、フレッドは飄々と笑った。
「今の世界は連合軍の、ああいや、戦勝国様の道理で動いているからな。我々からすれば不思議なことも多かろうよ。――しかしお笑いだな。賞金首がここにいるのに、酔ってるおかげで見落とすとは」
ふらふらと道を歩く連合軍兵士を見やる。彼らの目は焦点が合っておらず、口を開けばビールの泡がはみ出していた。
「……そう言えば、アパートを訪ねてきたあの技師も、一級戦犯に指定されている」
「ほう? 何の容疑で?」
「……非人道的な実験に対する罪、と発表されている」
「なるほどな。で、真相は?」
「戦車開発にそんな実験は不要だろう」
だろうな、と呟いて笑う。それから眉をひそめた。
「待てよ。そしたら、あの女、自分が一級戦犯扱いされているのを知りながら、連合軍に捕らわれた弟を救い出したいと言ってたのか?」
「……知識がないと理解が遅れるな」
「言ってくれれば良かったんだ。しかし何だ、断って正解だったな」
「……」
シモンは無言で横顔を見つめるが、しばらくして目を逸らした。
列がまた少し進む。フレッドが目を細めてくすんだ太陽を見上げる。
「暑いな……。お、もう建物の角まできたか」
左に折れる列を見て、背をしゃんとする。しかし、無感情な声が、その背を溶かした。
「……職業斡旋所は、その角の二ブロック先だ」
「帰ろう。なあ?」
「また最後尾から並び直すことになる」
「雪の日に来れば数も減るだろう」
「数ヶ月無職は辛い」
「俺の分まで頼めないか」
「職業斡旋所に代返の制度はない。……もう諦めて並ぼう」
盛大にため息をつき、髪を掻きむしる。
「いっそ起業でもすればなあ。こんな列とはおさらばなんだが」
「……一級戦犯の名義で口座を作るのは難しそうだな」
「貸してくれ。戦友の頼みだ。じゃなきゃ元上官の命令だ」
「戦友としてなら聞いてもいい。……これに一緒に並んでくれたらな」
小さく嘆息し、黙って前を向く。角はすぐそこまで来ていた。
じりと進み、じりじりと進む。さらに待って、やっと前に動き角を曲がる。
曲がって、続く行列に目が眩んだそのとき、反対側の路地から女性の悲鳴が聞こえた。
はっとして男たちの目線が動く。
建物の影から、下卑た酔っ払いたちの笑い声と、困惑して喚き散らす一人の女性の叫び声が、白昼の大通りまで響いてくる。
「酔いどれどもはガーリー訛り。女性は生粋のプロイス語ベルーン訛り……。戦後とはいつもこうだ」
フレッドは呟くと、しれっと前に向き直る。それを戦友が小突く。
「何だ?」
シモンは無言で路地に目配せする。その瞳には強い意志と、闘志が燃えていた。
「冗談言え。ここで列を離れたら並び直しだ」
袖をぎゅっと掴む。
「それ、男にやられても嬉しくないぞ。と言うか大体だな、俺は一級戦犯に指定されてるんだぞ? そんなやつが行けるわけ……」
「離しなさい!!」
路地からまた別の声が轟いてくる。女性の、雷鳴のような怒声に、思わずフレッドは視線を戻した。
「この薄汚いガーリー兵め! 私たちは負けたけど、あんたたちの所有物じゃないのよ! 好き勝手やって! 分別はないの!?」
悲惨な格好をした女性が大通りに転がり出てくる。そして白昼を往来する人々の目線を感じ、しゃくりあげながら隣の路地へと逃げ去って行く。
「この玉無し野郎! 女子供にしか手を出さないのね! 戦勝国の軍人さんたちは、自分より強そうな人には喧嘩を売れないのかしら?」
「あの女愚かだな」
フレッドが毒づく。
「助けたかった女性は逃げた。すでに目的は達したのだから、すぐ自分も撤退すればよいものを……犬も噛まぬやつだ」
「しばしば怒りは理性を超える」
「だからこそ、即刻逃げるべきなんだ。あれだけ煽ったら――」
案の定、怒り狂ったガーリー兵のいななきが聞こえてくる。が、それでも女の声は堂々と響く。
「あらなーに? 私の服装が気になるの? この厚着が? コートが? でも、あなたたちは一生かかっても、私に手は届かないわ! ちょっと離しなさいよ、手届かないって言ってるでしょ! 大物に立ち向かう勇気のない玉無しには無理よ!」
街中が息を飲む。
「このマリア・フェルディナン・ピエヒを捕まえるなんてね!」
ガーリー兵たちの声が半狂乱になる。半年近く、行方知らずだった一級戦犯の名に。恐れと、興奮と、怒りで! 職探しの退役兵たちも驚愕の眼差しを影へ送り固唾を飲む。
「あの馬鹿女っ!」
突如、フレッドは列を抜け、走り出した。シモンも慌てて続く。建物の角から、道の反対側へ。二人は全力で走る。背の高い建物の狭間、薄暗い路地裏へ。へべれけに酔ったガーリー兵と、それを瓦礫の山の上に立って見下ろす、あの厚着女が見える。
酔っ払いを押し倒し、フレッドはマリアの手を強引にとる。
「馬鹿野郎! こっちだ!」
すっころびそうになるのを強引に引き寄せて走る。
「なになに一体!? あ、少将!? 突然なんなの!?」
「黙れ! 貴様なんぞと共倒れは御免なんだよ!」
「え、なに、何の話!?」
「いいから来い! くっちゃべってると舌を噛むぞ!」
路地を抜けて、大通りを横断してまた先の路地へ入る。千鳥足のガーリー兵が転びながら追いかけてくる。
「ひとまずアパートに隠れるぞ!」
シモンに叫ぶ。だが、マリアが口を挟む。
「あんなとこ駄目よ!」
「じゃあどこに逃げるってんだ?!」
「え、ならこっち!」
急にマリアがぐいと腕を引っ張る。お、おい! と抵抗しようとするも、体のバランスが崩れてそうもいかない。先行していたシモンが慌ててこっちへ駆けてくる。
「どこに行くってんだ?!」
「いいから来て! こっちなら大丈夫!」
シモンに目配せすると肩をすくめられた。フレッドは苦々しい顔をして一言吐き捨てた。
「
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