Skorpion

牧 鏡八

1章 怪物の産声

第1話 訪問者

 一発の爆弾が首都のバリケードを吹き飛ばし、七年に及ぶ総力戦が終わった。

 過酷な戦闘を国民に強いてきた独裁政権は、無条件降伏に応じる旨を発表すると、すぐさま主だった政府首脳人が自殺。なんとも無責任な幕引きは、敵でさえ鼻白むものであった。


 1945年春。プロイス降伏により、欧州の第二次世界戦争は終結した。


 そして、この物語は、それから数ヵ月経った夏。未だ若干の不満がくすぶる敗戦国の首都、ベルーン郊外より始まる。夏の日差しの中、異様なほど着込んだ女が人目を盗み、とあるアパートを訪ねてきた。

 力なく戸を叩く。せみの声にかき消されてしまいそうな弱々しさだ。中からの反応はない。女は汗をぬぐい、もう一度叩いてみる。あまりの暑さに目が眩み出す。そのとき、前のドアがようやっと開いた。

 女はひっしと戸を開けた腕を掴む。そして声を絞り出した。

「たすけて……お願い」

 やっと言えたと思うのも束の間、布の重みに耐えかねるように、家の中へと倒れこんだ。




 不思議な来訪者は数時間後、目を覚ました。むくりと起き上がったのに、二人の男が気付く。

「……フレッド」

 黒髪で細面な男が呟く。と、つまらなさそうに新聞を広げていた金髪の男が、ああと低く漏らした。

「夏のベルーンに厚着女倒れる――。どうだ、新聞の一面としては、この方がおもしろいんじゃないか」

 ソファに投げ出した朝刊一面には、戦後の不況っぷりがつらつらと連ねられていた。

「だいたい戦争が終われば不景気になるに決まってるだろう。今更言われなくても分かってることだ」

「……フレッド。起きた」

 ちらと見ると、きょろきょろする女の方を顎で指し示す。

「分かってるよ」

 頭をかいて、足を組みかえる。そして部屋を見回す女に声をかけた。

「おい。こっちだ」

 すうっと女の視線が吸い寄せられる。二人の青目が重なった。

「意識はあるのか?」

 女は目を瞬かせる。と、細い男が小声でささやく。

「……単純な質問のほうがいい」

「そうだな。じゃあ、名前を教えてくれ」

 すると、女の口がかすかに動く。

「うん? 聞こえん。もう一度頼む」

 そう言って、カサカサになった口元へ耳を寄せる。

「マ、マリア・フェル」

 そこで唐突にむせ返り、反射的に男は身を引く。

 細い男は台所へ走ると、ミネラルウォーターを取ってきてボトルごと渡す。女は奪うようにそれを受け取ると、頭をいっぱいまで倒し一気に飲み干した。

「声は出るか?」

 金髪の問いかけに首を縦に振った。

「それじゃあ続けるぞ。名前は?」

「マリア・フェルディナン・ピエヒ」

「ピエヒ……? 変わった苗字だな」

「聞いたことないかしら?」

「……たぶん。少なくとも知人には」

 黒髪の男が金髪を見やる。

「知人にじゃないわ」

 女が呆れたように肩をすくめる。

「私の名前自体、聞いたことあるでしょ?」

 金髪が困ったように黒髪を見返すと、今度は彼がため息をついた。

「……当然知っているものと思ったが」

「誰だ? どこかで会ったか?」

 顎をさすり、マリアと名乗る女性を見つめる。小柄で、目は青く、髪は金色、ポニーテールはきつねの尻尾のようだ。

「直接会ったことはないと思うわ。アルフレッド・マンシュタイン少将」

「――ほお。一応誰を訪ねたかは自覚していたのか」

「もちろんよ。そちらがシモン・ヴォル。名砲手として軍で知らぬものはいない、プロイス機甲部隊のエース。最後は精鋭プロイス陸軍第七装甲師団に所属し、連合軍の戦車少なくとも数百を鉄くずへと変えてきた男」

 シモンが感心したようにうなずく。すると、アルフレッドが苦笑する。

「最近寝言でよく言ってるんだよ、シモンは。どうせなら東部戦線でオロシーの重戦車も爆散させたかったって。あの戦線だけは経験していないからな」

「……寝言は知らんが、オロシーの戦車はよく燃えると聞く。一度、ツンドラで焚き火をやってみたいのだ」

 そう言うと硬直していた表情筋がはじめて和らぐ。その自然な微笑みにマリアはぞっとしつつ、今度は金髪の少将の方を向く。

「そして、あなたが、第七装甲師団を率い、西部戦線の覇者と呼ばれた戦車戦の天才マンシュタイン少将ね」

 思い切って賛辞を振る舞うが、一転して鼻を鳴らされた。

「はっ。何がだ。俺はもともと銀行員だったんだ。戦争さえなければ、今頃はデスクで仕事をしていたさ」

 そうして顔を背けてしまう。マリアははっとしてうつむくが、すぐにまた話し出す。

「ねえ少将。本当に私の名前、知らない?」

「随分自信満々な女だな。残念ながら俺は人の名前を覚えるのが苦手でね。五秒前に紹介された人間でも、忘れる時は忘れる。まして会ったこともない人間なんて分かるもんか」

「……五百年前の王の名前は覚えているのにな」

「歴史上の人物は別さ。好きだからすぐに覚えられる」

 マリアは嘆息して天井を仰いだ。

「なるほど。それでは、私を知らないのも道理ね」

「何?」

「少将。戦争は嫌い?」

「今更何を」

「分かってるわ。それなら、戦車は……?」

「残念ながら、戦史で一番好きな時代は近代だ。戦列歩兵の一斉射撃と銃剣突撃が一番興奮するね」

「あなたが連合王国に生まれなくて本当に良かったわ。無駄なロマンのために、機銃陣地に横隊突撃を繰り返すところだったもの」

「ああ、やったかもな」

 肩をすくめて自嘲気味に笑う。

「……で、私のこと、思い出した?」

「だから知らんと言ってるだろう。誰だ、お前さんは」

「……陸軍技術局戦車開発長官。マリア・F・ピエヒ中将」

 シモンがついに見るに見かねて助け舟を出す。少将はへっと間抜けな声をもらす。

「……我々が乗って戦っていた戦車を開発した、最高責任者だ。人呼んで、プロイス鉄騎団の聖母」

 マリア中将は胸を張って少将を見下ろした。アルフレッドは数度うなずくと、頭を掻き毟る。

「なるほど。これは失礼した。で、そんな方が、戦後を日陰に過ごす元装甲師団“エース”を訪問してくるとは、一体どんな事情で?」

「助けて欲しいの」

「端的に言ってくれないか」

「その、つまり……」

 唾を飲む。白く細い喉が大きく上下する。

「弟を、一緒に救い出して欲しいの!!」

 アルフレッドはゆっくりとソファにもたれかかり、腕を組む。

「弟?」

 眉をあげ、わざとらしく聞き返す。シモンがまたちらと見やる。

「ピエヒなんて苗字、知人にいないって言ったわよね。けど、嘘よ」

 フレッドはマリアを見つめたままため息をつく。

「あなたの部下にいたはずよ。同じ苗字の大隊指揮官が!」

「シモン」

「……?」

「お帰りだそうだ」

 マリアを手で指し示すと立ち上がり、ベランダへ向かう。

「そ、そんな……」

 愕然として小さくなっていく背中を見つめる。しかし、ふと立ち止まると、背中越しにこたえた。

「ピエヒなる指揮官が仮にいたのだとしても、今はもういない。生き残った部下が、どこでどう暮らしているのか、多少なりとも聞いている。が、ピエヒという名は久しく聞いていない。最後に聞いたのは……去年の晩秋。黒の森作戦のときだ」

「軍の公式記録では、たしかに戦死扱いだわ。二階級特進したのも聞いてる。けど、事実は違うのよ!」

「どうしてそう言える?」

「弟の部下が、そう教えてくれたの」

「……彼らの願望だろう」

「いいえ違うわ。その部下たちはね、弟の戦車に乗っていて、まさに黒の森作戦で乗機をやられてガーリー軍に囚われたの。そして、車長で指揮官だった私の弟以外、四人は解放されて戦後間もなくして帰ってきたのよ。それで教えてくれたの。中将の弟は生きています、生きてガーリー軍に利用されようとしていますって」

「利用?」

 思わず振り返る。

「ええ。私の弟は、利用されようとしているの。“敵軍”に!」

 しばらく立ち尽くしてから、嘆息してやはりベランダの方に向き直る。

「だから何だって言うんだ。あの“戦勝国”は今は敵ではない。ガーリーはその内、この国の頭越しに、オロシー連邦あたりとでも張り合うつもりだろう。そのために、プロイスの世界一流の装甲部隊の戦術を学び取りたいんじゃないか? 特別講師を招いて。結構。やればいいじゃないか。プロイスは勝ちそうな方にすり寄って、戦争特需でもうければいい。そうすれば、世界の経済大国という戦前の立場はすぐに取り返せるだろう。技師も工廠に戻って、どんな戦車なら売れるか考えるがいいさ。弟さんはこの国の未来のため、少なからぬ働きをするだろう。姉としてそれに乗っかってやれば、彼の苦労も報われるというものだ」

「呆れた。元部下が敵国に囚われてるのを知って、出てくる感想が金儲けの話なの? よく部下がついてきたわね」

「俺なら死んだ仲間の話ばかりするしみったれた上官はお断りだね。それに俺の装甲部隊は人徳で成り立っていたわけじゃない。軍紀と賞罰でできていた。それがプロイス軍の伝統的なマニュアルだからな」

 シモンがかすかに顔を上げて戦友の背中を見やる。が、その視線をさえぎるようにマリア女史が立ち上がった。

「弟は死んでないわ! まだ生きてるのよ!」

「国は死んだとしている。あなたの発言を、公式の見解より正しいと思えるほどの信頼関係ではまだなかろう」

 冷たく言い捨てると、網戸を引きあけベランダに出る。マリアは悔しそうに下唇を噛むと一目散に出て行ってしまった。シモンが案ずるように立ち消える影を見つめる。それからベランダの方を振り向く。アルフレッドは震える手を隠すように手すりにもたれ、外を眺めていた。

 激しい市街戦が繰り広げられた首都は、未だに道路に幾つも穴が空き、原型の想像がつかない瓦礫が散乱している。空がいくら晴れ上がろうとも、瓦礫の山が輝くことはない。全ては、道に穿たれた着弾穴の底のように暗く沈んでいる。

「希望を持ってはならん」

 呟きが夏風に乗って部屋へ入り込む。

「希望を持つから、絶望するんだ……」

 室内から、シモンが神妙な面持ちでその背中を見守っている。

 そのとき不意にまた戸が叩かれ、シモンは足早に駆け寄る。が、ドアを開けると馴染みの郵便屋で、少し肩を落としながら二通の親展文書を受け取った。居間に戻るとソファに腰かけ、さっそく中を確認する。


「……エ」


 珍しく声が独りでに漏れる。それからもう一通、戦友に届いた封筒が同じものであるのを確認すると、かすかに震えながらベランダに出る。

「どうした?」

「……これ。フレッド宛にも届いている」

「うん?」

 ぞんざいに手紙を受け取ると、しばし黙って流し読む。しかし、すぐに目を見開き、背を正してもう一度頭から丁寧に読み直す。……それから手紙を相棒に押しつけるように返すと、前髪をかきあげ額をさすった。

「次から次へと! 嘘だろ……」

 風が吹き、ベランダに枯葉が舞い込んでくる。

「軍からの年金支給が……停止!?」

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