病 -やまい-

翳目

病 -やまい-



 庭の紫陽花の妙な赤色が目について仕方のない日だった。市村は普段は見向きもしない外の風景を観るため、何度となく居間の窓際に立っていた。……マグカップ一杯の珈琲を片手に。

 雨で煙る庭は色彩というものに乏しく、ただただ暗い緑青をたたえる濡れた木々の葉と、その間隙を埋める灰褐色の塀、向かいの家の壁、瓦、そして空。照明を落とした午后の薄暗い部屋よりも窓際の画面は明るく、硝子を隔てて視界を通過する雨粒の反射はずいぶんと眩しく映る。けれども、数日前まで不安げな薄青の花弁だった庭の紫陽花がいつのまにか殴られたような赤へその色を変化させていることに気付くと、市村はそれがどうにも気にかかって仕方がないのだった。

 ふと、動かない塀の向こうを人間の頭部が横切っていくのが見えた。俯き気味の男だったが、雨にも関わらず傘をさしていない。長身のため目元が塀より上に出ている。……どこか見覚がある。市村がそう思ううちに男は視界の端へと消え、間もなく玄関のほうから呼び鈴が鳴った。

 市村は珈琲を手にしたまま玄関へ向かった。今日は休診日である。よしんば曜日を間違った患者がいたとして、離れの自宅の玄関にまで押しかけてくることはなかろう。市村が廊下を抜け草履をつっかけるまでに呼び鈴はもう一度鳴った。はい、と返事をする間に更にもう一度鳴る。その忙しない雰囲気に眉を顰めながら、市村はやや乱雑な仕草で扉を開けた。

 目の前に立っていたのは、先刻塀の上を横切っていった目元の男だった。日焼けした肌と短い髪は雨でしっとりと濡れている。洗いざらしの襯衣に着古して萎えたジーンズは長身な男の体格に馴染んでいるが、おそらく外行きの格好ではない。

「すこし、雨宿りをさせてほしい」

 市村はその見覚えのある顔を記憶から引き出すために、出会いがしらの適当な挨拶を口にしそこなった。それで、沈黙した市村の顔と彼が手にした一杯の珈琲へ順に視線を走らせた男のほうが、先に口を開くことになった。

「……構わないけれど、」

 唐突な申し出に二つ返事で答えながら、市村はこの男が高校時代のクラスメイトのTであることを思い出した。特別仲が良かったわけではない。高校三年間で同じクラスと同じ部活に所属していたという程度で、その交流は卒業と共に途絶えていた。同窓会では顔を合わせたかもしれないが、記憶に残るような会話はしなかっただろう。六月の梅雨時に傘も持たず、行きずりに他人の家で雨宿りなど奇妙なことに違いなかったが、素性が分かったことで市村は幾らか警戒を解いた。

 市村が退くと、Tは扉の隙間から躰を滑り込ませる。そして、廊下の板張りのうえへ上がった市村のほうを向いたまま、後ろ手に素早く扉を閉めた。

「……俺のことを覚えているか?」

 Tは親しみのこもっていない声で尋ねる。市村はすこし温くなった珈琲に口つけながら、うんと曖昧に声を出した。

「鷹藤。高二と高三で同じクラスだった。……部活も同じ。尤も、俺はハードルでおまえは高跳びだったから、あまり印象はないな。成績は俺のほうが良かった、」

「実は、警察に追われている、」

 Tは市村の言葉には何の反応も示さず、淡々とした口調で云った。玄関の暗がりと逆行でTの表情はほとんど見えなかったが、照明を付ければ目を傷めるために市村はそのまま立ち尽くしていた。職業柄Tの言葉が冗談でなくとも、それほど衝撃を受けなかった。目の前の男が一体どのような罪を犯したのだろうかということを、断片的な印象から思い描いてみる程度の余裕があった。

「どうして、」

「知人が立て続けに死んでるんだ。二日前にはついに恋人が死んだ。みんな自殺に近い。だが、それがかえって妙だと云うんで、俺が容疑者ということになった」

 市村はもう一口珈琲を飲んだ。Tの口調は淡々としているが、わずかな身振りには困り果てた雰囲気がある。一度解いた警戒心が再び蘇ることはなく、それどころか市村は目の前の男を憐れにさえ思った。T自身が誤魔化しもせずに事件の容疑者であることを告白したからなのか、むしろそれが市村には彼の潔白の証明のように思えたのだ。

「……それで、俺に何ができると思ってここに来たんだい」

「別に。ほんとうにただの雨宿りだ」

 Tは肩を竦めた。先刻から外を覆う雨音は、しばらくやみそうにはない。暗い玄関に佇んだまま動かないTに向かって、市村は靴を脱ぐように促した。




 * * *




「医者の自宅の地下に部屋があるなんて、ミステリー作家が喜びそうな設定だな」

 扉の先に続く仄暗い階段を見たTは、そう云って微かに笑った。先刻、市村を訪ねてきたときよりも張り詰めた表情をしていた彼は、ここにきて初めて笑顔を見せたのだった。

「……ただの物置だよ。父や祖父の代の古い医療器具なんかが置いてあるだけさ、」

「博物館、」

「そうかもしれない、」

 応接用に使われていただろう古い睡椅の掛け布を取り去って、市村はそこに座るようTを促した。自分は事務用の机の傍にあったパイプ椅子へと腰を下ろす。睡椅に深く腰掛けたTは、長い溜息をついた。市村が彼を匿う気のあることを告げたときも、Tはどこか両面的な態度で応じた。それは、自身の潔白という揺るぎない事実のある一方で、今の状況が彼を連続殺人の犯人へと誘導してもいるということへの葛藤なのだろう。

「……おまえは俺がなぜいきなり容疑者になって、しかもそんななか警察から逃げようと考えたのか不思議に思っているだろうが、実のところはそれも、かなりどうしようもない事実が関わってるせいだ、……悪いことに、死んでいった知人はみんな死ぬ一月以内の間に俺と会っているんだよ。恋人を含めて四人、けっこう親しい人間ばかりだ、」

 市村はTの声を聞きながらその話の内容を手元の手帖へと書き写した。それは、彼が職業上話し相手の言葉を書き留めることを習慣づけていたという以上に理由のあるものではなかったが、仮に最悪の事態が起こってTが窮地に立たされることになったとき、何か役に立つのかもしれないという漠然とした予感もあった。

「自殺に見せかけた他殺というのはよく聞くけれど、どちらだったとしても、鷹藤から見て死んだ四人にはなにか共通点があったのか、……俺はあまり死に近い人間を見る機会がないが、直感で分かるものがあると祖父や父は云っていたような気がする」

 Tは小さく、どうだろうなと呟いて、じっと市村を見つめた。何かを思い出そうとして、形の良い瞳が細められる。市村はその目の動きを見ながら、Tが容疑者とされる不可解さを思った。彼の周囲で人が連続して死ぬとすれば、Tは容疑者というより次の被害者である可能性が高いはずだ。

「……なんとなく、久々にゆっくり話をした印象がある、……恋人以外は。それだけだ」

「つまり、それぞれの話の内容に脈絡はないんだな、」

 Tは短く肯定すると、しばらくどこでもない宙を見つめた。それから、市村の顔へと視線を戻す。

「……記録したいなら、思い出せるだけ会話の内容を再現してもいい」

「……じゃあ、念のため」

 市村は微笑んで万年筆を持ちなおした。Tも幾らか穏やかな表情をしている。依然として今の状況は、ともすれば世間の余計な誤解を招きかねず、Tにとっては決して気の休まるものではないと理解している。だが、市村は(あるいはTも)もしも二人だけの手でこの奇妙な連続不審死事件の全貌を暴くことができたなら、どれほど刺激的で愉快なのだろうと想像を巡らす余裕を持ち始めてもいた。非日常的な出来事が、少年の時分によく思い描いたような興奮を微かに反芻させるのかもしれなかった。

「一人目は職場の元同僚。三年前に向こうが転職してから疎遠だったところを、一月前に偶然再会して一緒に酒を飲んだ。もともと仲が良い男だったから、ずいぶん長いこと話込んだのを覚えている。……話の内容は、互いの近況のこと、特に仕事の話が多かった。それ以外では特に接点のない関係だったから。今の仕事がどれだけ好きかってことを、熱弁してくれて面白かったな、……」

 Tは知人たちとの会話の内容をかなり正確に記憶していた。市村はそれらの話の詳細を可能な限り全て書き留めていったため、彼の手帖の自由欄は早くも数ページが文字で埋まりつつあった。

「夕飯はどうする。惣菜か何か買ってくるけど、」

「おまえが煩わしくないようにしてくれ、」

 Tが日中も外を出歩けないことを考えて、市村は夕飯のための惣菜に加えて保存の効くような食糧をまとめて用意した。いつまで彼を匿うかということを具体的に考えてはいなかったが、Tの提案で、当面は警察がTを追って市村を訪ねたときまでという取り決めになった。市村はこれまでどおり、水曜の休診日以外は仕事のため自宅の隣りに立つ小さな建物に出向き、日中は自宅へは戻らなかった。家族もなく人との交流は仕事上の少数に限られていたが、彼等に不審がられることのないよう細心の注意を払うことは怠らなかった。

 Tは風呂や用を足すとき以外は地下から出てくることもなかった。彼がどのようにして現状と折り合いをつけているのか市村は知る由もないが、夜になって市村が彼のもとを訪ねると、決まって古いソファの上で何かを深く思案していた。その思案の内容は毎晩市村の手によって彼の手帖へと書き留められている。だが、些細な記憶の集積が出来上がっていく一方で、Tの周囲で起きたこの不可解な連続死の原因を突き止める手掛かりはどこにもないように思えた。

 地方紙にはTと思しき男の失踪と警察が彼の行方を追っている旨が掲載されるようになっていた。




 * * *




 午前の診察を終え昼食の弁当を食べ終えた市村は、タブレットケースから取り出した白い錠剤を飲もうとして、偶然傍を通りかかった若い看護師に見つかった。

「このところ毎日のように飲んでいますけど、どこか具合でも、」

 彼女は特別に心配している素振りではなかったが、周囲が目に留めるだろうことは市村も自覚していたので、曖昧な返事と共に白い錠剤を水で流し込んだ。

「軽い頭痛。……寝不足かな、」

 Tを匿って一週間以上が過ぎたが、二人の危惧とは裏腹に警察が市村の自宅や病院を訪ねてくることはなかった。地方紙もあれ以来新しい情報はなく、どうやら次の死人は出ていないらしい。Tとの半同居生活にも慣れ始めていた。だが、夜な夜な、地下室で二人この奇妙な事件のことや過去の思い出について語り合うことに楽しみを見出してしまったせいか、市村は慢性的な頭痛に悩まされるようになった。軽い鎮痛剤で治まるため、最初はそれほど気に留めていなかった。しかし、気付けば毎日のように薬を服用しているし、それが周囲の目につくほどであるということを市村自身も自覚しなければならなかった。

「……顔色が悪いんじゃないか、」

 地下室へ降りると、睡椅に寝そべっていたTは市村の顔を見てそう云った。

「すこし頭痛がする程度なんだが。……そんなに酷いか?」

 市村はいつもの位置に腰を下ろし、睡椅へ座りなおすTへ向かって苦笑を浮かべた。Tは思いつめた表情で市村の顔を見つめ、しばらく黙り込む。彼が何を思案しているか分からない市村は、その視線を受け止めながら彼の言葉を待った。

「……ストレス性なら心当たりしかないな。医者に云うのは野暮かもしれないが、きちんと診てもらうべきなんじゃないか、」

「ストレスか。どうしてそんなことを気にするんだ、」

 市村の問いに、Tは一瞬何かを云い淀んだ。だがすぐに、険しい表情のまま小さく息を吐く。

「……別に。ただ、死ぬ前に恋人が似たようなことを云っていた気がしたんだよ。頭痛が酷いんで仕事を休んで、」

 Tはそこで一度言葉を切り、目の辺りを右手で軽く押さえた。彼が何かよからぬ思い込みに駆られているように感じた市村は、思わず鷹藤、とか細い声を発していた。顔を上げたTの、鋭く整った瞳が市村を捉える。それから、重々しい声が市村の耳に届いた。

「死ぬなよ、市村。……おまえまで死んだら、俺はいよいよ自分を死神か何かだと思わなきゃならない、」

 Tは無理やり冗談を云ったのかもしれない。しかし、市村は彼の双眸から目を離せなくなっていた。Tの射貫くような目付きは、市村の思考を得体の知れない不安のようなもので阻んでしまうように思われた。昼間飲んだ薬が切れたのか、市村は脳裏に走る鈍痛にわずかに顔をしかめた。




 * * *




 Tがやって来てから二度目の水曜日は、同じように朝から雨が降っていた。市村は一杯の珈琲を片手に、自身がずいぶん熱心に記録してきたTの言葉を冒頭から読み返していた。本人はおそらくまだ地下室で眠っているだろう。規則正しい生活のリズムを崩さない市村に対して、Tはそれほど厳密な体内時計を持ってはいないらしい。

 慢性的な頭痛は相変わらず続いており、時には鎮痛剤が効かない日もあったが、幸いなことに今朝はそうした気配はなく、市村は久々に体調のよい休日を味わっていた。

 ふと手帖の文字から顔を上げると、雨に煙る庭の風景が目に入る。色彩に乏しい緑蔭を背景に、紫陽花が不安定な青色の花を咲かせている。市村はその群生する花を眺め、Tと交わした言葉を脈絡もなく反芻していた。彼の記憶によれば高校時代、いつも成績では上位争いをしていた市村は一度だけTに順位を逆転されたことがあったという。部活での成績はTのほうが群を抜いて良かった。直接に競うことはなかったとはいえ、Tが高跳びで全国大会にまで出場したのに比べれば、市村はほとんど趣味の領域でハードル走に向き合っていたに過ぎない。顧問にそれが知れていたのかは定かでないが、体よく放任されていたような気もする。

 Tの知人の二人目はどうやら同じ高校に通っていた同級生のようだが、市村のほうでは印象がはっきりと定まらなかった。彼らは同じ大学に進学したことから親しくなり、頻繁に顔を合わせていたという。死ぬ前にTと話していたのは、家族のことだ。彼の家庭環境が複雑なこともあり、Tはしばしば相談に乗っていたという。

 三人目は会社の後輩で、馬の合わない上司の愚痴を長いこと聞かされたと苦笑交じりにTは云った。彼の場合はそこに幾らか恋愛相談も加わっており、話はずいぶんと堂々巡りをしたようだ。四人目の犠牲者である恋人は、最近Tと同棲を始めたばかりだった。

 警察はTの失踪をどう捉えているだろう。連続殺人犯の逃亡か、あるいは次の犠牲者か。どちらの可能性も十分に考えられる。Tは自身が容疑者になっていることを知っている。ということは、一度は警察と接触したのだろうか。

 死んだ四人の共通点とは、一体何だろう。市村は珈琲を一口だけ飲んだ。彼の思考は、最終的にはいつもそこに辿り着く。全員の死が一見自殺に見えるということ以外に、共通点と云えるようなものはないといってよかった。……一月以内にTと会っているということを除いて。だが、Tと彼等の会話のなかに全員が何か共通の話題を持っているわけでもないのである。仕事の話、家族のこと、職場の人間関係、恋愛相談、日常的な会話の応酬……何も奇妙ではなかった。不穏な気配などどこにもないように思えた。

 市村は立ち上がって庭に面した硝子窓の前に佇んだ。

 紫陽花の花の色は土の成分によって決まる。土壌のアルカリ性が強ければ赤に、酸性が強ければ青に。だがそれも、散り際には皆同様に赤みを強く増していくものなのだという。眼前に群生する青い花弁も、梅雨明けの頃には目に痛い赤色を成しているのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、市村は地下室へ足を向けた。普段は見向きもしない庭の色彩が妙に気になって、早くその場を離れたいような気がしていたのだ。

「……どうした、」

 階段を降りきったところで市村が急に立ち止まったので、Tは怪訝そうに彼のほうを見た。市村は指先で着ていた襯衣の胸元を抓みながら、Tの目の前に腰を下ろす。

「妙な染みができてる。……インクか何かを触ったかな、」

 指先の染みからTのほうへと視線を上げると、Tはなぜか不可解な表情を浮かべて市村の顔を凝視していた。彼のその目が時折、異様に光っているように見える。自然光のないこの地下室で彼の目を反射するほどの強い光は存在しないはずだが。

「血の間違いだろう、市村。……鼻血が出てるぜ、」

 やがて、Tはどこか狼狽えた声でそう云った。それを聞いた市村も慌てて自身の口の辺りを手で覆った。まったく気付かなかったのである。何しろ、襯衣についた青いインクの染みのほうに気をとられていた。

「拭く物取ってくる、」

 Tが立ち上がり、急いた素振りで階段を上がっていく。その後姿を見ながら、市村は視界に入る執拗な青い染みのことを考えた。庭の紫陽花の花弁とよく似た色をしている。鼻の奥で血の臭いが充満し、顔が熱っぽい。頭痛がするようだった。

 Tが戻ってくるまでの時間がやけに長く感じられた。市村は唐突な不安感から鼻を押さえた自分の手元を見ないように努めた。暗がりにいるせいか、手についた血液がどうも紫陽花の花弁のような青い染みに見えて仕方がなかった。

 階段を早足に降りてくる足音がする。

 市村は、先刻異様に光っていたTの瞳を思い出した。それから、もはや今更なことだが、なぜTはこの暗い地下室のなかで電灯をつけることなく生活しているのだろうと疑問に思った。

 Tはおそらくトイレから取ってきたのか、使いかけのトイレットペーパーを片手に戻ってきた。そしてぼんやりと座っている市村のほうへ、それを押し付ける。

「……鷹藤、この部屋、暗いと思わないか、」

 青い染みに見えて仕方のない血まみれの紙を丸めながら市村が問うと、Tは不審そうな顔をして彼を見下ろした。

「おまえだって平気そうにしているじゃないか、」

「俺はもともと視覚障害で、普通より暗くないとよく見えないんだ、」

 市村を見下ろすTの双眸はやはり異様に光っていた。その瞳に見つめられると、脳の奥のほうで何かがぎゅっと委縮する。それが痛みの信号となって、市村の神経を刺激するのだ。

「次に死ぬのは俺かもしれないよ、鷹藤」

 市村は薄ら笑いを浮かべて目の前に立つ尽くしている男を見上げた。Tは形のよい顔を歪めて、冗談を云うなと呻く。

「たかが鼻血だろう。……それに、他の四人とおまえは何の共通点もない。俺も何もしていない、」

「確かに、何もしていない。……だが、共通点はあるよ、」

「……どんな」

「自分で云ったんじゃないか、」

 市村は思わず短い笑い声を立てた。それを聞いたTはますます表情を険しくする。市村は初めてTが訪ねてきたときと同じように、やはり彼のことを憐れだと思った。

「恋人は服毒自殺だと、警察に云われたんじゃないか。……だから鷹藤は何もしていない。ただ、久々に時間を忘れてゆっくり話をしただけだ、死んだ四人と、それから俺と。そして俺は、……俺たちは、そのとき、あんたの目にじっくりと見つめられていたよな。……尤も、俺だってあんたの目をじっと見ていたわけだが、」

 Tの表情はもはや市村にははっきりとは見えなくなっていたが、だらりと体側に垂らされた腕が、不安と緊迫を醸し出しているのは十分に感じられた。

「どういうことだ、」

「……あんたの目には、毒がある」

 今はそれだけしか云えないんだ、と呟くように市村が付け加えたのと、Tが諦めたように睡椅へ躰を沈めたのがほとんど同時だった。

「……どうしろって云うんだ、」

「サングラスをかけるなんてのは、」

「そうじゃない!」

 Tがいきなり声を荒げるので、市村は思わず組んでいた膝を震わせた。

「……おまえのことだよ、市村。おまえが死なないようにするには、どうしたらいい? おまえが死んだら俺はどうすればいいんだ、……誰も、そんな突拍子もない話は信じない」

「そんなことは俺には分からない、……分からないよ。俺にはどうしようもないことだから」

 Tは固く組み合わせた指の上に、額を押し付けるようにして俯いている。もしかして、泣いているのか? そう思ったが、市村はそれ以上言葉を発するより前に、ぼんやりとした思考の海に攫われていた。

 そういえば初めてTが現れた雨の日、庭の紫陽花が目について仕方がなかった。色彩のない庭に群生する赤色の花弁が気になって仕方がなかったのだ。

 梅雨明けはもう近かったのだろうか。それならばあの花は、どこへ散ってしまったのだろう。そしてTは、これからどこへ行くつもりなのだろう、と。



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