第5話 脱出
滝のようなスコールにさらされている上、皆の心(主に恐怖心だったが)に訴えかける演説にも関わらず、しばらくは誰もナイフを取ろうとはしなかった。今や、ナイフを取る気のない者はこの木陰に入ってくるなと言わんばかりの空気がそこに充満していたからだ。
「おい、この根性無しどもめ。お前らはケツの穴にダイナマイトぶち込まれるまで自分のことも決められないのか」
その官軍の一言で白ウサギが動いた。彼は官軍が来てから首尾一貫してその主張に共感を抱いていたし、それに、母親の恨みも根深くあった。白ウサギの心の中にも、他の大勢のウサギと同じく『ライオンといえど子供だからかわいそう』という感情は、確かに少しあったのだ。だがよく思い返してみれば、ライオンは子供だからといって見逃してくれたことがあっただろうか。
もちろんそんなことは一切なかったし、これからも永遠にないことだろう。
白ウサギは黙って草の上のナイフを掴み上げると、雌ライオンの死骸の側に群がる子ライオンに向かってそれを振り下ろした。
子ライオンは最初の一撃では死ななかった。白ウサギはナイフを引き抜くと、また振り下ろした。何回も繰り返しているうち、帰り血でだんだんと赤ウサギになってきた。
それでも雨のカーテンにいるウサギ達は参加しようとはしない。官軍の見立てでは、もう何羽かのウサギの気持ちはこちらに傾いているはずだったし、ナイフを掴んでいるはずだった。だが、まだもうひと押しが足りない。しかし、それは意外にも白ウサギの、雷のように突然発した一言がやってくれた。
「俺の母さんを返せ! このクソ猫供!」
子供、恋人、同じく母親を殺されたウサギたちが、この12羽の中にもいた。
彼らも今までのこと――愛する者を奪われても穴倉の中で空腹に耐えていた時のこと――を思い出すと、雨のカーテンから木陰に入り込んだ。そして、ナイフをひっつかむと、官軍が解剖して空っぽになった子ライオンを蹴飛ばしてまだ何匹かいる生き残りの方に近づくと――いっせいにナイフを振り下ろした。その様子は、ナイフを持つ全員が一つの意思から発せられた命令によって動いているようだった。
長老は、ナイフが雷の光を反射してゲラゲラ笑っているさまを、ただ眺めることしかできないでいた。これでもう後戻りはできまい。あとはウサギとライオン、どちらかがサバンナの草の下に埋もれるまで殺戮は続くだろう。雨のあとに立っているのは誰だ? 雲が晴れた後、輝く太陽を拝めるのは一体どちらだ?
「帰りましょう、長老」
後ろから灰色のウサギが声をかけてきた。長老は黙ってうなずきながら、まだ自分が若かったときに官軍の父と一緒にライオンと戦ったときのことを思い出していた。あの時は、銃などなかった。自分たちで落とし穴を掘って、そこに落ちたライオンに石を落とす作戦という、今から思えば自らの墓を自ら掘っているとしか思えない作戦で戦ったものだ。
もし、自分が官軍と同じくらい若かったのなら――もしかしたら、自分だってナイフを拾って参加したかもしれない。だが、それには長老は年をとり過ぎていた。それに、敗戦の記憶は長老の脳に昨日見た夢より正確に焼き付いている。あのときは、今死体となっているライオンの代わりに、仲間のウサギが無残な姿で転がっていただけだった。
きっと、今は調子に乗ってナイフを振るっている者も、すぐに同じ目に遇うだろう。
なぜなら、それが自然界の掟だからだ。ウサギにはウサギの持ち分がある。それだけは越えようがないというのが、あの敗戦から学んだことだった。
長老たちは降りしきる雨の中を、とぼとぼと家路についた。
真っ暗な闇の中。息苦しかったが、何とか向こうで微かに点滅する光の方へ這い出ていけそうだった。母親の死体の下敷きになった子ライオンは、外から微かに聞こえる音によって外で何が行われているのかを悟っていた。もう、兄弟姉妹が生きていないであろうことも、この場から一刻も早く逃げ出さなくてはならないことも。そして、今なら――外で大雨が降っている今なら、何とかウサギどもを巻いて逃げ切る可能性が残されていることも。
ようやく、鼻先が外の空気に触れた。視界の上半分は母親の死体で真黒に隠されているが、下半分にはいつも見慣れた木の根っこがあった。ここは、子ライオンたちにとっては一家団欒の食卓だった。ここで母親が持ってきた獲物を食べた。みんな先を争って食べた。食べ終わったら、母親のライオンは体についた血をきれいになめて毛づくろいしてくれた。ここで昼寝もしたし、これからの家族と過ごす時間は、夕焼けに染まるサバンナの草原と同じく永遠に続くものと思っていた。
だが、今や一家団欒の思い出の場所は、雷の青白い光に照らされて全く別の場所に思えた。子ライオンにはそれが具体的にどんな場所なのか分からなかったが、人間ならきっと墓場と答えるに違いない。それも、B級ホラー映画に出てくるようなやつだ。視界の下半分が青白く照らされるたびに、木の根にナイフを振り下ろすウサギ達の、長く伸びた影が映った。
そのナイフが兄弟姉妹たちに突き下ろされる度に、肉を切り裂く湿った炸裂音がする。だが最後に残った子ライオンにとって見れば、これは逃げのびるチャンスだった。こうしてウサギ達が殺戮に夢中になっている今なら、何とかサバンナに逃げ切ることができるだろう。しかも、ウサギの鋭敏な聴覚はこのスコールの雨音で完全に役に立たなくなっているはずだ。逃げきるチャンスは今しかない。ここで逃げなければ、遅かれ早かれ見つかって殺されてしまう。視界の上半分に映っている黒い塊になった、母のように。
闇の中で呼吸を整えると、子ライオンは勇気を振り絞って母親の死体の下から這い出した。
茶色のウサギは急いで体に巻きついた、忌まわしい赤い蛇のようなライオンの腸を振りほどいた。毒々しい赤色の腸は触るのも嫌だったが、触らなければどうにもならない。まさに断腸の思いでその腸を思い切って掴むと、最初に首を振りほどき、次に腹に巻きついたのを一気に引っ張ると――スコールの中へ放り投げた。それでも、体のあちこちに腸が巻きついた跡が血のりになってべっとりと残っている。
木の下では、ナイフを持って半狂乱状態になった仲間たちが一斉にナイフを子ライオンに突き立てていた。長老たちは――見渡したがもう視界からは消えていた。聴覚で探そうとしたが、この雨の中ではウサギの鋭い聴覚を持ってしても長老たちの足音を聞きわけることはすでに不可能だった。もしかしたら、もう巣穴に戻ったのかもしれない。
茶色のウサギは、一瞬自分ももう巣穴に帰ろうかと思った。正直に言うと、茶色ウサギには大切な者を殺されたりといった、官軍や白ウサギほどの恨みはなかった。もちろん、今までの人生でライオンに追いかけられたことはあるから、その分の仕返しはしてやりたい――しかし、だからと言って別に自分が進んでそこに参加する気はあまり起きなかった。それに、人数は十分足りているようだ。茶色ウサギの入り込む余地は、ない。
だが、彼は雨の中に出て行かなかった。その異様な光景に、完全に気を飲まれていた。彼が帰ろうと思ったときに背を向けて真っ直ぐ巣穴へ帰っていれば、雨に打たれたかもしれないが、望み通りに帰れただろう。だが、彼は見てしまった。死んだ雌ライオンの下から一頭の子ライオンが這い出して来るのを。
しかも、そいつと目が合ってしまった。
あたりには、ナイフを持つウサギ達の言葉にならない叫びが響いていた。
子ライオンはまずいと思った。あの茶色いやつと目があっただけならまだしも、体がまだ半分しか出ていなかったのだ。このまま体を引きずり出す前に、やつが地面のナイフを拾って斬りかかってくる方が絶対に早い。
では、また母親の体の下に引っ込むか?
しかし、彼は臆病なウサギとは違う。子供と言えども、サバンナ最強の遺伝子を受け継ぐライオンなのだ。ここで退くなどという選択肢はなかった。
彼は、体をひねって何とか母親の体重がかかる下半身を外に引きずり出した。
おそらく、ショットガンで頭を吹き飛ばされた時に、母親の死体は傍にいた子供の方に倒れ込んだのだろう。おかげで、母親の死体の下でこの惨劇を生き延びることが出来たようだ。それが雌ライオンの最後の意思の力だったのか、偶然と自然界の妙なる技が絶妙に合わさった奇跡なのかは分からなかったし、どうでもいいことだと茶色ウサギは思った。
とにかく今重要なことは、自分は一体どう行動するのか、ということだった。長老の話も気にはなっていた。確かに、喰う訳でもないのに殺すのは自然界の営みに反しているし、自分がそれに参加したいかと言えば――したい気持ちはあったが、やはり死ぬかもしれないというリスクを負うことになるのは嫌だった。
そうだ、このまま静観していよう。その後、知らん振りして帰ればいい。危険なことはこいつらに任せて、自分は後で安全なサバンナで新芽を食べればいいんだ。それで自然界の掟にも違反しないし何のリスクも負わずにいい思いが出来る。
素晴らしい名案だと思ったが、官軍がこっちをジッと凝視していた。何もしないのにも勇気がいる。あの官軍が――ライオン相手に一歩も引かずに皆殺しにして、長老相手に一歩も譲らなかったあの官軍が――あきらかに子ライオンを見逃した者をそっとしておくだろうか。もしかしたら殺されるかもしれない――いや、いくらコイツでも同族殺しの掟まで破るだろうか――破る可能性は0とは言い切れないし、少なくとも新芽を食べることは許してもらえないだろう。戦ってない者に食わせるものはないとか言って。しかも、今の官軍は特に機嫌がわるそうだった。ここで逃げれば見せしめとか言って本当に殺されかねない。それだけは嫌だ――茶色のウサギの心の中ではそんな風に天秤があっちこっちに振れていた。どう行動すればいいのか。だが、そんなことを考えている間に子ライオンはほとんど外に這い出ていたし、それを眺める官軍の眼付きは――ますます厳しくなっているではないか。
もう、考えている時間はなさそうだ。
とにかく、ここでは官軍に殺されるかもしれないという、生命の危険を冒す訳にはいかない。とりあえず、この子ライオンにはかわいそうだが死んでもらおう。その後、出来るだけ自然に官軍一味から抜け出す。それが最もリスクの少ない身の施し方だ。
もう、やるしかない。
茶色いやつがナイフを拾ってこっちに向かって走って来た。ようやく引っかかっていた後ろ足も抜けたところ。間に合うか。草むらに向かってしびれが残る足を必死に動かす。
逃がすものか。慣れないナイフを持ってすら、生まれたて同然のライオンより早く走る自信はあった。しかもこの頃、ちょうど白ウサギたちは虐殺を終えて動かなくなった死体から茶色のウサギへと視線を移していた。この場の全員が子ライオンと茶ウサギの戦い(と呼べるかどうかも分からないが)に注目していた。ここで失敗する訳にはいかない。
茶色のウサギはナイフを持って全力で走った。ライオンに追われているのと同じくらい真剣だった。
そのおかげで、草むらに入り込む前に子ライオンのプリプリしたお尻に追いつくことができた。とっとと終わらせてうまい新芽を腹いっぱい食おう――
茶色のウサギはナイフを大上段に振り上げた。
振り返ってみると、そこにはウサギとは思えない必死の形相をした顔があった。子ライオンはこれで自分も親兄弟と同じところへ向かうのだと覚悟した。
だが、子供とはいえやはりライオンだった。タダで死んでやるものか。戦士の血が騒いだ。
子ライオンは前足を振り上げると、その顔面に猫パンチをお見舞いしてやった。いつも狩りのときに母親がやっていたみたいに。
突然の予期せぬ反撃に、茶ウサギは完全に不意をつかれてしまった。猫パンチは、モロに彼の顔面の真ん中に命中した。だが、ここで諦める訳にいかないのは茶ウサギにとっても同じだった。みんなが見ている前で、こんなちょろい獲物を逃すわけにはいかない。
何とか痛みに耐えてナイフを振り下ろしたが、それは子ライオンの顔の真ん中――目と目の間を斬っただけにとどまった。もともとナイフの使い方など知らなかったから見よう見まねだったし、振り下ろす場所も決めてなかった。適当に突き刺せばそれで殺せると高をくくっていたのだ。それに対して子ライオンには天性の素質があった。それは生物としての素質でもあるし、またハンターとしての素質でもある。とにかく、パンチは完全にウサギの急所をとらえていた。
パンチを喰らった衝撃で、茶ウサギの姿勢は完全に崩れた。そして、ウサギは恐怖感からその崩れた状態(後ろに倒れこむ寸前の状態)で、めちゃくちゃにナイフを振り下ろしてしまった。
それによって子ライオンの顔には一生残るくらいの傷がついたが、致命傷には至らなかった。茶ウサギがついに地面に倒れこむ。
「うわーー!! あっちにいけえ!!」
完全に取り乱したウサギは目蔵滅法にナイフを振り回したが、全て空を切るばかりだった。
すでに、子ライオンは雨降りやまぬサバンナへと逃げ去っていたのだ。草むらへ続く足跡だけを残して。
動物戦場 セルコア @basyaumapony
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