水底の王国

砂原さばく

雨が降り続いていて、そして、止まなかった。




夏の手前、いつもの湿った季節がこの町にも訪れて、灰色の雲が水滴を連れてきた。降り始めた雨は、静かになったりうるさくなったり、まばらになったり激しくなったりしたけれど、ただの一度も止まなかった。人々は毎日傘をさして出かけて、傘をさして帰ってきた。アスファルトはいつまでも黒く光っていて、乾くことはなかった。水田の稲はおぼれそうなほどで、生き物はみんな息をひそめているかのようだった。日に日に憂鬱さを増していくため息が波のように広がり、やがてその声もくぐもって聞こえなくなっていった。空気が重たくなりすぎて、僕らの立てる音はあまり遠くまでいけなくなってしまったのだった。


そうして、ある朝目覚めると、あたりは雨で埋め尽くされていた。もう何の音も聞こえなかった。ひとまず顔を洗おうと蛇口をひねって、それが無意味なことを知る。たまりにたまった雨水の中にいるのだから、蛇口から水が出ているのかいないのかもわからないのだ。僕は部屋の中で顔をこすって、何度かまばたきをした。それでじゅうぶんだった。タオルで顔をぬぐおうとして、やめた。


洗いたてのシャツに着替えて、昨日買ったばかりのパンを焼いた。不思議なことに、シャツが肌にはりついて気持ち悪くなることもなかったし、バターは水の中に溶けて流れていったりしなかった。トーストはきちんとさくさくしていて、オレンジジュースも行儀よくコップの中におさまっていた。


どうしようもない高揚感に動かされて、いつもよりずっと早く家を出る。見上げると、はるか頭上の水面に雨が落ちていた。いつものように歩き出そうとして、ふと泳いでみようかという考えが頭をよぎる。軽くジャンプするように地面を蹴ると、体はふわりと浮いた。思わずにこりとして、手で大きく水をかく。子どものとき、スイミングスクールに通っていてよかったと思った。そのまま上へ向かって、いつもの頭の位置よりもすこし高い場所を泳ぎはじめた。


泳いでいる人はあまりいなかった。世界が雨で埋め尽くされてしまっていることに、人々は気付いていないらしい。地面を行き交う傘の群れがそれを裏付けている。ときおり、僕と同じように水をかきわける人がいて、僕らはすれ違うたびににこりと笑った。ピンク色のネクタイを締めたスーツ姿のおじさんが、左手にしっかり鞄を握って右手で僕に手を振りながら、バタ足で通り過ぎていった。病院のそばの電話ボックスに、どうやったのかタコが入り込んでいる。


たどり着いた校舎は、光を反射して淡く青色に光っている。正面玄関に回り込もうとして、そんな必要は一切ないことに気づいた僕は、三階の教室の窓へ直接向かった。校庭の花壇に植えられた色とりどりの花は、ゆらめいて南国のサンゴ礁のように見えた。トラックを走る陸上部員たちの近くを、赤や黄色や黒の魚が一緒になって泳いでいる。彼らはどっちもすこし戸惑っているようで、どっちもすこし楽しそうだ。魚に楽しいという感情があるかどうかは知らないけれど。


真面目な顔をした教師たちは、どうやら学校が水底に沈んでしまったことに気づいていない側だ。いつもより玄関を通る生徒の数が少ないことに首をかしげている体育の先生や、大量のプリントがうまく積めずに困っている古文の先生がいた。廊下を足早に歩く化学の先生の長い髪と白衣がはためいていて、まだ歩いているなんてばかばかしい、と考えそうになったとき、彼女の唇がうっすらカーブを描いているのを見て思い直した。気づいていて歩いているなら、それは彼女なりの正しさなのだ。


視界の端で、クラスメイトが教室から手を振っている。おーい、と呼んでいるその声は、僕の耳には届かないけれど、たしかに僕はそれを受け取ることができた。開け放した四角い窓は大きな水槽のようで、なんだかおかしかった。チャイムの鳴らない学校で、時計の針を魚たちがおもちゃにしていて、ありえない時間が示されている。さいこうのきぶんだ、とつぶやいた声は、ただの泡になって水中を上っていった。




水面はもうずっと遠くなってしまって、その上の様子をうかがい知ることもできない。それでも僕たちは、雨が降り続いて、そして、止まないことに気づいていた。

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水底の王国 砂原さばく @saharasabaku

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